第12話 2019. 2 WED O. 全員の力を結集し、ようやく完成した佃製作所と帝国重工の無人トラクター「ランドクロウ」。 しかし、発売から数週間経ったあとも売り上げが伸びずにいた。 一方、ギアゴースト&ダイダロスが手掛ける「ダーウィン」は好調そのもので、差は開くばかり。 形勢逆転を狙う帝国重工の次期社? 候補・は、ある手段に出る。 それは、ダーウィンチームに力を貸し、なおかつ帝国重工の取引先である下請け企業に圧力をかけるというものだった。 それにより、徐々にダーウィンチームから離脱企業が増え、ついにはダーウィンの在庫が底をつく。 思わぬ形でライバルの勢いを止めたら佃製作所のメンバーだったが、自分たちの技術力による正当な評価ではないため、心境は複雑なものだった。 逆に、窮地に立たされたとは思わぬ一手を放ち・・・。 バックナンバー•
次のTV番組『ガイアの夜明け』にも登場の有名社長を直撃! 世界が認める品質を生み出す日本の町工場で働くスゴさとは? なんでも、JAXAの小惑星探査機「はやぶさ2」の製造に関わる企業での、部品製作などを体験できるという。 下町ロケットさながら、トップクラスの技術力に触れられる滅多にない機会といえよう。 しかし、そこは厳しい職人の世界。 いざ飛び込むとなると若干の不安もある。 モノづくりを極める少数精鋭のプロ集団というイメージが強い町工場ゆえに、実際にどのような仕事をしているかについては、外部からうかがい知ることは難しい。 そこで、知られざるその実態について探るべく、とある町工場を訪ねてみた。 深海探査艇や電気自動車など最先端プロジェクトの一旦を担う町工場を直撃 訪れたのは、墨田区にある浜野製作所。 世界トップシェアのメーカーや、宇宙開発関連の企業など、誰もが知っているような超有名なクライアントを多数持つ町工場である。 こちらが電気自動車「HOKUSAI」。 地元ゆかりの浮世絵師、葛飾北斎にちなんだネーミングだそう(写真提供:浜野製作所) 町工場発の「匠の技」が世界に羽ばたく 最盛期には墨田区に9700くらいあった町工場も、いまでは3分の1以下に減ってしまうなか、培った技術力を高いデザイン性を持った製品に反映させ、世界に認められた町工場もある。 浜野製作所は、まさにその代表格。 精密板金加工やプレス加工といった加工技術から部品などの製品の開発設計まで、幅広い分野において高い技術力を誇り、大量生産ではなく品質にこだわった「少量多品種」の製品作りを徹底している。 浜野社長「うち以外にも がんばっている町工場はたくさんあります。 たとえば、『伊藤バインダリー』という製本をしている会社は、厚い紙を90度の真っ直角に裁断するという技術を持っているのですが、その技術をつかってメモブロックを開発したんです。 ブロック状に重ねた紙を究極に垂直で美しく裁断できる技術は稀なので、グッドデザイン賞を獲得してヨーロッパなどで展開されています。 また、シャツの衿や袖のパーツだけを作っていた会社は、『MERI』というニット製草履ブランドを立ち上げました。 日本でこうした技術力が培われる背景には、日本人特有の高い職人マインドがあるという。 浜野社長「主観になりますが、海外の技術者は図面に書いてあることしかやらないことが多いんです。 でも日本人は、『ちょっと危ないかも』とか『もっとこうするといいかも』と気づいたら手を加える。 これは、学んでできるようなものではなく、文化として育まれたものなのではないかなと思います。 ここはなかなか諸外国の職人が追いつけるものではないので、そこを磨いていくことができる町工場がこれからの時代は生き残っていけるのではないでしょうか」 そう熱く語ってくれた浜野社長。 「下町の小さな町工場でも世の中のため、人のため、子供から高齢者までのために出来る事がある」と話す姿からは、ふつふつと沸き上がる職人魂が感じられた。 日本人の努力と創意工夫の積み重ねによって、世界から認められる技術力が育まれてきたのかもしれない。 浜野社長が職人を目指したワケは? 現在は社長業に専念されている浜野さんだが、10年ほど前までは金属加工の現場で30年近く働いていたそう。 当時を振り返り「最初のうちは仕事が相当しんどかった」と話す。 浜野社長「4年制大学を卒業してから、当時父親が社長をしていた浜野製作所に入る前に、修行のため別の町工場でお世話になっていました。 私はもともとモノづくりが好きだったというわけではなく、大学も文系だったんです。 正直、製品を作らせてもらっているときも、『こんなことして何になるんだろう…』と思ったこともあります。 あと、技術を学ぶにあたっては意外と数字を使うので、苦手な数字と向き合わなければいけなかったことも苦痛でしたね」 大学を卒業してから半年くらいして参加した同窓会で、周りがパリッとしたスーツを着ているなか、作業着で参加したという浜野社長。 かつてともに学生生活を謳歌した仲間との差を目の当たりにして、「羨ましいとは思わなかったけど、そっか、俺は町工場で働いているんだ…」と複雑な心境になったそう やはり、なかなか厳しい世界のようだ…。 だが、モノづくりに興味がなかったという浜野青年は、なぜ技術者として生きる道を選んだのだろう? 浜野社長「じつは、大学後の就職先は大手の商社に決まっていました。 ですから、親父の後を継ぐつもりは毛頭ありませんでした。 というのも、家族経営だった浜野製作所を小さい頃から見ていて、父親も母親も本当に大変そうだったんです。 自分は親のようにはなりたくないと思っていましたね」 しんどい反面充実感に満ちた町工場での仕事 そんな浜野社長に転機が訪れたのは、ひょんなことから父親とサシ飲みをしたときのこと。 浜野社長「大学を卒業する前のことですが、珍しく親父と二人で飲んだ時。 それまで、親父は仕方なく今の仕事をしているのかなと思っていたんですが、 本当は誇らしくて心から面白いと感じながら仕事をしていることを初めて知りました。 その熱い想いに触れたことで、『サラリーマンは代わりがきくかもしれないけど、浜野製作所は俺が継がないと終わってしまう』ということに思いがいたり、何とも惜しく感じられたんです。 それで、親父がそこまで誇りを持っている仕事をやってみたいと思いました」 何だかドラマ以上にドラマティックな話である。 入所当初はモヤモヤする気持ちはありながらも、続けていくうちに「できなかったことができる喜び」を少しずつ感じられるようになったとか。 浜野社長「町工場で働く魅力は、やはり 自分の手でこだわりのある製品を作れることが一番ではないでしょうか。 じつは作っている部品については、発注元から何に使われるのか知らされないことがほとんどです。 でも、なかには 後から、どんな製品の部品なのか教えてもらえることもあって、何に使われているか分かるとそれはそれで嬉しいですし、誇らしく感じますよね」 会社を継いでからは社員二人しかいない時期も経て、今は34人のスタッフが働いているそう。 一橋大学や早稲田大学、美大卒など高学歴社員も抱え、若者からも人気の町工場として注目されている会社へと成長したのだ。 というわけで、今回は厳しいながらも夢がある町工場のお仕事についてうかがった。 今回の激レアバイトでも、浜野製作所に負けないくらいの熱い技術者魂を感じることができるはずだ。 文系・理系関係なく、興味がある人はぜひ応募してみてはいかがだろう。
次の本社板金工場であるGarage Sumida ガレージスミダ は、東京都墨田区八広4-39-7に所在しています。 本社工場に隣接して第1~第3工場までがあり、赤い建物と『Hamano』の会社ロゴが目を引きます。 浜野製作所の創業は昭和43年6月(1968年)。 創業者である浜野嘉彦氏がこの地に工場を立ち上げたことからスタートしました。 平成5年3月(1993年)には創業者の浜野嘉彦氏が死去し、息子である浜野慶一氏が跡を継いで代表取締役社長に就任。 ただ、その約7年後に本社工場が近隣のもらい火により火災。 このとき工場は全焼し、工場の機能を果たせないほどの被害を受けました。 浜野製作所社長:浜野慶一の経歴 浜野製作所の浜野慶一社長に、ものづくりに懸ける熱い想いをお伺いしました!研究者として学ぶところがたくさんありました。 浜野製作所さんは深海探査艇「江戸っ子1号」を作られた会社です! — Singularity Biology SingularityBio1 2020年現在社長を務めるのが浜野慶一氏。 前述の通り、慶一氏は創業者である浜野嘉彦氏の息子。 浜野製作所の公式ホームページによれば、略歴は以下の通り。 1962年東京都墨田区生まれ、1985年東海大学政治経済学部経営学科卒業、同年都内板橋区の精密板金加工メーカーに就職。 1993年創業者・浜野嘉彦氏の死去に伴い、 株 浜野製作所 代表取締役に就任、現在に至る。 現在はメディア取材にも積極的に応じられている慶一氏ですが、もともと父親が創業した浜野製作所を継ぐ気はなかったようです。 ただ、あるとき父親からモノづくりに対する熱い気持ちを聞いたことがきっかけとなり、同じ道に進むことを決意。 その後は浜野嘉彦氏の元で修行の日々が続いたとのことです。
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