現代アートの伝説アンディ・ウォーホル。 その黄金期は言うまでもなく、ポップアートや実験映画などでその名を美術史に永遠に刻んだ1960年代。 有名人、死、企業製品などをモチーフにしたシリーズのほか、「アンダーグラウンドの帝王」としてパーティや音楽興行までも創作素材にし、ポップ・アーティストとして眩しすぎるオーラを放っていた。 アーティストやミュージシャン、詩人や俳優、モデルやドロップアウトした若者たちが行き交う文化的サロンとなっていたウォーホルのファクトリーに、突然一人の女神が舞い降りる。 誰もが心を奪われる彼女の名はイーディ。 カリフォルニア・サンタバーバラの名家、莫大な資産を築くセジウィック家の令嬢。 貧しいチェコ移民で容姿にコンプレックスがあり、スターやセレブが大好きなウォーホルにとって、イーディ・セジウィックはまさに完璧な存在だった。 イーディもまた、自殺した亡き兄を彷彿とさせるホモセクシャルのアンディに特別な感情を抱いた。 ブレーンの反対を押し切って、彼女を当時熱中していた映画 63〜66年に約60本も制作 に起用する。 ウォーホルは言った。 「彼女は何をやらせても僕よりうまい」 イーディは、ファクトリー・ガールとして ウォーホルのミューズとなった。 自由気ままに振る舞い、優美さも兼ね備えた彼女はどこに繰り出しても周囲を魅了した。 彼女はいつも出て行こうとしていた。 良いムードのパーティの時もそうだ。 イーディはいつもそんな感じ。 アンディといた時、私はジャズ・バレエを1日2回踊った。 誰もこんなダンスで楽しい気分になるとは思わなかったけど、レオタードを着てつま先で立ってみた。 しかし、華やかな時は長くは続かない。 その一番の原因は、 ボブ・ディランとの恋だった。 ウォーホルとディラン。 北極と南極ほどの遠く対照的な存在。 皮肉屋のディランは「激動の世界でゴミを描いている。 スープ缶の中身のように空っぽ」とイーディの前で言い放つ。 1966年、二人は決別。 ウォーホルの心はすでにヴェルヴェット・アンダーグラウンドとニコに夢中になっていた。 イーディの運命はこれ以降、急激に転落していく。 もともといびつな家庭環境から逃れるために実家から飛び出した彼女は、心の闇と孤独に闘っていた。 ディランにも去られ、父親から生活費の援助を断たれたイーディは、ドラッグに溺れて精神を蝕んでいく。 自宅は火事に見舞われ、ヴォーグからも愛想を尽かされ、すべてを失っていくイーディ。 そんな時、美術学校時代の親友シドが現れる。 彼が差し出したのは、ニューヨークに行く前に撮った1964年の1枚の写真。 涙が止まらなかった……。 シエナ・ミラーがイーディを、ガイ・ピアースがウォーホルを演じている。 イーディは1971年11月15日、ドラッグの過剰摂取により28歳で死去。 死亡記録の職業欄には「女優」と書かれてあったそうだ。 なお、ディランの「女の如く」を収録したロック史に輝く金字塔『ブロンド・オン・ブロンド』は、イーディとのロマンスなくして生まれなかった。 1965年。 イーディとウォーホルはニューヨークの中心だった。 予告編.
次の2008年10月30日 06時28分 夭折した13人のホットな女性たち マリリン・モンローやシャロン・テートのように、今後の活躍が期待されていながら早くしてこの世を去ってしまった女優や歌手などホットな女性13人です。 中には病気で亡くなった人もいますが、自殺か他殺かわからない人、惜しくも事故で亡くなった人、殺害された人などいろいろです。 果たして彼女たちが存命だったらどのような活躍をしていたのか、とても気になるところです。 詳細は以下から。 その後、地下鉄から吹き上げる風でスカートが舞い上がっている予告ポスターが有名な「七年目の浮気」などでトップスターとしての地位を確立しました。 しかし精神的に不安定な時期があり、睡眠薬の飲み過ぎで精神病院に入ることもありました。 亡くなったのは1962年8月、睡眠薬を大量に摂取して自宅ベッドで死亡しているところを発見されました。 モンローはJ・F・ケネディ大統領やその弟ロバート・F・ケネディ司法長官らと関係があったとされ、単なる中毒死・自殺ではなく謀殺されたという説も根強くささやかれています。 たいへんな美人でかざらない性格と喜劇的な演技が評判でした。 妊娠8ヶ月でロサンゼルスの自宅にいるところをチャールズ・マンソン支持者4人に襲撃され、「まだ産まれていない子どもの命だけは助けてくれ」と懇願しましたが4人はこれを無視し、彼女を16回刺して殺害しました。 1980年代初頭に殺害グループの1人が仮釈放の機会を得ましたが、シャロンの母ドリスは仮釈放に反対するキャンペーンを開始、これをきっかけにカリフォルニア州では仮釈放や判決の際に被害者やその家族が意見を述べることができるように州法の改正が行われました。 2002年にホンジュラスで友人らを乗せてSUVを運転中、道路脇の樹木に激突して頭部を強打して亡くなりました。 「The Last Days of Left Eye」というリサのドキュメンタリー番組で、リサが交通事故を起こすまでの瞬間を収めたムービーが公開されましたが、このときリサがシートベルトをしていなかったことが確認されており、そのことが頭部の致命傷につながったと見られます。 事故の映像は以下。 1937年、26歳の若さで腎不全のため亡くなりました。 マリリン・モンローは亡くなる直前にジーン・ハーロウの伝記映画でジーン役を演じる予定になっていたそうです。 1995年にマーシャルが死亡し、その莫大な遺産をめぐって義理の息子で28歳年上のE・ピアース・マーシャルとの裁判沙汰になったり、長女の父親として弁護士のほか芸能ジャーナリストなど3名が名乗り出てDNA鑑定を行うなどたびたびワイドショーを賑わせていました。 2007年2月8日、フロリダのハードロックホテルの部屋で倒れているところを友人が発見、体内から11種類の薬物反応があり、薬物の過剰摂取 オーバードーズ による死亡と判断されました。 その後、対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動に携わっていましたが、パリで自動車事故に遭い亡くなりました。 このとき、パパラッチが執拗な追跡を行っていたり、運転手が抗うつ剤を飲んだり過度の飲酒をしていたという話があったりと、何かと話題になりました。 モデルとして成功をおさめ、女優としても2本の映画に出演して華々しい道を歩き始めたところでしたが、夫ポール・スナイダーとの別れ話のすえに銃で顔面を撃たれて死亡。 直後、スナイダーも拳銃自殺を遂げました。 最初は父親の経営するメキシコ料理店で歌っていましたが、12歳という若さでアルバムデビューし、1987年にテハーノ・ミュージック・アワードで最優秀女性ボーカリストなど2部門に選ばれました。 1995年にはグラミー賞のメキシカンアメリカンアルバム賞を受賞するなどしましたが、経営していたファッション店をまかせていたファンクラブ会長Yolanda Saldivarによる横領が発覚、書類を受け取るために出向いた先でSaldivarによって射殺されました。 その後、1997年にジェニファー・ロペス主演による伝記映画が公開されています。 1965年にはガールズ・オブ・イヤーに選ばれるなどしましたが、成人して以降は薬物やアルコールとの戦いの日々でした。 1971年11月15日にサンタバーバラのファッションショーに参加してゲストに「ヘロイン中毒者」などと呼ばれ、その夜に規定量以上のバルビツル酸塩 睡眠薬 を摂取、翌朝に夫が見に行った際にはすでに死亡していました。 11歳のときにデビューして以来ファッションショーや雑誌などでキャリアを重ねていましたが、1995年にフロリダの自宅で無意識で倒れているところをニキに発見され、意識が戻らないまま亡くなりました。 突然の不整脈と、それによって急性のぜんそく発作がおきたのが死因だと考えられていますが、心臓に持病はありませんでした。 1980年代初頭にヘロイン中毒になって性格が暴力的になって不安定になり、ファッション誌「ヴォーグ」1980年11月号に掲載された写真はエアブラシで処理されたにもかかわらず注射跡が確認できるほどでした。 こうして静脈注射を繰り返していた結果HIVに感染し、エイズの合併症で1986年に亡くなりました。 エイズによって死んだことを明らかにした最初の有名人の一人でもあるそうです。 1998年に彼女の人生を描いたドラマがアンジェリーナ・ジョリー主演で製作されました。 モンローとともにプレイボーイ誌に定期的に現れ、また公の場で"偶然に"胸を露出することでも有名でした。 数多くの映画に出演したマンスフィールドですが、1967年6月28日、運転手や弁護士、子ども3人を伴って移動中にミシシッピ州のハイウェイで乗っていた自動車が前を走っていたトレーラーに激突、後部座席にいた子ども3人は無事でしたが、大人3人は即死しました。 この事故を受け、トレーラーの後部には「マンスフィールド・バー」と呼ばれるリアバンパーが取り付けられるようになったそうです。 15歳でアルバムデビューしましたが歌手だけにとどまらず、映画「ロミオ・マスト・ダイ」ではヒロインを演じるなどの活躍を見せていました。 2001年、「Rock the Boat」のPVを撮影後にバハマからフロリダに戻る予定でしたが、セスナがバハマを離陸直後に墜落、アリーヤを含む乗員乗客全員が亡くなりました。 墜落の原因はパイロットが資格証明書をでっちあげていた、荷物積載量が多すぎたなどいくつか挙げられていますが、特定はされていません。
次の写真の彼女は、 イーディ・セジウィック Edie Sedgwick (1943-1971)。 マイケル・ジャクソンの死因で、「薬物の過剰摂取」ではないかという情報が流れていますが、「薬物の過剰摂取で亡くなった人」と聞くと、私はジャニス・ジョプリンと、イーディの2人をすぐに考えてしまいます。 イーディーは、牧場主の父と旧家の出の母との間に生まれました。 兄の自殺など、複雑な思春期を過ごしたイーディーは、21歳の時、アーティストのアンディー・ウォーホルと出会います。 アンディの「ファクトリー・ガール」となり、数々の映画に出演。 ヴォーグのモデルにもなりました。 しかし、その後ボブ・ディランと親密になり、アンディとは距離を置くようになります。 それからはドラッグを過剰に摂取するようになり、入退院を繰り返します。 その後、退院をし一般の人と結婚をするも、やはり薬物の過剰摂取で28歳で短い生涯を閉じます。 イーディーの生涯はここではとても書ききれませんが、私は彼女の特徴的なメイクやファッション、生き方にとても強く惹かれるのです。 理由を聞かれると困ってしまうんだけど。 彼女が魅力的だからとしか、答えようがありません。 マイケル・ジャクソンとの共通点はなにもないのだけれど、「あたりかまわず人を惹きつけてしまう引力」を持ち、自分もそれに翻弄されてしまうほどの魅力は、コントロールするのが難しいのだろう。 と、そんなことばかり考えてしまう今日この頃です。 >orvalさん わーお。 遠く離れた場所なのに、シンクロしましたねー。 ぜひ、ジャニスの事を書いてください!楽しみです! 高校生の時はジャニスが大好きでした。 ジャニスの曲「メルセデス・ベンツ」を作った人は、イーディーとも親密でした。 もしかしたら、2人はどこかであっているかもしれない・・・。 イーディーはスタイルも良くて憧れますが、大きなイヤリングや黒いタイツ姿、クレオパトラのようなメイクなど個性的なファッションも大好きです。 長生きして欲しかった。 由美かおるさんは今も現役で、しかもスタイルを維持していて素晴らしいですよね。 入浴シーンに人気があるわけですね。 日本では「体のラインを強調する」という事自体、時代的にはあまりなかったのかもしれませんねー。 カカト• 昨年思いがけず入院など致しまして、その折には見舞いのコメントを戴きましたが、こちらにすぐお返しのコメントが出来ずに失礼致しました。 ちょうど入院した頃に書かれたこの記事を発見。 しかも、トラックバックURLがある・・・ということで、TB持参致します。 麻薬で自滅する人を描いた作品を、実話・創作を問わず、たくさんありますから新味が余りなく面白いとは言いかねますが、彼女自身に興味のある女性ファンなら作品も面白く感じられるでしょう。 ジャニス・ジョプリンが亡くなった年には、ジミ・ヘンドリックスも薬物(麻薬ではないらしい)絡みで亡くなっていますよね。 いずれも物凄い才能の人達ですから、この年のロック関係者の喪失感は相当なものだったでしょうね。 新年早々にはふさわしくない話題でしたが、今年も宜しくお願い致します。 そして、大変お久しぶりです。 ご無沙汰しまして失礼しました。 トラックバックは、テンプレートを変えたらなんだかくっついてました 笑 現在我が家は、私の映画の頼みの綱である衛星放送とWOWOWがなぜか映らなくなってしまい、映画とは縁遠い寂しい生活を送っています。 早急になんとかしたいところです。 >彼女自身に興味のある女性ファンなら作品も面白く感じられるでしょう 私はまさにこれです。 彼女の生涯はもちろん、起きた出来事をすべて知りたいと思っていたので、映画はとても面白かったです。 私が27歳の誕生日を迎えたとき、「これでジャニスの年を越してしまった。 ジミ・ヘンの年なんてとっくに越えてしまった。 」と、さみしく感じました。 どうでもいい情報でした・・。 しかし、新しい年を迎えたということはまたひとつ年を取るのですね・・・。 オカピーさんがお元気になられたこととても嬉しく思います。 ぼちぼちと映画を観る時間を作って、またオカピーさんのブログにもお邪魔したいと思います。 今年もどうぞよろしくお願いします。 カカト•
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