事件の概要ですが、本人と家族との間で、術中輸血をしないことによっていかなる結果が生じても病院や医師に対して、一切の責任を追及しない旨の書面を差し入れて、悪性の肝臓血管種の切除術を受けたが、術後管理の安全性から濃厚赤血球600ml、新鮮凍結血漿600mlが輸血され、輸血がなされたことの説明は患者側に一切無かった。 輸血については箝口令を引いていた。 というものです。 患者側は、慰謝料1000万円、弁護士費用200万円の賠償請求を求めました。 提訴後3年を経て、前記のような合意は公序良俗に反して無効であるとの判決が下されました。 医療が患者の治療を目的とし救命することを第一の目標であり、人の生命は崇高であり、医師は可能な限り救命措置を取る義務があるとしたのです。 当然ながら不法行為責任も認められませんでした。 人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定することができると言わねばならないというのです。 医師は、本件手術に至るまでの約一ヶ月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が可能性があることを認識したにもかかわらず、患者に対して方針を説明せず、輸血する可能性があることを告げないまま本件手術をし、右方針に従って輸血をした。 そうすると、医師は説明を怠ったことにより、輸血を伴う可能性のあった本件手術を受け入れるか否かについて、意思決定をする権利を奪ったので、精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うとして、55万円の賠償を認めたのです。 それは、裁判所が医師の地位が圧倒的に上にあり、患者と対等になっていない現状を色濃く反映、追認しているからだと思います。 あるべき医療の姿を想定して、判断をしていかないと、いつまでも医師本位の医療は続くでしょう。 医師自身が患者が自分の娘だったら、自分の母親だったら同じように説明をしていたでしょうかということです。 手術の危険性、他の治療法について、自分の身内だったら徹底的に検討、説明するのではないでしょうか。 自分の身内でない患者に対しては、確定診断方法があるのに、それをせずに不可逆的変化を患者にもたらしてもごめんなさいで済む世界は間違っていると思います。 裁判官にも問いたいです。 自分が患者だったらどうですかと・・・。 がらっと変わったのは、裁判官が病気で長期入院したことが原因らしいのです。
次の外傷や手術による出血や血液疾患等の治療において、必要な場合には輸血により救命を図るというのが医師にとっては常識である。 しかし信仰上の理由から輸血を拒否する患者がその意思に反して輸血された場合に、患者と医療機関の間で訴訟となることがある。 すなわち、医療上の救命行為と信仰とのいずれが優先されるかという問題である。 医師と患者の倫理観あるいは価値観に相違があり、それが医療行為そのものに直接影響する場合、医師あるいは医療機関はどのように対応することが求められるだろうか。 1 絶対的無輸血と相対的無輸血 信仰上の理由による輸血拒否は、その代表的な宗教として挙げられる「エホバの証人」の信者が国内だけでも約21万人(2009年)いることからみても稀ではなく、どこの医療機関においても生じうる事例である。 実際には、エホバの証人の信者の間でも輸血についての解釈には幅があり、目の前の患者の意思確認が重要となる。 輸血拒否といっても、たとえ生命の危機に陥るとしても輸血を拒否する絶対的無輸血の場合と、生命の危機や重篤な障害に至る危機がない限りで輸血を拒否する相対的無輸血の場合がある。 実際に医療現場で問題となるのはいうまでもなく前者の場合である。 2 待機的手術における輸血拒否への対応 絶対的無輸血の事例について最高裁判所は、手術に際して救命のために輸血をする可能性のあるときには、医師は、そのことを患者に説明し、手術を受けるか否かは患者の意思決定に委ねるべきであるとし、その説明を怠った医師には、患者の人格権侵害について不法行為責任があるとの判断を示した(最高裁第三小法廷判決 2000年2月29日)。 この事例は待機的手術時の輸血に関する手続きが問題とされており、判決文では医師は輸血を拒否する患者の自己決定権を尊重し、患者に自己決定権行使の機会を与えなければならないとしている。 しかし、医師が患者の意思に従い無輸血下での手術をしなければならないとは命じていない。 したがって、このような場合の医師や医療機関がとり得る選択肢は以下の2つとなる。 後者の場合には、手術時に一般的な注意義務を尽くしている限り、患者が出血死しても医師は法的責任を免れると考えられる。 3 救急医療など緊急時における輸血拒否への対応 待機的手術に際しては患者への説明と同意に時間をかけて対応することが可能であるが、さらに問題となるのは、救急医療など事前に患者の意思が確認できない状況での緊急輸血時である。 具体的な症例を目の前にしてからでは対応が困難であり、緊急時の対応については、あらかじめ医療施設として方針を定め、それを院内掲示やインターネットのホームページ上などさまざまな手段・機会を通じて患者や周辺の一般市民に示しておくことが望ましい。 つまり、事前の対策が重要ということである。 実際に、緊急かつ必要なときには輸血をする相対的無輸血の方針で対応することを表明する医療機関が増えている。 相対的無輸血の方針が明示された医療施設において、患者がこれに応じなければ診療を断ることも許される。 ただし、医療施設は輸血拒否の患者に対する、すべての医療を拒否することは相当でない。 疾病の種類、処置の方法、内容などを勘案して、輸血なしに治療可能なものは治療に応ずることが適切である。 また、これらの対策を講じていても実際に患者の意思に反して輸血が施行された場合には法的責任は免れず、人格権の侵害として訴訟で敗訴する可能性は残る。 4 未成年者や意思確認ができない患者への対応 患者が未成年者の場合、親権者が必要な輸血を拒否することがある。 原則的に、判断能力がない場合を含めて患者本人に明確な輸血拒否の意思表示がない場合には、必要な輸血を行わない理由は見当たらない。 2008年2月の関連学会の合同委員会報告「宗教的輸血拒否に関するガイドライン」では、患者の年齢による対応を示し、15歳以上で自己決定能力がある場合には患者の輸血同意書により輸血を実施することとしている。 問題は自己決定能力がない幼少の患者への必要な輸血を親権者が拒否し、相対的無輸血や転院の勧告などの方策がとれない場合には、当該親権者について親権の濫用として児童相談所等を通じて裁判所に親権喪失の申立を行うことも考慮される。 実際に、緊急輸血を必要とした幼児が病院、児相、家裁の連携により救命された例がある。 5 まとめ 医師と患者の倫理観あるいは価値観の相違が医療行為そのものに大きな影響を与える場合には、お互いの立場や考えを明らかにし、合意点を見出す努力が求められる。 しかし、患者と家族の意向が異なる場合、救急時など意思確認が困難な場合や、患者が事故や犯罪の被害者であるなど他の要因が複雑に関与する場合などのように十分な理解を求めることが困難な場合があるが、このような場合にはそれぞれの状況により判断せざるを得ない。 しかしながら、事前に当該医療機関としての方針を策定・公開すること、関連ガイドラインを周知することが助けとなるものと考えられる。
次のものみの塔は1998年の記事の中でエホバの証人が「偽りの非難の標的にされ」ていることを取り上げ、次のように述べました。 しかし4年前の 自らの雑誌の中では輸血を拒否して亡くなった若者たちを称えて次のように述べています。 ) エホバの証人は医学的な面と宗教的な面を分けて考えることができない傾向があります。 それは「ものみの塔」の教育の影響のためです。 輸血に代わる「最善の医療」があるので輸血は必要ないと考えるのです。 しかし実際には輸血が唯一の救命手段であるというケースは多く存在します。 「輸血を拒否して死ぬ」という事実を認めたくないのは一種の防御反応のようなものなのかもしれません。 しかし防御反応が出ないときには多くの若者が輸血拒否を貫いて死んでいるという事実を認めるのです。 それが二つ目の引用に表れています。 子どもたちが示す信仰 子どもたちは大人と同じような信仰を表すことはあるでしょうか?確かにあります。 イスラム教徒の一人の女性は「わたしは子供たちを愛しています。 しかしムスリムとして私たちは無理してでも祖国の益のために自分の感情を犠牲にしなくてはなりません。 個人の関心事よりも、より偉大な関心事を優先しなくてはならないのです」と述べました。 そして彼女の子供のうち3人が自爆テロで命を犠牲にし、そのうちの一人は17歳でした。 エホバの証人の子供たちの中にもたとえ死ぬことがあっても輸血は拒否するという立場を自ら表明する子がいるかもしれません。 しかし考えなくてはならないのは、そのような未成年の子供たちが下した判断がどれだけ決定的なものかということです。 子供のころに親と共にエホバの証人として生活していた人が成人してから親の選択していた組織を離れるということは非常に多くみられることなのです。 なぜその子供たちは大人になってから組織を離れるのでしょうか?その一番大きな要素は 子供のころは知ることができなかった事実を知り、信仰を否定するようになるということです。 それは何を意味するでしょうか?それは子供のころに選択していた事柄は決して 「インフォームド・コンセント」や「インフォームド・チョイス」ではなかったということです。 選択の余地をもたない子どもたち ものみの塔協会は、エホバの証人の子供たちが国歌斉唱や誕生日の祝いに加わらない理由を説明することができるように「訓練」するように教えています。 そして「正しい」返答ができるように訓練されるのです。 そのような訓練を受けた子供は大人に対しても雄弁に答えることができます。 次の例を見てみましょう。 ・・・ですからわたしたちは,17ページで取り上げた若いクリスチャンが裁判所に対し,『輸血は私の体に対する侵害で, 強姦のようなものだと思う』と述べた理由を理解できます。 たとえ性的暴行による淫行が法的に認められたとしても,クリスチャンの女性が年齢のいかんにかかわらず,抵抗もせずにおとなしく強姦されるということがあるでしょうか。 同様に,同じページで取り上げた12歳の少女は,次のようにすることについて一点の疑問も残しませんでした。 『裁判所が輸血を許可しても, 全力を振り絞って闘います。 叫んだり暴れたりします。 腕から注入器具を引き抜き,ベッドのわきにある血液バッグを処分するつもりです』。 彼女は,神の律法に従うことを堅く思い定めていました。 裁判という特別な場で輸血が「強姦のようなものだと思う」と述べたり、「輸血を許可しても、全力を振り絞って闘います」といった誇張表現を使う個人がいても構いません。 しかし驚くのは、「ものみの塔」の執筆者が「 裁判所が輸血を命令もしくは許可した場合,クリスチャンはどれほど必死に抵抗すべきですか」という質問のもとに、その対応の代表例としてこれらの言葉を書き記しているところです。 しかも「叫んで暴れ」「腕から注入器具を引き抜く」と述べているのは12歳の少女です。 近年ヨーロッパの国も含め、幾つかの国でエホバの証人を法的に認可することを疑問視する動きが見られます。 どこにおいても共通している懸念事項に輸血拒否を信者に強要し、それに従わない者を排斥処分にしているという点があります。 ものみの塔の代表者は輸血拒否は 信者が自分で選んでいるにすぎないと主張します。 しかし上記の記事を見る限り、信者である以上、その人に輸血拒否以外の選択肢などないのは明らかです。 政府が輸血拒否とそれに伴う排斥の教えに問題視する際に、エホバの証人は自分たちが「義のために迫害されている」などと思うべきではありません。 政府は健全な社会を守る義務を感じており、信仰の自由を最大限認めつつも、許容できない非社会的行動というものを輸血拒否の教理の中に見出しているのです。 それは皇帝崇拝を強要してクリスチャンを迫害した古代ローマ世界とは全く異なります。 「腕から注入器具を引き抜き,ベッドのわきにある血液バッグを処分する」と述べた12歳の少女は生涯エホバの証人として生きるのでしょうか?そうかもしれません。 しかし親の影響から離れ、物事を自分自身の目で見ることができるようになったとき、違う歩みを始める可能性は十分あります。 確実に言えるのは彼女がもし死亡したら、その時点で選択肢が失われるということです。 このような事を考えると、未成年の子どもたちは時に社会が守る必要があるということを感じざるをえません。 へ進む に戻る 記事の終わり.
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