束帯を着用した皇太子徳仁親王(当時)、1990年(2年)11月12日の父上皇のにて (昭和35年)16時15分 、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、の・にて誕生する。 同日は(令和2年)以降、となる。 は「 浩宮」 ひろのみや 、は「 徳仁」 なるひと と、命名された。 誕生時から即位までの身位を付した呼称は、「 浩宮徳仁」(ひろのみや なるひと しんのう)、敬称は「 殿下」(でんか)。 1989年(64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父であるの崩御により、父の皇太子明仁親王(当時)の(第125代天皇即位)に伴い(第1位であるたる第1皇男子、)となり、1991年(平成3年)にはが執り行われた。 皇太子となって以降、即位までは、の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「 皇太子徳仁」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、含む政府機関では単に「 皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。 天皇即位以前(皇孫~皇太子時代)、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受けを務めた。 2016年(平成28年)1月28日には、時代の国事行為臨時代行として初のに対するを行った。 2019年(平成31年)4月30日午後12時の父親である第125代天皇の退位 に伴い、元年(2019年)午前0時 に、となった父帝・明仁より、およびに基づき、第126代天皇に即位する ()。 皇室男子として珍しく、(主に交通史、流通史)を専門とする。 また演奏、、を趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している。 来歴 [ ] 母: 皇孫時代 [ ] 1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、の・にて誕生する。 身長47センチメートル、体重2540グラム。 旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、に際してはが発行され、皇居内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、初のの親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。 同年2月29日ににおいて祖父帝のが「 浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)」と命名した。 「浩宮」の称号はのうちの『』第32章にある「 浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天 徳に達する者」を典拠とする。 「 肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、 浩浩たる其の天。 苟くも固に聡明聖知にして天 徳に達する者ならざれば、其れ孰か能くこれを知らん。 」 —『中庸』第32章 それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。 中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。 1964年(昭和39年)4月13日、に入園する。 同年11月1日には着袴の儀を行う。 両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。 ただし、のが、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。 徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた。 両親の下で、弟・、妹・とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。 1966年(昭和41年)4月8日、に入学する。 この頃から参与の指導でを始める(大学生の時にに転向)。 時代は、正規の授業のほか、「『 将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の」や、といった皇室史に関わる、、など日本の古典文学から、、、などを幅広く学習した。 「」の一環と考えられる。 では音楽部に所属しを担当した。 在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。 1982年(昭和57年)3月に学習院大学を卒業した()。 その後、同大学人文科学研究科博士前期課程に進学。 それまでの多くの皇族が、を中心としたを専攻したのに対して、徳仁親王は、の交通史・流通史という・に近い分野を専攻した。 1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、 ()に留学して、の水運史について研究。 1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科のをした(人文科学修士)。 この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めてに就いた。 皇太子時代 [ ] 1989年(昭和64年)1月7日、祖父のを受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇にした。 また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。 のなどを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日にが執り行われた。 また同日、皇太子の印とされる「」を父帝から親授された。 1993年(平成5年)1月19日、においての相手に(当時:北米局北米二課職員)を内定。 同年6月9日にが執り行われた。 小和田雅子との成婚までの経緯 [ ] 詳細は「」を参照 1986年(昭和61年)10月18日、で催されたの娘王女歓迎の茶会に、条約局長だったとともに招かれた、恆の長女でI種試験に合格して間もないと初対面を果たす。 1987年(昭和62年)4月25日には、が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。 こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・は銀行員であったが、四大公害病の筆頭であるを引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設されたに派遣されその後、社長に就任したことやの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。 しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。 宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元であり当時宮内庁参事であったの「江頭氏は再建のためからチッソに入った。 再建できなければ被害者への補償も不可能になった。 水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。 前宮内庁長官のは後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。 そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている。 また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる。 小和田雅子が英国留学から帰国した後に、宮内庁長官の依頼を受けた 、元外務次官が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。 同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。 小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている 」旨を伝えた。 そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。 12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。 翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。 翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。 同年4月12日の(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。 その他の有力候補には天皇の学友で元のの長女がおり、1988年(昭和63年)秋ののダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。 その後最も有力といわれた妃の候補にはでの長女(の大姪)がおり、数回見合いをして電話やのやり取りを重ね、前年には旧皇族のも当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった。 同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK()が中継放送した「」の平均視聴率は30. そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79. また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されてとなった。 また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。 皇太子妃雅子との成婚以降 [ ] 成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女のが誕生した。 皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。 また、の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるから名誉法学博士号を授与されている。 そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史のを続けている。 国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席したの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。 2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「」)。 同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。 同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。 2007年(平成19年)3月27日、定期でにが発見された。 同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープのによる切除手術を東京都ので受けた。 同年11月1日、「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。 日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である。 2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日したが団長を務める総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場に行啓し2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で台覧して言葉を交わしており、彭麗媛の夫ののと同様に「による皇室の政治的利用」と批判されることになった。 2013年(平成25年)3月6日、米国ので開かれた「水と災害に関する特別会合」で、で基調講演を行った。 同会合は、()など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である。 2016年(平成28年)1月28日、父帝・が(当時)とともに戦没者慰霊を目的とした訪問のために不在であったことから、でがからへ交代したことに伴う閣僚のを国事行為臨時代行の形で執り行った。 2017年(平成29年)6月16日、公布、同年12月1日開催の(議長:内閣総理大臣)及び開催のの定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、徳仁親王がに、第126代天皇に即位する日程が確定された。 天皇時代 [ ] 2019年(平成31年)4月30日午後12時、に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(元年)午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。 先帝・明仁は同日、となった。 第120代以来およそ202年ぶり、かつ、となった以降初めて、先帝からのに伴い即位した天皇となった。 また、59歳(数え60歳)での即位は、第49代の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目に高齢での即位である。 により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「が行われる日」とされ、共に同年限りで扱いのとなる。 代わって、弟・が皇嗣(第1位)となった。 即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「」に臨んだ。 これには、資格を有する成年の男性皇族、弟のと叔父の、その他三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)や政府閣僚()らが参列した。 その後に、をはじめ、皇嗣妃となったら、成年のらも参列に加わって行われた「」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。 5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が皇居で行われ、「おことば」を述べた。 「」も参照 5月9日、(常会)は、即位に祝意を示す「賀詞」をで議決した。 5月15日、も同様の「賀詞」を全会一致で決議し 、も、衆議院では条件付きで、参議院では異論なしに賛成した。 5月9日、離任する駐日大使のと即位後初の外国賓客の引見を行い 、国際親善の公務を開始した。 5月10日、は、(金貨幣およびバイカラー・クラッド貨幣)を発行することを発表した。 5月25日から28日の日程で、の及び夫人()が、令和時代初の国賓として訪日した。 天皇は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。 5月27日に、天皇とトランプ米国大統領、皇后とメラニア・トランプ大統領夫人が15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の観戦など日本文化の3つが話題になった。 一方、皇后雅子とメラニア大統領夫人との間では、子供のや、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と(職員)としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。 会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。 天皇・皇后は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。 大統領夫妻からは天皇が趣味で演奏するが、皇后雅子にはハーバード大学で伐採した樹木で創作されたが、それぞれ贈呈された。 贈呈されたビオラについて、皇后が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、天皇が笑顔を見せる場面もあった。 また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた。 2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式であるが執り行われた。 同年、にて開催された「」に際し、皇后雅子とともに二重橋に姿を見せ、「おことば」を述べた。 同年、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」(しゅくがおんれつのぎ)が執り行われた。 同年及びに、一世一度のである(だいじょうさい)の中心儀式・「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)を実施。 同年、天皇と皇后は皇居・宮中三殿の賢所で、に伴う一連の国事行為「」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神のに感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。 同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣夫妻をはじめとする皇族も参列した。 儀式では神楽の演奏の前に、16時半ごろ、黄櫨染御袍に身を包んだ天皇が賢所にて、のうち剣と璽(勾玉=まがたま)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。 続いて、の装束を着用した皇后も拝礼。 参列の皇族も賢所の前で拝礼した。 これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。 同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。 祝賀御列の儀に集まった観衆 即位後の1年間で、両親の上皇夫妻から公務を引き継ぎ、皇后同伴での日本各地への行幸啓(式典等含む)をした。 2019年(令和元年)は、「第70回」(:)、「2019開会式」(:)、「」(:)、「第39回」(:)、「第34回・第19回」(:)、「第74回」(:)、「第60回」(:)、「更生保護制度施行70周年記念全国大会」(:)、2020年(令和2年)は、「国立障害者リハビリテーションセンター及び国立職業リハビリテーションセンター創立40周年記念式典」(:)への臨席にて、「おことば」を述べた(「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」のみ、英語による)。 2019年(令和元年)、同年10月発生のなどの被災地を見舞うため、皇后同伴でとを日帰りで訪問した。 現地の負担を考慮し、両県間などの移動はヘリコプターを利用。 天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の徳仁即位後、初の機会となった。 天皇夫妻は同日、特別機でに到着後、ヘリコプターに乗り換え、10人が犠牲となった宮城県に移動。 阿武隈川(あぶくまがわ)の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。 仮設住宅の集会所では、被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらった。 では、決壊した安達太良川(あだたらがわ)堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた。 (令和2年)、即位後初の正月を迎え、重要な年始のである、の儀に臨む。 その後、とともに新年祝賀の儀に臨む。 、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む。 、の儀に臨む。 にの儀、にの儀に他のらとともに臨む。 同年、皇后雅子と長女の同伴で(東京都)を訪れ、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。 徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初のとなる。 愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった。 同年、での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞。 同年、即位後初ので60歳(還暦)を迎える。 同日実施予定の皇居での天皇誕生日一般参賀は、の影響のため中止となる。 その2日前の、での記者会見に臨む。 同年、宮内庁は、天皇即位に伴う事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。 寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。 宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇、皇后両陛下は、と、時に数多く発生したを契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。 ではが寄付をする場合、の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。 同年3月の(常会)本会議で、天皇がまでの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。 父明仁の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された。 4月10日、天皇夫妻は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長を招き、同氏による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた(3名全員着用)。 当初は4月6日に予定されていたが、の発令に際し、延期されていた。 天皇は冒頭、関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。 天皇夫妻はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した。 新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、天皇夫妻は同年3月、長女のの卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた。 天皇は同年4月14日午後、マスク姿で皇居に入り、との2つの品種の稲の苗となる種もみをまく農作業をした。 天皇による皇居でのは、が従事者の苦労を感じるために始めた。 天皇の代替わりのあった昨年の(平成31年)4月は父上皇(当時天皇)が種まきをし、天皇が田植えと収穫をした。 この米は、天皇が田植えや収穫をした後で、などで使用することを検討している。 年譜 [ ]• 1960年(昭和35年)2月23日16時15分 、東京都千代田区の、にて誕生。 父の皇太子明仁親王と母の同妃美智子(いずれも当時)の間の2男1女のうち、第1皇男子(第1子)。 1964年(昭和39年)• 4月13日、に入園。 10月29日、着袴の儀。 1966年(昭和41年)4月8日、に入学。 1972年(昭和47年)4月8日、に入学。 1975年(昭和50年)4月7日、に入学。 1980年(昭和55年)• 2月23日(成年:20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)。 11月30日、を親受。 1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学を卒業(文学士)。 1983年(昭和58年)10月15日、マートン・カレッジに入学。 1988年(昭和63年)、学習院大学大学院を修了(人文科学修士)。 1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、祖父崩御、及びに基づき父の(当時)が第125代天皇にしたことに伴い、(第1位、)となる。 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、(宮殿正殿・松の間)。 を親授される(宮殿表御座所・鳳凰の間)。 1993年(平成5年)• 1月19日(32歳)、妃に当時北米局北米二課職員であった小和田雅子が内定。 4月12日、(東京都・小和田邸)• 6月9日、(・)• 2019年(元年)• (59歳)、及び(2017年、平成29年法律第63号)に基づきし、第126代天皇に即位()。 同日、日本政府は徳仁に対し、、及びを譲与した。 剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀。 同年(59歳)、。 同年(59歳)、「」。 同年(59歳)、祝賀御列の儀。 同年・(59歳)、(大嘗宮の儀)。 皇子女 [ ] との間に、1女(1人)がいる。 (、第125代天皇)の皇孫にあたる。 委任を行った天皇 委任年月日 委任の理由 委任の期間 委任された事項 解除 終了 年月日 解除 終了 の理由 1987年 昭和62年 10月 03日 病気療養中 皇太子明仁親王外国旅行 当分の間 全般 1987年 昭和62年 10月10日 皇太子明仁親王帰国 1991年 平成 03年 09月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1991年 平成 03年 10月 06日 帰国 1992年 平成 04年 10月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1992年 平成 04年 10月28日 帰国 1993年 平成 05年 08月 06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年 平成 05年 08月 09日 帰国 1993年 平成 05年 09月 03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年 平成 05年 09月19日 帰国 1994年 平成 06年 06月10日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年 平成 06年 06月26日 帰国 1994年 平成 06年 10月 02日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年 平成 06年 10月14日 帰国 1997年 平成 09年 05月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1997年 平成 09年 06月13日 帰国 1998年 平成10年 05月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1998年 平成10年 06月 05日 帰国 2000年 平成12年 05月20日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2000年 平成12年 06月 01日 帰国 2002年 平成14年 07月 06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2002年 平成14年 07月20日 帰国 2003年 平成15年 01月16日 病気療養 当分の間 全般 2003年 平成15年 02月18日 病気快復の状況に鑑み 2005年 平成17年 05月 07日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年 平成17年 05月14日 帰国 2005年 平成17年 06月27日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年 平成17年 06月28日 帰国 2006年 平成18年 06月 08日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2006年 平成18年 06月15日 帰国 2007年 平成19年 05月21日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2007年 平成19年 05月30日 帰国 2009年 平成21年 07月 03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2009年 平成21年 07月17日 帰国 2011年 平成23年 11月 07日 病気療養 当分の間 全般 2011年 平成23年 12月 06日 病気快復の状況に鑑み 2012年 平成24年 02月17日 病気療養 当分の間 全般 2012年 平成24年 04月10日 病気快復の状況に鑑み 2012年 平成24年 05月16日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2012年 平成24年 05月20日 帰国 2013年 平成25年 11月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2013年 平成25年 12月 06日 帰国 2016年 平成28年 01月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2016年 平成28年 01月30日 帰国• 「委任年月日」は、官報に掲載された代行開始期日。 明仁(上皇、第125代天皇)の訪問国は、「」を参照。 発言 [ ]• 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」• 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」• 「のに行ってあれやこれや買うような方では困る」• 「誰とでも気軽に話が出来る人。 人と会った時でも話し合える環境を自然に作り出せる女性。 話す時は控えめではあっても、必要な時は自分の意見をしっかり言える女性」• 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」• 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。 「すぐ手の届くところに中世が存在する」• 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ 1264年創について。 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」• 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」• 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想。 「心から祝福いたします。 さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」• 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。 二人の結婚は私も強く勧めたところです。 私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」• 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、の婚約についての質問に対して。 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。 皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」• 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて。 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」• 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した。 「としての雅子のやを否定するような動きがあったこともです」• 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。 いわゆる。 「が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。 親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」• 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、についての質問に対して。 「昨年9月のの誕生を心から喜ばしく思います。 御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」• 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」• 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、第125代天皇とその皇后のこれまでの歩みについての質問に対して。 「の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。 私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」• 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて「誡太子書」に言及して。 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」• 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して。 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。 同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。 私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」• 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。 陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」• 同記者会見にて、御所での第125代天皇と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して• 「以来、これから私が担うこととなる重責について、改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが、その度に、両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。 また、両陛下から、様々な機会に、多くのお話を伺わせていただいていることも、今後公務に取り組んでいく際の大きな道標となるものであり、大変有り難いことと思っております。 これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去ののなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。 また、以前も述べたとおり、私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。 日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、、例えばや、などの影響を受けやすいことから、「」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います。 の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。 ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。 過去の天皇が歩んでこられた道と、とのの規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは、今も変わっておりません。 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。 私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して• 「及びの定めるところにより、ここにしました。 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。 顧みれば、にはにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。 上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代ののなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。 2019年(令和元年)5月1日、「即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば」• 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。 ここに『』を行い、即位を内外に宣明いたします。 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 2019年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」• 「上皇陛下の御退位を受け、昨年5月に即位して以来、国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし、今日まで過ごしてきました。 即位関係の諸行事を無事に終えることができ、安堵するとともに、国内外の多くの方々とお会いし、折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は、私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。 その一方で、昨年も台風や大雨により、多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。 寒さも厳しい折、住まいを失い、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。 本年は、災害がない1年となることを祈ります。 新しい年が、日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ、務めを果たしていきたいと考えています。 2020年(令和2年)1月1日、天皇陛下のご感想(新年に当たり)• 「御指摘のように、近年は特に変化の激しい時代です。 例として挙げられたAI()が数年前には今のように話題になっていなかったことや、今では当たり前に使われ、我々の生活を大きく変えているの普及、その一方で、各地で大きな被害をもたらす気候変動による自然災害の脅威が更に深刻になっていることなど、平成の初期と比べても、人々の生活環境は異なってきていると思います。 このような変化の激しい時代にあって、社会の変化や時代の移り変わりに応じた形でそれに対応した務めを考え、行動していくことは大切なことであり、その時代の皇室の役割でもあると考えております。 そのためにも、多くの人々と触れ合い、直接話を聞く機会を大切にしていきたいと考えています。 同時に、先に述べましたとおり、常に国民を思い、国民に寄り添い、象徴としてあるべき姿を模索しながら務めを果たし、今後の活動の方向性についても考えていきたいと思っております。 「即位の年齢については、歴代天皇の中では、より高齢で即位された天皇もおられますが、還暦を迎えるのに当たっては、もう還暦ではなく、まだ還暦という思いでおります。 2020年(令和2年)2月21日、自身の還暦(60歳)のかつ即位後初の誕生日(:2月23日)に際しての赤坂御所での記者会見での発言抜粋。 「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。 今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。 2020年(令和2年)4月10日、尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講時 人物 [ ] 逸話 [ ]• 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。 しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。 時代、をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。 しかし、4歳の時、「なぜ自分にはがないのか」と寂しそうに尋ねた。 7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。 「男の子は泣くものではありません」としつけられていたが、弟のが誕生しベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった。 は、とを中心に幅広く、特に日本各地のとのはしばしば国民の目をひく。 登山に関しては、登山専門誌『』や『』などに、幾度かも寄稿している。 このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般のの原則に従い、上皇を「父」、上皇后を「母」と呼んだ。 登山のほかにはとを好む。 普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。 2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。 は、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のなどで演奏することもある。 元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。 皇太子になる前には、歌手ののコンサートに赴いたこともある。 1986年(昭和61年)10月19日、でのコンサートに行き話題となる。 出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。 そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。 (父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「」であった。 カラオケで柏原の曲「」を歌うこともあった。 小学生の頃はのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。 を贔屓にしており、観戦した第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ。 また、のファンでもあった。 1988年(昭和63年)ののでは開会式後のを務めた この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園のでは開会式に親覧し、お言葉を読み上げた。 に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。 の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。 この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを訪問中であり、外国訪問を継続する予定であったが、訪問先ののの勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。 で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。 その後、2010年(平成22年)までに、被災地訪問を12回行い 、15周年の追悼式典には療養中の妃雅子を伴って夫妻で臨席した。 研究者として [ ]• (交通史、流通史)を専門としたきっかけは、「幼少時、母親の皇太子妃美智子(当時)と共に御用地を散策中にを見つけたことだ」という。 のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」について大変興味があった。 ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえの中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。 私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。 」と回想している。 第5回世界水フォーラムでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い会場は割れるような拍手に沸いた。 一方、基調講演では、弥生時代の「唐子・鍵遺跡」の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した「利根川の東遷」の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。 「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」とは評している。 外国滞在・訪問 [ ]• 1984年(昭和59年)への留学中、出席のため訪英していた首相(当時)に、英女王の夫は「浩宮殿下は完全にロイヤル・ファミリーの一員となっています」と伝えた。 2007年(平成19年)の 訪問においては、到着翌日に日本人抑留者の慰霊碑に供花した。 「(による)抑留者のうち1万4,000人がモンゴルに移送され、約2,000人が死亡していることに思いを寄せたため」という。 このことに感謝した日本モンゴル協会の人々は、「大きなの旗を振って皇太子の車列を迎え、見送った」という。 2017年(平成29年)の訪問のときには、同国首都市民のに応じた。 公務(国内) [ ]• 1986年(昭和61年)における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをしたことで大きな拍手が沸き起こった。 「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる。 からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成時代になってからは皇太子徳仁親王と同妃雅子(いずれも当時)が引き継いでおり、毎年8月に東宮御所で会見し、一人一人に声をかけ会話を重ねたという。 皇族として [ ]• 家とは、家族ぐるみで親しく交際していた。 は自身とも年齢が近く、徳仁親王にとっては兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。 夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族揃って成婚祝賀パレードを終えた二人を迎えた。 憲仁親王は「皇太子夫妻の待望の第1子であったの誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがった」という。 皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、憲仁親王がする1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪問した時だった。 2006年(平成18年)9月6日、がで、(今上天皇にとっての甥である)第3子のを出産した際は、弟のからの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。 妃殿下のが無事に終わることを祈っています。 両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。 で公務中だった両親の天皇皇后の(同月9日)と見舞い(同月10日)の後、自らは11日に妃雅子と愛子内親王を伴って一家で見舞いに訪れた。 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、)(自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが 、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で宮内庁長官(当時)に「天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないこと」を指摘された。 姻族 [ ] 2000年(平成12年)11月19日、の実妹であるの結婚披露宴()に親覧した。 2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って東京都のに見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父であるが死去した際には雅子に同行、東京都のの葬儀に親覧している。 栄典 [ ] ・ ()団員としての紋章 勲章 [ ] 日本 [ ]• - :2019年(令和元年)5月1日• - :1980年(昭和55年)11月30日• - :2019年(令和元年)5月1日• - :2019年(令和元年)5月1日• - 外国 [ ]• : オーストリア共和国勲章 - 1999年• : アール・ハリーファ勲章• : -• : レオポルド勲章 -• : エレファント勲章 - (2004年)• : 救い主勲章 -• : () - (2000年)• : イタリア共和国功労勲章 -• :ナッサウ家金獅子勲章 -• : ラム・クラウン勲章 - (2012年)• : クラウン勲章 - (1991年)• : - (2001年)• : - (2002年)• : (1993年)• : 勲功勲章• : () - (2008年)• : () - (2007年)• トンガ王冠勲章 - (2008年)• 戴冠メダル(2008年)• 戴冠メダル(2015年)• : ザーイド勲章(1995年) - 名誉博士 [ ]• () 名誉職 [ ]• 名誉副総裁• 「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁• きじ章 - (1989年)• 「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」名誉総裁 著作・論文・講演集など [ ] 特記のない書籍等は、「徳仁親王」名義。 「の一考察-を中心にして」、『交通史研究』第8号、交通史学会、1982年• H PRINCE NARUHITO THE THAMES AS HIGHWAY (交通路としてのテムズ川)、、1989年• 「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」、先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相・下巻』、、1989年、• 「」、『地学雜誌』 第100巻 第1号 p. 3-18、公益社団法人東京地学学会、1991年, :• 『 -英国の二年間-』総務部広報課〈学習院教養新書〉1993年• 「皇太子さまが綴られた野の花,山の花への思い 山の花随想」、『』1997年6月号(通号600)• 「」、『学習院大学史料館紀要』第10号、、1999年• (木村真美子共著)「」「『西園寺家車図』諸本の研究—附、宮内庁書陵部所蔵九条本『西園寺家車図』翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第11号、学習院大学史料館、2001年3月• 「関銭-兵庫関 兵庫北関代官職請文」、『東大寺文書を読む』堀池春峰監修・綾村宏:編、、2001年5月、• (木村真美子共著)「」、『学習院大学史料館紀要』第12号、学習院大学史料館、2003年, :• (木村真美子共著)「『九条家車図』の成立をめぐって : 附、学習院大学史料館所蔵飛鳥井本『九条家車図』解題および翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第14号、学習院大学史料館、2007年, :• (木村真美子共著)「」、『学習院大学史料館紀要』第15号、学習院大学史料館、2009年, :• 「」、『学習院大学史料館紀要』第16号、学習院大学史料館、2010年• 「水災害とその歴史」、『東日本大震災復興を期して-知の交響(ハーモニー)』、編、、2012年、• 「」『地学雑誌』 2014年 123巻 4号 p. 389-400、- 2009年日本アジア協会総会で行なった講演の日本語訳。 『水運史から世界の水へ』NHK出版、2019年、 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• マスメディアの皇室関連報道や政府系機関などでは主に、地位・称号である「天皇」に敬称「陛下」を付した「 天皇陛下」(てんのうへいか)の呼称が用いられる。 この他、過去歴代天皇と区別するための、在位中の天皇に対する呼称である「 (きんじょうてんのう)」の呼称が用いられることもある。 と第1皇女子・愛子内親王の一家3人で同居している。 「浩宮」はであり、名は「徳仁」のみ。 第1条:「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。 」及び同第8条:「皇嗣たる皇子を皇太子という。 (後略)」と規定されており、徳仁の第1皇女子であるは男系女子の皇族であり、皇位継承権を有さないため。 なお当初は、同年の即位礼正殿の儀を終えた同日に実施する日程であったが、(台風19号)の発生とその被災からの復旧支援に政府が注力して取組をするために、延期された。 この日の記者会見では、「天皇陛下には、重要な儀式・儀礼の際には(だいくんいきっかしょうけいしょく)及び(とうかだいじゅしょう)を、の親授式には文化勲章を、佩用(はいよう)していただく必要があります。 この度、これらの勲章を陛下にお持ちいただくことになりましたので、御報告いたします。 」と発表した。 打者は第一試合に出場した茨城県代表・(対戦相手は長崎県代表・)の1番打者であった(元)である。 出典 [ ]• 第二十三条第一項「天皇、、及びの敬称は、陛下とする。 松本敦「」『学習院大学大学院日本語日本文学』第10巻、学習院大学大学院、2014年、 52-67頁、 、 2020年4月22日閲覧。 『大辞林』第三版 「今上天皇」• 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」• 日本語. 2016年1月28日. 2016年1月28日閲覧。 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第1号「天皇陛下御退位等に関する件」• 明仁が4月30日午後12時(=5月1日午前0時)を以って退位し、同時に徳仁が即位した為、空位は生じていない。 MSN産経 2008年3月11日• MSN産経 2009年5月10日• 浜尾実『殿下とともに』角川出版 1993年• 河原敏明『美智子妃』 1991年 講談社文庫、P. 160。 1993年(平成5年)に、留学記『』(学習院教養新書)を出版している。 1993年1月24日号• 毎日新聞 1993年6月10日• 毎日新聞 1993年1月18日• 読売新聞 1993年1月7日夕刊• 朝日新聞 1993年1月20日• 『』1993年1月26日• 、時事通信、2007年11月1日 [ ]• (2009年11月21日)【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】(236)• (2009年12月15日)『特例会見、中国では「次の最高指導者」周知の意図』• YOMIURI ONLINE 2013年3月7日• Reuters Japan 2016年1月28日閲覧• www8. cao. 2019年4月30日閲覧。 2019年10月7日. 2020年5月4日閲覧。 産経新聞 2019年5月9日 「」• 2019年5月11日. 2019年5月14日閲覧。 2019年5月9日. 2019年5月14日閲覧。 財務省 2019年5月10日 「」• 2019年5月28日. 2020年5月4日閲覧。 2019年5月27日. 2020年5月4日閲覧。 毎日新聞 2019年10月22日. 2019年10月22日閲覧。 読売新聞 2019年11月9日. 2020年5月4日閲覧。 2020年1月22日. 2020年5月4日閲覧。 2019年12月26日. 2020年4月27日閲覧。 2020年3月31日. 2020年4月6日閲覧。 2020年1月25日. 2020年4月27日閲覧。 2020年2月21日. 2020年4月6日閲覧。 2020年4月28日. 2020年5月4日閲覧。 2020年4月6日. 2020年4月28日閲覧。 2020年4月10日. 2020年5月4日閲覧。 2020年4月10日. 2020年4月28日閲覧。 首相官邸ホームページ. 2019年6月7日時点のよりアーカイブ。 2019年6月7日閲覧。 以上3点「プリンス浩宮」薗部英一 日本映像出版• 朝日新聞 1989年9月22日• 日本経済新聞 1991年2月23日夕刊• 読売新聞 1993年1月20日• 宮内庁. 2009年11月14日閲覧。 宮内庁. 2009年11月14日閲覧。 宮内庁. 2009年11月14日閲覧。 『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社 21ページ• — 2019年9月14日閲覧。 — 2019年9月14日閲覧。 — 2019年11月12日閲覧。 — 2020年5月4日閲覧。 浜尾実『殿下とともに』角川出版• 「浩宮さまは背番号38」朝日新聞1971年10月17日23頁• 読売新聞1971年7月21日11頁• 『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社編 124ページ 2010年• 宮内庁HP• 『』徳仁親王、1993年、学習院総務部広報課、p150。 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p46 - 54• 「プリンス浩宮」 薗部英一 日本映像出版 1987年• 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p94 - 97• 産経新聞2017年6月17日(2018年5月21日閲覧)• 河原敏明『美智子皇后』1990年 講談社、pp303 - 304。 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、pp133 - 134。 この部分の出典。 『宮さまとの思い出』、2003年、初版第一刷、272-284頁。 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。 [ ]• 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。 1299. 2012年6月13日閲覧。 , Prince Naruhito, having no Luxembourgish decoration, has worn the of Grand Cordon of the Order of Leopold• 2012年6月13日閲覧。 Official Gazette of the Republic of the Philippines. 2012年6月13日閲覧。 presidencia. 2012年6月13日閲覧。 Getty Images 2010年6月19日. 2016年12月2日閲覧。 2015年7月5日時点のよりアーカイブ。 2016年12月2日閲覧。 Ito, Kazuya 2015年7月4日. The Asahi Shimbun. の2015年7月5日時点におけるアーカイブ。 2016年12月2日閲覧。 reinanzaka-sc. oo7. pdf• 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 関連項目 [ ] ウィキソースには次の原文があります。 第2代• 第3代• 第4代• 第5代• 第6代• 第7代• 第8代• 第9代• 第10代• 第11代• 第12代• 第13代• 第14代• 第15代• 第16代• 第17代• 第18代• 第19代• 第20代• 第21代• 第22代• 第23代• 第24代• 第25代• 第26代 (507? - 531? 第27代 (531? - 535? 第28代 (535? - 539? 第29代 (539? - 571? 第30代 (572? - 585? 第31代 (585? - 587? 第32代 (587? - 592? 第33代 (592 - 628)• 第34代 (629 - 641)• 第36代 (645 - 654)• 第37代 (655 - 661)• 第38代 (661 - 671)• 第39代 (671? - 672? 第40代 (673 - 686)• 第42代 (697 - 707)• 第50代 (781 - 806)• 第55代 (850 - 858)• 第58代 (884 - 887)• 第62代 (946 - 967)• 第68代 (1016 - 1036)• 第70代 (1045 - 1068)• 第73代 (1086 - 1107)• 第81代 (1180 - 1185)• 第110代 (1643 - 1654)• 第116代 (1747 - 1762)• 第118代 (1770 - 1779)• 第120代 (1817 - 1846)• 第121代 (1846 - 1866) 明治以降• 第122代 (1867 - 1912)• 第123代 (1912 - 1926)• 第124代 (1926 - 1989)• 第126代 (2019 - 在位)• 大正の初年まではを天皇歴代に含め、これを「第15代神功皇后」として仲哀天皇と応神天皇の間に置いていた。 赤背景は(8人10代の女性天皇)。 」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の。 第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前のを含む。 第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ鎌倉時代末期 (1318—31年)、建武の新政期 (1333—36年)、吉野時代 (1336—39年)の3期にまたがるが、それぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 なお今日では便宜上光厳天皇を北朝の最初の天皇とみなしているが、実際に南北両朝が並立するようになるのは、次の光明天皇が擁立されたのち後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に拠った時点 (1336年)からである。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。 北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇としてに含めている()。 後小松天皇の在位は、始めの10年間を北朝の天皇のそれとみなし、南北朝合一 (1392年)後の20年間を天皇歴代の第100代とみなしている()。
次の新天皇陛下は誰なのか? 次の天皇は浩宮さまになります。 新天皇は 『徳仁天皇 なるひと 』と『雅子皇后』 になると週刊現代が報じていました。 新天皇が即位されると 次の皇太子さまのことが気になりますね。 お二人には男子のお子様が いらっしゃいません。 愛子内親王殿下がいらっしゃいますが、 皇室典範には男系の男子が継承すると ありますので、 浩宮さまが即位されますと、 皇太子は空位になります。 秋篠宮さまは皇太子ではなく、 浩宮さまの弟なので 『皇太弟』ということになります。 そして、現皇太子が即位した時点で、 皇位第一継承者は弟宮の 『秋篠宮文仁親王』になります。 私は勉強不足でしたので、 「次の天皇は秋篠宮さまになるのかな?」 と思っていました。 しかし、次の天皇は浩宮さまが即位されます。 そうそう、皇太子が空位となると、 皇太子に関する事務を司っていた 『東宮職』がなくなります。 現在の東宮職は約50人ほど いらっしゃいますが、 全員が人事異動になるそうです。 スポンサードリンク 新天皇陛下の誕生日はいつ? 浩宮さまのお誕生日は 1960年2月23日 2017年12月6日の時点で57歳になられます。 2019年の5月1日に即位されますと、 おそらく次の2020年2月23日は 祝日になるのではないでしょうか。 ちょっと先の話ですが、 2020年2月のカレンダーを見てみると・・・。 うわ! いきなり日曜日! って言うことは、 振替休日になんじゃないですかね。 サラリーマンにとっては 土曜日じゃなくてよかったです。 スポンサードリンク 次の元号はどうなる? これは、はっきり言って分かりませんよ。 2018年の中頃に公表される予定ですが、 ネットなどに流れている情報とは 絶対に外してくるでしょう。 今、一番言われている元号が 『安久 あんきゅう 』 たといわれていますが、 これは絶対にはずして来るでしょう。 ただ、『安』はつくかもしれませんね。 『A』のアルファベットがつく元号は 最有力とされていますので。 祝日はどんどん増えていくの? 未来永劫、皇室が末永く続いていくと やがてカレンダーすべてが祝日になってしまうんじゃないか? なんて不安に覚えたこともありました。 しかし、大正天皇の誕生日は 8月31日ですが、 祝日として残りませんでした。 天皇誕生日による祝日は、 別の名前で使われたり、 消えてしまったりします。 今上天皇 明仁さまの誕生日は 12月23日ですが、 クリスマスにも近いので、 ぜひ違う形で残って欲しいですね。 スポンサードリンク 今後の継承はどうなるのか? 先程も述べましたが、 現皇太子が即位した時点で、 皇位第一継承者は弟宮の 『秋篠宮文仁親王』になります。 なので、『徳仁天皇』の次は『文仁天皇』となるのですが、 お二人は5歳しか離れていません。 なので、 ・・・・・。 どうなるんでしょうね。 継承権は秋篠宮さまですが、 あまり年齢が変わらないので、 多分、10年ぐらいの 短い元号かもしれないですね。 もしかしたら、いきなり悠仁親王殿下が 即位されるのかもしれませんね。 あとは愛子内親王が一代かぎりの 女性天皇になられるとか。 しかし、これは国論がわれますね。 私個人としては、 反対かなぁ・・・・。 愛子さまのことは好きなので、 本心を述べれば一代限りの女性天皇になって欲しいです。 ただ、そこから女系天皇を認める議論に 発展されると困りますね。 男性のY染色体を尊重しないと 途中から、訳がわからなくなりますから。 神武天皇と悠仁親王のY染色体が 同じという、悠久の時間を超えて 初代天皇から現在に至るまで、 その流れを科学的に証明できるのは Y染色体だけですからね。 とりあえず旧宮家には 皇室に戻っていただくしか 皇位継承の問題は なくならないんじゃないでしょうか。 まとめ まもなく平成が終わろうとしています。 なんだか寂しいですね。 平成生まれの人は 初めて元号が代わる気持ちを味わうわけですね。 新しい元号はいったい何になるのか。 今後の日本や世界はどうなっていくのか。 ただ、ひたすらに日本の弥栄 いやさか。 世界の安寧を願わずにはいられませんね。
次の今から30年前,昭和から平成の新しい御代への移り変わりを,私は,皇居の吹上御所で迎えました。 深い悲しみの中に,一つの時代が終わったという感慨が,頭の中を駆け巡ったことを記憶しています。 立場が変わったことを認識しつつも,最初しばらくは,「皇太子様」と呼ばれても,何か実感が湧かなかったことを覚えています。 ただ,昭和の時代から,回数は限られますが,現在の両陛下の御公務に御一緒したり,昭和62年には,私自身も昭和天皇の国事行為臨時代行を務めさせていただくなどしたことは,皇太子としての準備を進めさせていただく機会になったものと有り難く思っております。 実際に皇太子となってからは,自分の中でもその役割に対する自覚というものがより根付いてきたように思います。 特に,平成3年2月に立太子の礼を陛下に執り行っていただいたことで,その気持ちがより強くなったことを思い出します。 皇太子としての活動を行うに当たっては,国民の幸せを願い,国民と共にありたいと思っておられる陛下をお助けすべく,皇太子として自分に何ができるかを常に考えながら,一つ一つの公務に取り組んでまいりました。 私は,様々な行事の機会に,あるいは被災地の視察として,各地を訪問してまいりましたが,国民の中に入り,国民に少しでも寄り添うことを目指し,行く先々では多くの方々のお話を聴き,皆さんの置かれている状況や関心,皇室が国民のために何をすべきかなどについて,的確に感じ取れるように,国民と接する機会を広く持つよう心掛けてまいりました。 こうしたことは,今後とも自分の活動の大きな柱として大切にしていきたいと思います。 国際親善とそれに伴う交流活動も皇室の重要な公務の一つであると思います。 これについては,これまで30か国以上を親善訪問し,また,日本に来られた賓客や外国青年代表,国際賞受賞者等多くの外国の方とお会いする機会がありました。 こうしたことが,日本と各国との友好親善の一助となったのであれば幸いです。 また,これらの経験によって,自分自身も世界に対する視野を広げ,関心を深めることができたように思い,有り難く思っております。 平成28年8月8日の天皇陛下のおことば以来,これから私が担うこととなる重責について,改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが,その度に,両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。 また,両陛下から,様々な機会に,多くのお話を伺わせていただいていることも,今後公務に取り組んでいく際の大きな道 標 しるべ となるものであり,大変有り難いことと思っております。 これからのことを思うと,とても厳粛な気持ちになりますが,引き続き自己研 鑽 さん に努めながら,過去の天皇のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がなさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,あるいは共に悲しみながら,象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。 また,以前も述べたとおり,私が長年携わってきました「水」問題についても,そのことを切り口に,豊かさや防災など,国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。 日本の変化に富む豊かな国土は,同時に,自然災害,例えば台風や豪雨,津波などの影響を受けやすいことから,「水」問題への取組で得られた知見も,これからの務めの中で,国民生活の安定と発展を願い,また,防災・減災の重要性を考えていく上で,大切にいかしていきたいと思います。 皇室の将来像についての御質問については,男性皇族の割合が減り,高齢化が進んでいること,また,女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは,将来の皇室の在り方とも関係する問題です。 ただ,制度に関わる事項については,私からこの場で言及することは控えたいと思います。 皇室の在り方に関しては,国民と心を共にし,苦楽を共にする皇室,ということが基本であり,これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。 過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致し,国民と苦楽を共にしながら,国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは,今も変わっておりません。 同時に,その時代時代で新しい風が吹くように,皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。 私も,過去から様々なことを学び,古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに,それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。 問2 天皇陛下は4月30日に退位されます。 象徴としての務めを果たしてこられた天皇陛下と,支えてこられた皇后さまに,どのような思いを抱かれていますか。 また,退位という形でのお代替わりについては,殿下はどのように捉えていらっしゃいますか。 天皇陛下には,御即位されて以来,長年にわたり,日本国憲法の天皇の規定と,歴代の天皇の歴史に思いを致され,常に国民の幸せを願い,国民に寄り添い,苦楽を共にしながら,象徴天皇としてのお務めを果たされる中で,そのあるべき姿について全身全霊をもって模索をしてこられました。 また,皇后陛下には,そうした陛下のお気持ちを心から共有され,常に陛下をお支えになってこられました。 そして,陛下には,そのような皇后陛下を敬愛され,両陛下で御一緒に歩みを進めてこられました。 こうした両陛下のこれまでの歩みに思いを致す度に,両陛下に対して深い感謝と敬意の念を覚えております。 両陛下には,今後とも末永くお健やかにお過ごしいただけますよう,心よりお祈り申し上げます。 また,両陛下がこの30年余り,一つ一つの行事を大切に思われ,真摯にお務めに取り組んでこられるお姿を,私も,そして雅子も,間近に拝見する機会を頂いてまいりました。 そのようにお 側 そば で学ばせていただいたことの幸せを改めて 噛 か み締めるとともに,両陛下のお心遣いに感謝申し上げます。 そして,そのお姿をしっかりと心に刻み,自己の研 鑽 さん に励みつつ,今後とも務めに取り組んでまいりたいと思います。 私自身について言えば,両陛下のお手 許 もと で温かい家庭において慈しみを受けながらお育ていただき,また,音楽やスポーツの楽しみを教えていただいたり,留学といった得難い経験をさせていただいたりしたことが,自分にとっても大きな糧となっていることに深く感謝をしております。 退位という形でのお代替わりについての質問ですが,陛下の御退位については,以前もこの場でお話したとおり,陛下が「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないか」と御案じになられていることに,とても心を揺さぶられましたが,そのようなお考えに至られた背景については,十分にお察し申し上げます。 私としましては,こうした陛下のお考えを真摯に受け止めるとともに,常に心にとどめ,これからの務めを果たしていく考えです。 問3 ご家族についてお伺いします。 雅子さまは着実に活動の幅を広げられていますが,皇后になられたあとの活動の見通しや,殿下が感じられた変化についてお聞かせください。 また,春に高校3年生になられる愛子さまの今後の進路や将来の活動について,ご家族でどのような話をされていますか。 雅子は,この1年も,体調に気を付けながら,公私にわたりできる限りの務めを果たそうと,種々の工夫を凝らしつつ一生懸命に努力を積み重ねてきております。 そうした努力の結果,昨年12月の誕生日に際しての感想の中でも述べておりますとおり,活動の幅が,少しずつではありますが,着実に広がってきていることを,本人もうれしく思っておりますし,私も共にうれしく思います。 その過程では,訪問先などで多くの方々から笑顔で温かく迎えていただいたことは,雅子にとって本当に大きな支えとなっておりました。 私も雅子と共に,改めて国民の皆様に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。 一方で,着実に快復してきているとはいえ,依然としてその途上にあり,体調には波もありますので,雅子には,引き続き焦ることなく,少しずつ活動の幅を広げていってほしいと願っております。 今後は,自身の置かれる立場が変わることで,公務も多くなる中,一朝一夕に全てをこなせるようになるわけではないと思いますが,雅子は,これからも体調に気を付けながら快復を目指して更に努力を重ねていくと思いますので,国民の皆様には,引き続き快復を温かく見守っていただければと思います。 雅子には,これまで,私や愛子のことにもいろいろと良く心を配り,私の活動を支えてきてくれています。 私も,できる限り力になり,雅子を支えていきたいと思っております。 愛子は,この1年,英国イートン・カレッジでのサマースクールや秋の関西地方への修学旅行などを経て,一段と成長を遂げたように感じております。 青春期には誰しもが経験するように,こうした得難い経験を通じて,自分の世界が大きく広がったものと思います。 これからの数年間は,自分自身が,将来について,いろいろと思いを巡らせる時期になりますので,お友達や先生方など周りの方々と語り合い,自身での思索を深めていってほしいと思います。 イートンでのサマースクールや修学旅行,学校の課題など,普段から,愛子から私たち二人にいろいろと話をしてくれていますし,大事な事柄については,その都度相談に来ることもあります。 今後とも,大学への進路といった将来のことやその時々の悩みなどについて,相談を受けることもあると思いますが,親として,本人の気持ちをしっかりと聞きながら,良い助言ができればと思っております。 問4 秋篠宮さまは昨年のお誕生日の記者会見で,新天皇が一代一度限り臨む大嘗祭のあり方について持論を述べられました。 即位にかかわる一連の皇室行事について,殿下はどうあるべきだとお考えでしょうか。 平成の始まりというときに,私は,同じ年に起こったベルリンの壁の崩壊を思い起こします。 私は,その2年前の昭和62年に,ベルリン日独センターの開所式に出席するため,当時の西ドイツのベルリンに行きました。 その時見た,冷たく 聳 そび えるベルリンの壁は,人々を物理的にも心理的にも隔てる東西の冷戦の象徴として,記憶に深く刻み込まれるものでした。 その後,平成元年11月にベルリンの壁が崩壊し,東西のベルリン市民が壁を登っている姿に,新たな時代の到来を感じました。 平成という時代は正に,この新しい世界の動きとともに始まったと言えると思います。 冷戦の終結を受けて,二極の対立構造はなくなったものの,各地で内戦や地域紛争が増加しました。 これに対して,日本は,開発援助のほか,復興支援や人道支援も積極的に行うことにより,世界の人々から高く評価されるようになりました。 また,ノーベル賞の受賞や,スポーツ,文化といった分野でも,日本人が国際的に評価され,あるいは活躍する場面が増えましたが,これは平成時代の特徴ではないかと思います。 オリンピックを例に挙げるまでもなく,平成を通じて特に,十代の中高生を始めとした若い人たちの活躍が目立ったように感じ,とてもうれしく思います。 陛下がおっしゃっているように,平成が戦争のない時代として終わろうとしているわけですが,戦後長く続いてきた平和な日本の社会において,この国の未来を担う若い人たちが,夢を大切にしながら自分の能力を発揮できる環境が整ってきたことの 証 あかし であると思います。 私も,これまでいろいろな場で若い方々と御一緒する機会を大切にし,その熱意や息吹を感じて心強く思ってまいりましたが,これからも若い世代の活躍を願いつつ,見守っていきたいと思っております。 また,平成は,人々の生活様式や価値観が多様化した時代とも言えると思います。 それは,ITその他の科学技術の飛躍的発展によって,更に推し進められた部分もあると思います。 今後は,この多様性を,各々が寛容の精神をもって受け入れ,お互いを高め合い,更に発展させていくことが大切になっていくものと思います。 他方で,少子化や高齢化の進行は,日本のみならず,多くの国で大きな社会問題となっています。 今後の日本にとり,諸外国の経験や知識を参考にしながら,この問題について考えていくことが必要な時代になっていると思います。 平成は,また,地震や津波,台風や集中豪雨といった数多くの自然災害に見舞われた時代でもありました。 多くの人が命を落とされ,また,生活の基盤を失われたことは,大変心の痛むことでした。 そうした中で,災害救助や復旧・復興の折に示された「 絆 きずな 」とも称される助け合いの精神には,日本の人々の優しさや秘めた強さを見る思いがいたしました。 そうした不幸な出来事が発生する度に,両陛下には,被災地に向かわれ,困難な状況にある人々に寄り添ってこられるなど,お力を尽くしてこられました。 両陛下が,国民と共にありたいと常に願われ,そのお気持ちを体現してこられたことが,私の心に深く残るものと思います。 立場が変わることによって,今まで両陛下がなさってこられたいろいろなお仕事を私が受け継がせていただくことになります。 そして,両陛下が今までなさってこられたことをよく学び,それぞれの行事に心して出席したいと思っております。 それから,今お話のありました国民文化祭については,私が第1回から出ている行事ですし,特にその地方地方でいろいろな文化がある中で,自分たちの文化を再発見し,そしてまた新しい文化を創り上げていくという理念の下に創られた行事であると理解しております。 近年は,障害者芸術・文化祭も一緒に行われることになりましたので,より内容の深いもの,濃いものになってきていると思います。 いずれにしましても,一つ一つの行事に新しい天皇としての立場で,心して出席していこうと思っております。 問2 来年はオリンピック・パラリンピックが開催されます。 殿下は去年,パラリンピックのマラソン選手,道下(みちした)さんの伴走をなさいました。 その時の率直な御感想と何か新たな発見がございましたら,お聞かせください。 オリンピック・パラリンピックについては,特に両陛下が皇太子時代から大変心を寄せてこられたものだと思います。 そして,両陛下が日本の障害者スポーツ大会へ大きな貢献をされたものと私も思っておりますし,障害者スポーツ大会について,両陛下から今までもいろいろなことを伺ってきております。 来年にはオリンピック・パラリンピックを控えております。 そのような中で,園遊会で 道下 みちした さんとお会いしまして,私がジョギングを趣味としていること,よくこの御用地の中を走っており,園遊会の会場となっている場所もよく走っているというお話をしましたところ,御一緒する機会があればと先方がおっしゃってくださいました。 私としましても,そういうパラリンピックの選手の人たちがどのように競技に臨んでいるのか,パラリンピックとはどういうものなのか,ということを私自身も理解するいい機会だと思いましたので,その申し出を喜んでお受けすることといたしました。 私が心配したのは,どのように目の見えない方を走りながらリードしたらいいのか,しかもひも一本で結ばれている状態ですので,どのように声を掛けてリードしていったらいいかということで,事前に書物を読んだり,あるいは動画を見たりして少し研究をいたしました。 実際に御一緒してみて,私自身も最初は少し緊張しましたけれども,楽しくとてもいい経験をさせていただいたように思います。 一例を挙げますと,例えば2メートルくらい先にマンホールがありますということを 道下 みちした さんにお話しようと思いましたら,気が付いた時にはもうマンホールの上にいるような感じで,走っていると随分スピードもあるんだなと思いましたし,実際に伴走の方がどのように選手をリードされているのかということも私も分かって,自分としても大変いい経験になったと思います。 もう一言付け加えさせていただきますと,三重県で障害者の施設に行きました時に,ボッチャをやっている場面を見せていただきました。 その時に,そこにおられた選手の方が私にボールを渡して,やってみませんかと言ってくださったので,実際に投げてみると,やはり意外に難しいものだと思いました。 このように自然な形でパラリンピックの競技を自分自身が体験できたということは本当に自分にとっても良かったと思っております。 そして,来年のオリンピック・パラリンピックを大変楽しみにしております。 問3 先ほど雅子さまについては御体調のところは伺ったんですけれども,今後の御活動の,御活躍を期待される分野といいますか,内容といいますか,どうお考えなのか,例えば国際的なものなのか,それとも若い人たちの活躍の環境を整えられることですとか,また,困難な状況に置かれている人たちに寄り添うことですとか,どういった内容で御公務,御活動をされていってほしいとお考えでしょうか。
次の