アングロ サクソン。 アングロ=サクソン人/七王国

七王国

アングロ サクソン

バーソロミューの「ヨーロッパの文学および歴史的地図」による七王国(1914) アングロサクソン 七王国(しちおうこく、: Heptarchy、 ヘプターキー)とは、中世初期にに侵入したが同島南部から中部にかけての地域に建国した7つののこと。 この時代をまた「 七王国時代」とも呼ぶ。 最初にこの語を記したのはの史家であり、には用語として定着した。 これらの王国が覇を競った時代は、帝がを放棄してから(、)、の王がを除くブリテン島を統一するまで(、 ())であると考えられている。 実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のの小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。 7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。 この王国群の中から後のが形成され、その領土は「の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。 主なアングロサクソン王国 上記の7つの大国として、以下の7つの国が挙げられる。 : イングランド北東部を支配したアングル人の王国。 : イングランド中央部を支配した。 ごろ勢力を誇ったアングル人の王国。 : イングランド南東部地方、現在の、周辺を支配したアングル人の王国。 : イングランド南東部を支配したサクソン人の王国、現在の、、周辺を支配した。 : イングランド南西部を支配したサクソン人の王国、最終的に、周辺を中心に王国として形成されたが、前期の支配区域は最も北部であった。 : イングランド南東部、現在のケント周辺に形成されたの王国。 最も早い時期にを受け入れた地域である。 : イングランド南部を支配したサクソン人の王国、現在の、、周辺を支配した。 七王国以外の小国群 [ ] 上記の7つの大国以外にも以下のような小国が多数存在した。 : イングランド南西部、現在の、を支配していた。 アングロサクソン人と戦っていた王国。 : の隣にある小国。 マーシアの影響を強く受けていた属国と考えられ、王族はアングル人だった。 : の隣、リンカンシャー地方の小国。 7世紀にノーサンブリア王国に征服された。 アングル人の王国と推測される。 : の衛星国でありマーシア勢力下におけるキリスト教の中心地。 マーシアのアングル王ペンダが息子ペーダを王として封じたことに始まり、のちにマーシアに併合された。 () : の衛星国であった。 : の衛星国であった。 () : 砦で知られる。 () : の隣にある小国。 () : の隣にある小国。 () : の隣にある小国。 () : の隣にある小国。 : 現在の周辺からまでの、現在のにあたる地域の小国。 () 歴史 [ ] 「」および「」も参照 アングロサクソン人の登場は5世紀くらいだと伝えられているが、実際のところは分かってはいない。 伝承ではの、の、父子、または史書『』に登場するの宿敵()の長などが挙げられるが、どれも伝説的な人物像であり、に上陸した年月も考古学から出た年代の整合性が合わないでいる。 しかしそれぞれが中頃からを争ったものとは考えられている。 彼等サクソン人は西進を続けるものの、ブリトン人の反撃を受け「」と呼ばれる激戦で大敗北、数世代に渡って膠着状態となった。 この戦いはどこでなされたかは分かってはいないが、劣勢のブリトン人を指導したと伝えられる者がのモデルとなったと考えられている。 とくにサクソン人は壊滅的な打撃を受け、再び進攻が始まったのは西サクソンのが王になった頃からだと言われている。 王国が形成されつつある当初はの建てたとが隆盛を誇り、王の ()( ())、 ()、 ()、そして王など非常に強力な王が存在した。 彼らはしばしばと呼ばれ、イングランドの覇を競ったと伝えられるが、この覇王の称号が実際使われたものなのか、それとも後世の年代記者の創作の賜物かは分かってはいない。 またこの時代ローマ系キリスト教が再上陸し、ケント王を最初にイングランド各地に広まった。 同時に、のが保持してきたは劣勢となった。 が台頭し始めたのは王となってからである。 数世代前に父祖の地をマーシアに獲られたウェセックスは東に進撃、サセックス、ケントを侵略した。 同時にこの時代から大陸よりの一派であるがブリテン島に定住し始め、東沿岸部のノーサンブリア、イースト・アングリアはこの侵略の前に守勢になる。 その中でウェセックスはデーン人に対抗するの求心力を得て、の ()での率いるがに勝利してイングランドを統一した。 同じころ、デーン人の侵入が活発化しており、イングランドを侵略、ノーサンブリア、イースト・アングリアが滅亡する中でウェセックスは唯一生き残ったアングロサクソン王国となる。 5月、劣勢の中でが ()(: Battle of Ethandun、現在の ()付近)でデーン人に勝利、同年末にが締結されデーン人の支配地域をとして認め一種の均衡状態による和平を築いた。 そしてこの時代、彼の元で文献の集大成が行われ、ウェセックス王国はアングロサクソン文化の伝統を築き上げる。 このことがデーン人の侵略という困難の中でかえってアングロサクソン人の求心力を呼び、後に全てのアングロサクソン諸国を統一し、スコットランド王国の恭順を受けたウェセックスは後のの母体となった。 その後デーン人、ノルマン人とイングランドの支配階級が変わることになっていくが、デーン人は支配階級として政治に参加する者はアングロサクソンの出自であっても「デーン人」と呼ぶのを慣わしとしており、また後世に数多くの出身の貴族が支配者として入ってきた際にイングランドにある数多くの階級制度に驚いていることから、七王国時代の社会制度はこの時まで温存されていたものと思われる。 七王国の社会制度 [ ] になっての影響力がなくなるとがにやってきたが、彼らは後に記されるような単独の王を持つというよりはの連合体に近い形で、、、を形成してきたものと思われる。 またに記される歴代ウェセックス王の系譜の中に統治時代が重なる複数の王が存在していることから、七王国時代の、少なくとも初期においては必ずしも王権は1人の王のもとで集約されているものではなく、複数の王たちが共有していたものだと思われている。 メイズの首長たちは各村落の家族に「ハイド hide 」と呼ばれる分配地を与えていた。 そして部族が戦争、開拓で新たな土地を得られたときにはメイズ単位で移動し、また別部族との抗争もメイズ単位での行動となった。 各部族の構成員は自由人であれば基本的に平等で、このメイズによって保護された。 もし抗争で犠牲者が出た場合、相手に復讐するか相手側から「人命金 wergeld 」でもって購われた。 しかしこの人命金は上位の自由人(貴族)、自由人、奴隷との間で差異があった。 しかし貧富の差が時代を下るうちに広がり、各構成員が首長のもとで平等であったメイズの体制がほころびを見せ始め、代わりに貴族が自由人の保護の保障をする保証人制度と呼ばれる制度が確立していった。 しかしこの制度は同時に自由人はメイズの保護下から特定貴族の支配に受けることを意味しており、上位の階層の庇護を必要とする下層自由民は次第にその地位を隷属民のそれへと降格、後の身分の形成へとつながった。 これは一種のであり、後のの支配ではさらにこの傾向を強めていく。 宗教 [ ] 支配下のではキリスト教の布教がローマ人の入植とともに広まっていたが、にブリタンニアが放棄されると廃れてしまっていた。 七王国時代の初期の王はの多神教信仰であったが、からが伝播してくる。 このキリスト教は大陸のカトリックの発達とは関係なく独自に発達したであり、へはにより最北部にあるから広まった。 これに対してカトリック側が再び上陸する。 教皇はをブリテン島に遣わし、の統治するへ伝道、エゼルベルトの改宗に成功する。 そしてがへ伝道、 ()を改宗させることに成功した。 その後異教徒であった王の隆盛で速度が停滞するものの、 ()王の治世にが建設、その影響力は隣国、まで及んだ。 この影響力と比較してケルト系キリスト教は太刀打ちできず、を期に減退していった。 脚注 [ ]• は、難読地名であるため、 あるいは フウィスや フイッケとも表記される。 関連項目 [ ]。 とも 、 復興 、 公布による改名 関連項目:、 ・ ・ ・•

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アングロ=サクソン人/七王国

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アングロサクソン年代記(ピーターバラ本)の第一頁 『 アングロサクソン年代記』(アングロサクソンねんだいき、英: Anglo-Saxon Chronicle)は、のを含む古代の出来事を主に記したである。 同一の題材をもとにしたが複数現存している。 紀元からまでを扱っており、写本によってはにがに遠征したという(史実とは年時が異なる)記述がある。 噂の類もかなり含まれていて史料として比較的信憑性は低いが他書には載っていない情報も記されている。 「アングロサクソン」(Anglo-Saxon)の名前は後代につけられたもので、の初版では " Chronicum saxonicum" という題である。 現在はインターネット・書籍で原文・訳文・注釈等が公開されている。 内容 [ ] 『アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史をで綴った年代記の集大成である。 編纂は後半のの治世に、恐らくはにおいて行われた。 この年代記はイングランド各地の修道院に写本として伝写され、写本から各地の修道院が独自に新規事項が書き加える形で完成させた。 とある写本にはの時点の年代が書き加えられた形跡が見受けられている。 全編もしくは一部が現存している写本は9つで、各写本は歴史的な価値がそれぞれ異なって評価されている。 しかしながら写本の本元となる書類は発見されてはいない。 最も古いものはアルフレッド大王の治世末期に編纂され、新しいものは「ピーターバラ本」、の僧院が火災に会った後に執筆されている。 ほぼ全ての写本は年代記の形式を取って書かれ、最古の出来事として前述の、のカエサルのイギリス進攻から年代記の書かれたその当時まで及んでいる。 このような写本を集結したものが、いわゆる『アングロサクソン年代記』として知られている。 年代記は公平な視点から書かれているわけではない。 他の史書からの比較により、筆記者が出来事を削ったり一方的な見方を執筆したりしている事が分かっている。 また写本ごとに矛盾した表記も見られる。 このような難点の多い史料ではあるものの、『アングロサクソン年代記』は、におけるによるの放棄()から()までの資料としては最も重要な史料として位置づけられている。 この年代記に書かれているような出来事は他の史料では見当たらず、また年代記は言語としての英語の歴史として重要な史料でもある。 とくに後期に編纂された「ピーターバラ本」は現存するの文献の中で最古の文体で書かれている。 気象や天体現象に関する記録も書かれているため、とおぼしき記録が発見されるなど、の資料としても貴重である。 9つの現存写本ないし断片のうち7つはに保管されている。 残りの2つはとに現存している。 写本 [ ] 現存する写本は9つ(うち2つは複製)で、8つは全編がで1つが訳を含む。 最古のものは「パーカー本」 Parker Chronicle で(Matthew Parker)が所有していたとされる。 「ピーターバラ本」 Peterborough Chronicle には初期の中英語が見られる。 A:パーカー本、The Parker Chronicle Corpus Christi College, Cambridge, MS. 173 ; Cottonian Fragment British Museum, Cotton MS. Otho B xi, 2• B:アビングドン本1、The Abingdon Chronicle II British Museum, Cotton MS. Tiberius B i. C:アビングドン本2、The Abingdon Chronicle II British Museum, Cotton MS. Tiberius B i. D:ウースター本、The Worcester Chronicle British Museum, Cotton MS. Tiberius B iv. E:ロード本(ピーターバラ本ともいう)、The Laud "Peterborough" Chronicle Bodleian, MS. Laud 636• F:バイリンガル・カンタベリー本(英・羅の二語で書かれている)、The Bilingual Canterbury Epitome British Museum, Cotton MS. Domitian A viii. H:コットン本断片、Cottonian Fragment British Museum, Cotton MS. Domitian A ix. I:イースター・テーブル本、An Easter Table Chronicle British Museum, Cotton MS. Caligula A xv. 写本Aは13,4度伝写されたとみられ、最初の伝写はまで遡れることから、年代記の成立は大体のの代とされる。 外部リンク [ ]• The Cambridge History of English and American Literature(1907-21年、第一巻)より(bartleby. com)• この項目は、に関連した です。

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アングロサクソン人の特徴|人種・言語・歴史・宗教など

アングロ サクソン

部族国家ザクセン [ ] それほど古くから存在する部族ではなく、に記されたの「」やに記されたの「」には記録されていない。 中頃に初めて記録に登場し、末には多くの小部族を吸収して大部族としての成長を遂げ、その間の後半からにかけてその一部がやとともにに渡ってとなった。 ゲルマン諸族のうち、サクソン人や、、のように異なる小部族や異分子を多く吸収して成長したこうした新しい集団では、部族集団の形成期に共通の髪型や武装を共通の帰属概念の指標とした。 サクソン人の場合には男性が前頭部を高く剃りあげた。 また、部族名の語源になっている片刃の直刀もこうした指標として機能した共通武装と考えられる。 母体となった小部族は地方南西部に居住していたと考えられるが、大部族に成長したサクソン人はその西隣のからにかけての北ドイツ一帯に広がっての東側で勢力を誇った。 北ドイツの大部族のサクソン人、即ちザクセン人はに移住した同族やフランク人のように王国は形成せず、エルベ川以北の Nordleute 、流域の Engern 、ヴェーザー川東方の Ostfalen 、西方の Westfalen の4つの支族の連合体をとっていた。 しかし、後半以降、フランク族との戦いが激しくなると政治的な統合が進み、部族全体に関わる問題を決定する集会をヴェーザー川中流のマルクローで開催するようになり、また部族公の成立もみられた。 面では、フランク人やと異なり、後にフランク王国に征服されるまでを受容せずに伝統的な神々の祭祀を守り続けた。 サクソン人社会は、、から構成されたが、他のゲルマン系諸族と異なり、貴族が他身分と通婚を禁じられており、封鎖身分を形成した。 起源 [ ] がと同じを信奉していたのに対し、ザクセン人はと同じくが自分達の祖先であると考えていた。 フランク王国のザクセン [ ] 西隣のフランク王国がの下で統一されると、はからにかけてを起こし、大量殺戮や強制移住によって反抗勢力を壊滅させた上でキリスト教を受容させた。 また部族の社会組織自体は温存させた上でザクセン人有力者を Graf の官職に任じて統治に当たらせた。 脚注 [ ]• およびでは「(正確には「サクスン人(Sachsn)」と発音される。 関連項目 [ ]• (イルミンスール) この項目は、に関連した です。

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