最前線から撤退した後はコミカルなマイクパフォーマンスで人気を呼んだが、やはりレスラーとしての黄金期は国際プロレス時代に金網デスマッチで激闘を展開した時期に尽きる。 今から45年前の1975年6月6日、木村は金網デスマッチでキラー・トーア・カマタを退けて看板のIWA世界ヘビー級王座V2に成功。 この日の大会前には新日本プロレスのアントニオ猪木に挑戦状を出して話題を呼んだ。 14分59秒、カマタを血だるまにしてKO。 2度目の防衛に成功した。 額を傷つけられながらも浜口が投げ入れたイスでカマタを殴打。 最後はブレーンバスターで鮮やかにノックアウトした。 この結果、木村は勝者に挑戦状を出していたマイティ井上と6月29日、後楽園ホールで3度目の防衛戦を行うことになった。 木村は早くから日本選手権の開催を提唱していた猪木に対し、今年1月7日、これに賛同する意見を述べ、口頭で猪木への挑戦をほのめかしていたが、正式な文書で挑戦状を送ったのは今回が初となる」(抜粋) 紙面中央には大きく木村の挑戦状が掲載されているものの、猪木の反応は「えっ! 木村が私に挑戦するって? どんな相手でもいつでも挑戦されれば受けて立つつもりだが、相手が木村じゃねえ。 条件はひとつ。 私に挑戦したいなら戦う場所、日時、放送権など一切を新日に任せることだ。 こっちだってプロだからメリットのない戦いはやりたくない。 噂では国際プロレスと全日本プロレスが合同興行をやるそうだが、なんだったら木村が馬場さんとやってその勝者がくればいい」と、素っ気なかった。 第3勢力の国際は大勝負に出たつもりだったが、当時業界のトップを走っていた猪木のプライドに一蹴された格好だ。 しかし猪木の言葉通り、同年12月6日からジャイアント馬場の全日本は国際と外国人選手の強豪20選手を集めた、当時としては最大規模の総当りリーグ戦「オープン選手権」を開催(同18日最終戦、優勝は馬場)。 木村は同17日の公式戦で馬場と激突するもブッチャーの乱入もあって敗退、ジャンボ鶴田らと同点の5位タイに終わった。 猪木との初対決は、国際崩壊後の81年10月8日まで約6年半もの歳月を要することになる。 (敬称略) 東京スポーツ.
次の最前線から撤退した後はコミカルなマイクパフォーマンスで人気を呼んだが、やはりレスラーとしての黄金期は国際プロレス時代に金網デスマッチで激闘を展開した時期に尽きる。 今から45年前の1975年6月6日、木村は金網デスマッチでキラー・トーア・カマタを退けて看板のIWA世界ヘビー級王座V2に成功。 この日の大会前には新日本プロレスのアントニオ猪木に挑戦状を出して話題を呼んだ。 14分59秒、カマタを血だるまにしてKO。 2度目の防衛に成功した。 額を傷つけられながらも浜口が投げ入れたイスでカマタを殴打。 最後はブレーンバスターで鮮やかにノックアウトした。 この結果、木村は勝者に挑戦状を出していたマイティ井上と6月29日、後楽園ホールで3度目の防衛戦を行うことになった。 木村は早くから日本選手権の開催を提唱していた猪木に対し、今年1月7日、これに賛同する意見を述べ、口頭で猪木への挑戦をほのめかしていたが、正式な文書で挑戦状を送ったのは今回が初となる」(抜粋) 紙面中央には大きく木村の挑戦状が掲載されているものの、猪木の反応は「えっ! 木村が私に挑戦するって? どんな相手でもいつでも挑戦されれば受けて立つつもりだが、相手が木村じゃねえ。 条件はひとつ。 私に挑戦したいなら戦う場所、日時、放送権など一切を新日に任せることだ。 こっちだってプロだからメリットのない戦いはやりたくない。 噂では国際プロレスと全日本プロレスが合同興行をやるそうだが、なんだったら木村が馬場さんとやってその勝者がくればいい」と、素っ気なかった。 第3勢力の国際は大勝負に出たつもりだったが、当時業界のトップを走っていた猪木のプライドに一蹴された格好だ。 しかし猪木の言葉通り、同年12月6日からジャイアント馬場の全日本は国際と外国人選手の強豪20選手を集めた、当時としては最大規模の総当りリーグ戦「オープン選手権」を開催(同18日最終戦、優勝は馬場)。 木村は同17日の公式戦で馬場と激突するもブッチャーの乱入もあって敗退、ジャンボ鶴田らと同点の5位タイに終わった。 猪木との初対決は、国際崩壊後の81年10月8日まで約6年半もの歳月を要することになる。 (敬称略) 東京スポーツ.
次の来歴 [ ] ハワイでは学生時代にで活動する一方、試合を終えたプロレスラーが集まるナイトクラブで用心棒として働いていた。 を除隊後、ハワイ地区のプロモーターだったエド・フランシスに誘われてに入り。 デビュー当初は、同じハワイ出身のやのフォローを受けていたという。 本名のマクロナルド・カマカ( McRonald Kamaka)名義で活動後、よりの地区で トーア・カマタ( Tor Kamata)に改名。 ヤマモトとのタッグ解消後もトーア・カマタとしてや中南部など各地を転戦、には地区でやと抗争した。 圏では日系人レスラーの大御所ミスター・モトにあやかり、 ドクター・モト( Dr. Moto)のリングネームで活躍。 アラカワとのタッグ解消後、よりリングネームをトーア・カマタに戻し、派手なをまとったとして北米の主要テリトリーを転戦。 にはにてともタッグを組んだ。 の地区(主宰の)ではにやを破って北米ヘビー級王座を再三獲得。 王座戴冠中の同年7月8日にはにて、当時が保持していたに挑戦した。 以降もフラッグシップ・タイトルの北米王座を巡り、、、、らと対戦。 同タイプのとも流血の抗争を繰り広げた。 5月には同地区のブッカーだったの招聘でに初来日。 以後、日本マットにおいても実績を残した()。 下期からはのに進出。 、、らを下すも、・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者のに挑戦させてもらえなかったという逸話を残している (での挑戦機会はなかったものの、1月15日に、2月27日ににてサンマルチノへの挑戦が実現した )。 地元のハワイでは、12月にからNWA北米ヘビー級王座を、8月にからNWAハワイ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取。 は再びニューヨークに登場して、新王者のに挑戦。 8月9日ににて開催されたビッグ・イベント "" にも出場しており、を相手に反則負けを喫している。 の下期はの主宰するに参戦して、のマネージメントのもと、、、らと共闘。 にはのブッキングにより、 キング・カマタ( King Kamata)のリングネームでに遠征。 やをパートナーにタッグ王座を獲得している。 前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たしたに現役を引退した。 、・にてのため死去。 70歳没。 日本での活躍 [ ] 5月、に初来日。 5月26日に、6月6日ににてのに連続挑戦(宇都宮ではで挑戦)。 以降、まで3回に渡って国際プロレスに参戦し、木村のIWA世界タイトルには計5回挑戦、でも雌雄を決している。 5月、に初登場し、6月1日にでのに挑戦。 38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り、第2代の王者となる(カマタの反則攻撃に怒った馬場の暴走による反則勝ち)。 しかし6月12日のでの初防衛戦でに敗れて王座転落。 同年10月9日ににてロビンソンにリターン・マッチを挑むが失敗 、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。 以降も全日本の常連外国人ヒールとなり、にはに、1978年後半戦とには因縁のと組んで参加。 1979年のでは、3月17日のでの公式戦でブッチャーと対戦して引き分けているが 、カルガリー時代のようなには発展せず、全日本ではブッチャーのパートナーとして女房役に回った。 1980年2月の来日ではとの対立アングルが組まれ、3月2日に後楽園ホールで行われたシングルマッチではマードックを相手に大流血戦を演じた。 1982年は1月3日に後楽園ホール、7月9日ににて、鶴田のにも2回挑戦した。 日本には国際・全日本を合わせ、1975年5月から5月まで12年間で計16回来日している。 1980年の参戦時には、、、、など当時の系の外国人選手と対戦 、8月9日の "" ではやと邂逅したが 、団体間ののため新日本に来ることはなかった。 エピソード [ ]• トーア・カマタというリングネームは日系人らしく見せるためのネーミング・ギミックで、「トーア」は「東亜」より取ったといわれているが、からすると「巨大な岩山」という意味合いである。 また、で知られるをもじって名付けられたともされる。 国際プロレス参戦時、()の胸ぐらを掴み、実況席からゴボウ抜きにし、背広をビリビリに破いたことがある。 プロレスファンからも存在が忘れられていた、当時の人気『』の『』において、カマタをモデルとした「 トーア・カマタ男」が登場。 ノリダーの敵役の怪人としてが演じた。 これによりプロレスファン以外の知名度も高まり、放送局だったにより本人招聘も企画されたが、相談を受けた全日本プロレス側の「当人の体調面(心臓疾患の容態)の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがある」との見解から実現には至らなかったという。 のインタビューにおいて、自身のキャリアにおけるラフェスト・マッチ(もっとも荒っぽかった試合)としてブッチャー戦を挙げている。 強面(こわもて)の外見とは違って、普段は物静かで細工やが趣味だったという。 好物はと。 作家のは、カマタがジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を奪取した1978年当時「腐れおめこ」というバンドを組んでおり、『 馬場はカマタに負けよった』なる曲を歌っていた。 得意技 [ ]• 当時の中継では「指突き」と紹介された。 突きを中心にした空手を連想させる打撃技が得意である。 他に「三段突き」なども。 当時の中継では「」とも紹介された。 トー・キック その場で垂直にジャンプして空中で相手の喉元を蹴り上げる。 当時カマタのようなアンコ型のレスラーのドロップキックは非常に珍しかった。 また、打点が高くフォームが美しいという点も特筆される。 獲得タイトル [ ]• :1回• NWAハワイ・ヘビー級王座:1回• NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回• WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回• スタンピード北米ヘビー級王座:3回 脚注 [ ]• SLAM! Sports: July 7, 2004. 2016年7月26日閲覧。 SLAM! Sports: July 26, 2007. 2010年4月8日閲覧。 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P82(2002年、日本スポーツ出版社)• Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年4月8日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年4月8日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2019年6月3日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年12月18日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2013年9月28日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2013年9月28日閲覧。 The History of WWE. 2008年7月12日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 『別冊ゴング 昭和52年6月号』P132(1977年、日本スポーツ出版社)• The History of WWE. 2011年12月2日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2013年7月11日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 The History of WWE. 2008年7月12日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 Cagematch. net. 2015年4月14日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2016年7月26日閲覧。 Cagematch. net. 2014年9月9日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年9月9日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年4月8日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月14日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月14日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月14日閲覧。 Cagematch. net. 2015年4月14日閲覧。 Cagematch. net. 2015年4月14日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年4月14日閲覧。 『デラックス・プロレス 昭和58年3月号』P56(1983年、)• 1』P66(2007年、、)• 『町田康全歌詩集 1977-1997』(2001年、、)• Wrestling-Titles. com. 2014年11月8日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年12月2日閲覧。 外部リンク [ ]•
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