コートジボワール 国旗。 コートジボワールの国旗

国旗の縦横比一覧表

コートジボワール 国旗

以前の植民地時代から、この地域にある海岸の名称として、以下のように各国語への意訳が行われていた。 の場合、外交関係を有する政府ではの 科特迪瓦(クォウトゥディウワー)を用いているが 、外交関係を有しない()政府では現在も 象牙海岸(シャンヤーハイアン)が用いられている。 国民・形容詞の英語表記はIvorian。 独立後の初参加となったでは、英語名の"Ivory Coast"をへ転写した「アイボリーコースト」の名称で入場した。 その6年後のに開催されたでは「象牙海岸館」の名称でを出展している。 にコートジボワール政府から日本政府へ外名の変更を要請されて以降、大臣官房総務課が内規として定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワール」も選択表記という形で公文書への使用が可とされた。 これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『』が「象牙海岸」から「コートジボワール」に表記を変更し、の宛先表記やを始めとするマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワール」が使用されるようになっている。 それ以降も法文上はなお「象牙海岸共和国」が使用されていたが、に国名の日本語標準表記の根拠法令とされる(在外公館設置法)別表1の改正で当時は既に一般的でなくなっていた他の国名表記と合わせて見直しが実施され、法文上の表記に関しても「象牙海岸」を廃して「コートジボワール」に統一された。 これは政体の変革等に伴う変更を別にすれば、日本語における国名の標準表記が変更された初めての例である。 2003年(平成15年)に日本で制定された在外公館設置法の別表1改正以降の日本語表記は コートジボワール共和国、通称が コートジボワール。 一部の地図帳や社会科の教科書、教育書籍等の文献では語感の都合から「コートジボ アール」という表記ゆれも見られる。 日本語では表記の字数が8文字と多くなるため「 コートジ」と略されることもあるが、駐日コートジボワール大使館は「コートジボワールという国名に残念ながら、略称は存在しない。 コートジボワールとそのまま表記してほしい」としており、在コートジボワール日本大使館は、関係者間で何について話しているか分かっているという前提で「コートジ」と略すことはあるものの、公式な略称ではないとしている。 また、「コートジ」をそのまま訳すと「~の海岸」(英語風にするならCoast of)となるため(例: 「青の海岸」)、フランス語話者に仮に「コートジ」と言った場合、「どこの海岸なの? 」と質問される可能性がある。 歴史 [ ] 詳細は「」を参照 仏大統領の植民地放棄の流れの中で、に自治国となり、に正式独立、初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のが就任した。 PDCIによるとウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって政治は安定し、開放政策が採られ、からにかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げ、その発展は「」(: Ivorian miracle)と呼ばれた。 終結に伴う国際的な民主化の流れの中で、10月に初の複数候補による大統領選挙が行われ、ウフェ=ボワニ大統領が7選。 11月には初の複数政党制での総選挙が実施されたが、PDCIが圧勝したが、イボワール人民戦線(FPI)なども議席を獲得した。 にウフェ=ボワニ大統領が在職33年で死去すると、憲法上の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のが第2代大統領に就任した。 10月の大統領選では、主要野党がボイコットするなか、ベディエ大統領が圧勝。 11月の総選挙でPDCIが絶対多数を確保した。 クーデター [ ] 、現職に不満を持ったの元参謀長らがを強行し、翌日には軍事政権「国家国民救済委員会」を設置、1月にゲイが第3代大統領に就任した。 5月にゲイ大統領は民政復帰に向け、新制定のための国民投票や大統領選、議会選を順次実施する方針を発表した。 7月に新憲法草案が国民投票で承認され、には大統領選も実施されたが、軍事政権は集計作業を中断させてゲイ大統領の当選を一方的に発表した。 しかし、市民らの抗議行動でゲイは逃亡し、にはFPIのが第4代大統領に就任した。 バグボ大統領はにFPI選挙対策幹部の()をに指名、挙国一致内閣が成立したが、共和連合(RDR)は新政府に参加しなかった。 4月、ゲイによるクーデターでフランスに亡命したベディエ元大統領がPDCI党首に再選された。 にはと見なされて大統領選などへの立候補を拒否されたRDR党首の元首相がコートジボワール国籍を取得し、大統領選へ出馬するものと考えられた。 第1次コートジボワール内戦 [ ] 詳細は「 ()」を参照 、バグボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「 (、)」(MPCI)が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した( ())。 政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。 一方の政府はドゥドゥ内相が殺害され、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。 22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍をコートジボワールへ派遣し、までに日本人11人を含む1,500人を救出した。 には(ECOWAS)がので緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。 バグボ大統領はにクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。 対する反乱軍はにブアケでなどの調停に応じてに調印、政府側も停戦に応じた。 ECOWASはに停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、には政府と反乱軍がので和平交渉を開始した。 に西部のマン周辺で (、)(MJP)や (、)(MPIGO)を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、〜にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、1月に郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「」を宣言した。 この内戦の段階で反乱軍(FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。 政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面した。 「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。 10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。 政府軍はにFN占領地域を空爆、に政府軍がのを誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。 この反動で、政府放送の扇動を受けた、が指導する「 ()」(バグボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。 避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。 また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。 4月、の仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。 は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバグボ大統領の任期を1年延長することを認めた。 12月には()首相に代わって、(BCEAO)総裁の()が首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。 1月、(UNOCI)や(AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちが市内の道路を封鎖した。 また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍(、、など)の基地、フランス、国営テレビ前で抗議活動が行われた。 西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。 結局、の大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。 しかし、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。 第2次コートジボワール内戦 [ ] 詳細は「」、「」、および「 ()」を参照 、内戦終結後の和平プロセスの停滞から再三延期されていた大統領選挙が行われた。 選挙には14人が立候補し、過半数を得た候補者はおらず、現職のローラン・バグボ大統領( Laurent Gbagbo、2000年10月26日就任、イボワール人民戦線)と野党を率いる元首相の上位2人が決選投票に進み、11月28日に投票が行われた。 しかし、バグボ陣営はワタラ陣営による不正があったと主張し、バグボ大統領派の影響力が強く、中立性が疑われている憲法評議会は3日、「北部でワタラ陣営による投票行為の妨害や不正があった」として一部地域での投票結果を取り消し、バグボを当選者とすると発表した。 これに反発してソロ首相は辞任した。 5日、バグボはアビジャンにおいて大統領就任宣誓式を行った。 これに対抗してワタラも同じアビジャン市内のホテルで国連平和維持部隊に守られながら就任宣誓を行い、ソロ前首相の続投を承認した。 欧米諸国や国連は、ワタラ当選の選管発表を支持するとの声明を出している。 これによりコートジボワールは二重政府状態に陥り、混乱が続いた。 しかし、、ワタラ側の軍の攻撃によってバグボが拘束され、バグボとアケの失脚が確定した。 これを受け、4月12日にはバグボ側の軍の参謀総長や警察と憲兵隊のトップらがワタラに対して忠誠を誓い、5月6日にはワタラが就任宣誓を改めて行い、異常事態は解消された。 政治 [ ] 詳細は「」を参照 首都は国土中央部にあるであるが、最大都市は旧首都である南部のである。 アビジャンは国内最大の港湾を持ち、各種産業が集積して国内経済の中心地となっているほか、ヤムスクロに遷都後も政府機関のほとんどはアビジャンに残留したままであるため、首都機能は事実上アビジャンにある。 これに次ぐ都市は中部にあるである。 ブアケは北部の中心都市であり、コートジボワールが南北に分かれ内戦が起きたときには北部勢力の拠点となっていた。 このほか、西部にありカカオの集散地であるや、そのカカオの輸出港である南西部の、北部のなどが大きな都市である。 地理 [ ] によれば、海岸部は高温多湿の、内陸部のはに属する。 1年の平均気温は25度C〜33度Cで、11月〜3月が暖かく乾燥、3月〜5月が暑く乾燥、6月〜10月が暑く湿潤と分けられる。 海岸には多数の川が注ぎ、とが発達する。 最北部の500mへ徐々に高度を上げる。 最高地点は西部国境の(Nimba)で標高は1752m。 天然港が無く、高波と雨季の洪水が主な自然災害である。 経済 [ ] 詳細は「 ()」および「」を参照 の統計によると、の(GDP)は約282億ドルであり 、とほぼ同じ経済規模である。 また、同年の一人当たりGDPは1,175ドルであり、世界的には非常に低い水準である。 独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」と呼ばれ、「」の下で比較的高い経済水準を維持した。 一人当たりのGDPも他の諸国と比較した場合は低くない水準である。 主要産業は(世界一の輸出国)、、類、天然の生産を中心とする。 他に(、)、、(食品加工、石油製品)も盛ん。 カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大なを抱え財政を圧迫。 2010年代には、気候の変化により降水量が極端に減少。 カカオの一大生産地であった地域でも農地が放棄される事例が出ている。 このため2019年以降、隣国のガーナと共にカカオ豆の価格を管理する動きを見せている。 : 国際関係 [ ] 日本との関係 [ ]• 在留日本人数 - 152名(2018年8月現在)• イスラーム関連の祝祭日に関してはによるため直前にならないと確定しないだけではなく、年によりいつ頃の季節になるかさえ違ってくる。 スポーツ [ ] が盛んであり、は1992年ので優勝し、の大会では予選でを破って本戦への初出場を果たした。 主なプロクラブとしては、などの名が挙げられる。 にはの開催国となる予定である。 開催されれば以来37年ぶりの開催となる。 著名な出身者 [ ]• 外務省. 2018年11月5日閲覧。 アポロ仏和辞典( )による発音のカタカナ表記より• () 2016-07-21閲覧。 (中国領事服務網) 2016-07-21閲覧。 () 2016-07-21閲覧。 オリンピック東京大会組織委員会(編)『第十八回オリンピック競技大会公式報告書』上巻() , p230• 2017年12月14日閲覧。 THE PAGE Yahoo! ニュース. 2014年6月6日. 2014年11月7日閲覧。 コートジボワール大統領選:2氏が就任宣誓 混乱広がる• ヨハネスブルク支局 、2010年12月4日。 の2010年12月6日時点によるアーカイブ。。 International Institute for Strategic Studies IISS , The Military Balance 2008• IMF。 2014年5月10日閲覧。 内閣府。 2013年12月7日閲覧。 AFP通信(2016年10月4日)2016年12月6日• 「チョコレート産業 甘み少ない農家」『読売新聞』2020年2月28日6面• 参考文献 [ ]• 『ストリートの歌 : 現代アフリカの若者文化』 、2000年3月。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 コートジボワールに関連する および があります。 (フランス語)• (日本語) (フランス語) 日本政府• (日本語) 観光• (フランス語)• ウィキボヤージュには、に関する旅行情報があります。 (日本語) その他• に関連する地理データ -• (英語)•

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コートジボワールの国旗の意味・由来〜コートジボワールの国旗の意味・由来を解説

コートジボワール 国旗

現在、世界にある国々の数は「196ヵ国」はあるとされています。 その国の象徴として定められた旗「国旗」に使われる色の意味の違いや、その国にまつわる色をまとめてみました。 西アフリカ アフリカ大陸西部に位置する地域。 国旗の色指定を正式に公表されている国もありますが、公表されていない国も多くありますので、ここでは近似色と思われる色を表記しています。 また、国によって定義は異なるため、ここでは「現在の国名」になった年を「建国」の年として表記しています。 ガーナ共和国 アフリカ大陸西部に位置する、ギニア湾に面した国。 英語表記 Republic of Ghana リパブリック・オブ・ガーナ 国コード GHA 首都 Accra アクラ 面積 239,460K㎢ 人口 29,280,235人(2018年現在) 言語 英語 ガ語 隣国 コートジボワール ブルキナファソ トーゴなど 建国 1960年 国旗制定年 1966年 国旗縦横比 2:3• ED2E38 Red レッド 独立闘争で流された血 パントン:032C CMYK:7. 0 RGB:237. 56 FFD100 Yellow イエロー 鉱物資源 パントン:109C CMYK:4. 0 RGB:255. 209. 0 009B3A Green グリーン 農地、豊かな森林 パントン:355C CMYK:80. 100. 0 RGB:0. 155. 80 RGB:0. 0 ガーナの国旗は、中央に黒い星を配した、赤・黄・緑の汎アフリカ色を使用した横三色旗。 赤はイギリスからの独立闘争で流された血、黄は金などの鉱物資源、緑は農地や豊かな森林、黒い星はアフリカの自由の象徴を表している。 ギニア共和国 アフリカ大陸西端部に位置する、太西洋に面した国。 ED2E38 Rouge ルージュ 独立闘争で流された血 パントン:032C CMYK:7. 0 RGB:237. 56 FFD100 Jaune ジョーヌ 鉱産資源、太陽、正義 パントン:109C CMYK:4. 0 RGB:255. 209. 0 009B3A Vert ベール 国民の団結、農業、繁栄 パントン:355C CMYK:80. 100. 0 RGB:0. 155. 58 ギニアの国旗は、赤・黄・緑の汎アフリカ色を使用した縦三色旗。 赤はフランスからの独立闘争で流された血、黄は鉱産資源や太陽、正義、緑は国民の団結や農業、繁栄を表している。 コートジボワール共和国 アフリカ大陸西部に位置する、ギニア湾に面した国。 FF8200 Orange オランジュ 力強い成長、豊かな国土、サバンナ パントン:151C CMYK:0. 0 RGB:255. 130. 0 RGB:255. 255. 255 009946 Vert ベール 未来への希望、熱帯雨林 パントン:347C CMYK:80. 0 RGB:0. 153. 70 コートジボワールの国旗は、 オレンジ・白・緑の縦三色旗。 オレンジは国の力強い成長と豊かな国土、サバンナ、白は国民の誠実さと団結から生まれる平和、南北統一、緑は未来への希望と熱帯雨林を表している。 セネガル共和国 アフリカ大陸最先端に位置する、大西洋に面した国。 英語表記 Republic of Senegal リパブリック・オブ・セネガル 国コード SEN 首都 Dakar ダカール 面積 196,190K㎢ 人口 16,524,429人(2018年現在) 言語 フランス語 ウオロフ語 隣国 モーリタニア マリ ガンビア ギニアなど 建国 1960年 国旗制定年 1960年 国旗縦横比 2:3• 009B3A Vert ベール 発展への希望 パントン:355C CMYK:80. 100. 0 RGB:0. 155. 58 FFD100 Jaune ジョーヌ 天然資源、富 パントン:109C CMYK:4. 0 RGB:255. 209. 0 ED2E38 Rouge ルージュ 独立闘争で流された血、社会主義 パントン:032C CMYK:7. 0 RGB:237. 56 セネガルの国旗は、中央に緑の五角星を配した、緑・黄・赤の汎アフリカ色を使用した縦三色旗。 緑は発展への希望、黄は天然資源と国の富、赤は独立闘争で流された血と社会主義、五角星は希望と統一を表している。 ナイジェリア連邦共和国 アフリカ大陸中西部に位置する、ギニア湾の最奥部に面した国。 英語表記 Federal Republic of Nigeria フェデラル・リパブリック・オブ・ナイジェリア 国コード NGA 首都 Abuja アブジャ 面積 923,768㎢ 人口 196,752,840人(2018年現在) 言語 英語 ハウサ語 ヨルバ語 イボ語 隣国 ベナン ニジェール チャド カメルーンなど 建国 1963年 国旗制定年 1960年 国旗縦横比 1:2.

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コートジボワール

コートジボワール 国旗

以前の植民地時代から、この地域にある海岸の名称として、以下のように各国語への意訳が行われていた。 の場合、外交関係を有する政府ではの 科特迪瓦(クォウトゥディウワー)を用いているが 、外交関係を有しない()政府では現在も 象牙海岸(シャンヤーハイアン)が用いられている。 国民・形容詞の英語表記はIvorian。 独立後の初参加となったでは、英語名の"Ivory Coast"をへ転写した「アイボリーコースト」の名称で入場した。 その6年後のに開催されたでは「象牙海岸館」の名称でを出展している。 にコートジボワール政府から日本政府へ外名の変更を要請されて以降、大臣官房総務課が内規として定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワール」も選択表記という形で公文書への使用が可とされた。 これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『』が「象牙海岸」から「コートジボワール」に表記を変更し、の宛先表記やを始めとするマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワール」が使用されるようになっている。 それ以降も法文上はなお「象牙海岸共和国」が使用されていたが、に国名の日本語標準表記の根拠法令とされる(在外公館設置法)別表1の改正で当時は既に一般的でなくなっていた他の国名表記と合わせて見直しが実施され、法文上の表記に関しても「象牙海岸」を廃して「コートジボワール」に統一された。 これは政体の変革等に伴う変更を別にすれば、日本語における国名の標準表記が変更された初めての例である。 2003年(平成15年)に日本で制定された在外公館設置法の別表1改正以降の日本語表記は コートジボワール共和国、通称が コートジボワール。 一部の地図帳や社会科の教科書、教育書籍等の文献では語感の都合から「コートジボ アール」という表記ゆれも見られる。 日本語では表記の字数が8文字と多くなるため「 コートジ」と略されることもあるが、駐日コートジボワール大使館は「コートジボワールという国名に残念ながら、略称は存在しない。 コートジボワールとそのまま表記してほしい」としており、在コートジボワール日本大使館は、関係者間で何について話しているか分かっているという前提で「コートジ」と略すことはあるものの、公式な略称ではないとしている。 また、「コートジ」をそのまま訳すと「~の海岸」(英語風にするならCoast of)となるため(例: 「青の海岸」)、フランス語話者に仮に「コートジ」と言った場合、「どこの海岸なの? 」と質問される可能性がある。 歴史 [ ] 詳細は「」を参照 仏大統領の植民地放棄の流れの中で、に自治国となり、に正式独立、初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のが就任した。 PDCIによるとウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって政治は安定し、開放政策が採られ、からにかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げ、その発展は「」(: Ivorian miracle)と呼ばれた。 終結に伴う国際的な民主化の流れの中で、10月に初の複数候補による大統領選挙が行われ、ウフェ=ボワニ大統領が7選。 11月には初の複数政党制での総選挙が実施されたが、PDCIが圧勝したが、イボワール人民戦線(FPI)なども議席を獲得した。 にウフェ=ボワニ大統領が在職33年で死去すると、憲法上の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のが第2代大統領に就任した。 10月の大統領選では、主要野党がボイコットするなか、ベディエ大統領が圧勝。 11月の総選挙でPDCIが絶対多数を確保した。 クーデター [ ] 、現職に不満を持ったの元参謀長らがを強行し、翌日には軍事政権「国家国民救済委員会」を設置、1月にゲイが第3代大統領に就任した。 5月にゲイ大統領は民政復帰に向け、新制定のための国民投票や大統領選、議会選を順次実施する方針を発表した。 7月に新憲法草案が国民投票で承認され、には大統領選も実施されたが、軍事政権は集計作業を中断させてゲイ大統領の当選を一方的に発表した。 しかし、市民らの抗議行動でゲイは逃亡し、にはFPIのが第4代大統領に就任した。 バグボ大統領はにFPI選挙対策幹部の()をに指名、挙国一致内閣が成立したが、共和連合(RDR)は新政府に参加しなかった。 4月、ゲイによるクーデターでフランスに亡命したベディエ元大統領がPDCI党首に再選された。 にはと見なされて大統領選などへの立候補を拒否されたRDR党首の元首相がコートジボワール国籍を取得し、大統領選へ出馬するものと考えられた。 第1次コートジボワール内戦 [ ] 詳細は「 ()」を参照 、バグボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「 (、)」(MPCI)が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した( ())。 政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。 一方の政府はドゥドゥ内相が殺害され、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。 22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍をコートジボワールへ派遣し、までに日本人11人を含む1,500人を救出した。 には(ECOWAS)がので緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。 バグボ大統領はにクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。 対する反乱軍はにブアケでなどの調停に応じてに調印、政府側も停戦に応じた。 ECOWASはに停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、には政府と反乱軍がので和平交渉を開始した。 に西部のマン周辺で (、)(MJP)や (、)(MPIGO)を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、〜にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、1月に郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「」を宣言した。 この内戦の段階で反乱軍(FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。 政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面した。 「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。 10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。 政府軍はにFN占領地域を空爆、に政府軍がのを誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。 この反動で、政府放送の扇動を受けた、が指導する「 ()」(バグボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。 避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。 また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。 4月、の仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。 は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバグボ大統領の任期を1年延長することを認めた。 12月には()首相に代わって、(BCEAO)総裁の()が首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。 1月、(UNOCI)や(AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちが市内の道路を封鎖した。 また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍(、、など)の基地、フランス、国営テレビ前で抗議活動が行われた。 西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。 結局、の大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。 しかし、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。 第2次コートジボワール内戦 [ ] 詳細は「」、「」、および「 ()」を参照 、内戦終結後の和平プロセスの停滞から再三延期されていた大統領選挙が行われた。 選挙には14人が立候補し、過半数を得た候補者はおらず、現職のローラン・バグボ大統領( Laurent Gbagbo、2000年10月26日就任、イボワール人民戦線)と野党を率いる元首相の上位2人が決選投票に進み、11月28日に投票が行われた。 しかし、バグボ陣営はワタラ陣営による不正があったと主張し、バグボ大統領派の影響力が強く、中立性が疑われている憲法評議会は3日、「北部でワタラ陣営による投票行為の妨害や不正があった」として一部地域での投票結果を取り消し、バグボを当選者とすると発表した。 これに反発してソロ首相は辞任した。 5日、バグボはアビジャンにおいて大統領就任宣誓式を行った。 これに対抗してワタラも同じアビジャン市内のホテルで国連平和維持部隊に守られながら就任宣誓を行い、ソロ前首相の続投を承認した。 欧米諸国や国連は、ワタラ当選の選管発表を支持するとの声明を出している。 これによりコートジボワールは二重政府状態に陥り、混乱が続いた。 しかし、、ワタラ側の軍の攻撃によってバグボが拘束され、バグボとアケの失脚が確定した。 これを受け、4月12日にはバグボ側の軍の参謀総長や警察と憲兵隊のトップらがワタラに対して忠誠を誓い、5月6日にはワタラが就任宣誓を改めて行い、異常事態は解消された。 政治 [ ] 詳細は「」を参照 首都は国土中央部にあるであるが、最大都市は旧首都である南部のである。 アビジャンは国内最大の港湾を持ち、各種産業が集積して国内経済の中心地となっているほか、ヤムスクロに遷都後も政府機関のほとんどはアビジャンに残留したままであるため、首都機能は事実上アビジャンにある。 これに次ぐ都市は中部にあるである。 ブアケは北部の中心都市であり、コートジボワールが南北に分かれ内戦が起きたときには北部勢力の拠点となっていた。 このほか、西部にありカカオの集散地であるや、そのカカオの輸出港である南西部の、北部のなどが大きな都市である。 地理 [ ] によれば、海岸部は高温多湿の、内陸部のはに属する。 1年の平均気温は25度C〜33度Cで、11月〜3月が暖かく乾燥、3月〜5月が暑く乾燥、6月〜10月が暑く湿潤と分けられる。 海岸には多数の川が注ぎ、とが発達する。 最北部の500mへ徐々に高度を上げる。 最高地点は西部国境の(Nimba)で標高は1752m。 天然港が無く、高波と雨季の洪水が主な自然災害である。 経済 [ ] 詳細は「 ()」および「」を参照 の統計によると、の(GDP)は約282億ドルであり 、とほぼ同じ経済規模である。 また、同年の一人当たりGDPは1,175ドルであり、世界的には非常に低い水準である。 独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」と呼ばれ、「」の下で比較的高い経済水準を維持した。 一人当たりのGDPも他の諸国と比較した場合は低くない水準である。 主要産業は(世界一の輸出国)、、類、天然の生産を中心とする。 他に(、)、、(食品加工、石油製品)も盛ん。 カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大なを抱え財政を圧迫。 2010年代には、気候の変化により降水量が極端に減少。 カカオの一大生産地であった地域でも農地が放棄される事例が出ている。 このため2019年以降、隣国のガーナと共にカカオ豆の価格を管理する動きを見せている。 : 国際関係 [ ] 日本との関係 [ ]• 在留日本人数 - 152名(2018年8月現在)• イスラーム関連の祝祭日に関してはによるため直前にならないと確定しないだけではなく、年によりいつ頃の季節になるかさえ違ってくる。 スポーツ [ ] が盛んであり、は1992年ので優勝し、の大会では予選でを破って本戦への初出場を果たした。 主なプロクラブとしては、などの名が挙げられる。 にはの開催国となる予定である。 開催されれば以来37年ぶりの開催となる。 著名な出身者 [ ]• 外務省. 2018年11月5日閲覧。 アポロ仏和辞典( )による発音のカタカナ表記より• () 2016-07-21閲覧。 (中国領事服務網) 2016-07-21閲覧。 () 2016-07-21閲覧。 オリンピック東京大会組織委員会(編)『第十八回オリンピック競技大会公式報告書』上巻() , p230• 2017年12月14日閲覧。 THE PAGE Yahoo! ニュース. 2014年6月6日. 2014年11月7日閲覧。 コートジボワール大統領選:2氏が就任宣誓 混乱広がる• ヨハネスブルク支局 、2010年12月4日。 の2010年12月6日時点によるアーカイブ。。 International Institute for Strategic Studies IISS , The Military Balance 2008• IMF。 2014年5月10日閲覧。 内閣府。 2013年12月7日閲覧。 AFP通信(2016年10月4日)2016年12月6日• 「チョコレート産業 甘み少ない農家」『読売新聞』2020年2月28日6面• 参考文献 [ ]• 『ストリートの歌 : 現代アフリカの若者文化』 、2000年3月。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 コートジボワールに関連する および があります。 (フランス語)• (日本語) (フランス語) 日本政府• (日本語) 観光• (フランス語)• ウィキボヤージュには、に関する旅行情報があります。 (日本語) その他• に関連する地理データ -• (英語)•

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