ジュンガル。 北アジアの国の変遷 【後半】

東トルキスタンの歴史

ジュンガル

現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきました。 トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けられ、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれます。 中国の歴代王朝が本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満州人の征服王朝である清のときからです。 それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみです。 中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けてきたかのように喧伝していますが、これは事実と異なります。 中国の歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたことからも分かります。 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域の最初の住人は、イラン系・インド系のアーリア人でしたが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴や柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配しました。 そしてこの地域をテュルク系民族が住む「トルキスタン」としていく主体となったのは二つのウイグル王国、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)とカラ・ハン朝です。 両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国です。 西ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していきました。 カラ・ハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク系民族として初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開し、このときにカラ・ハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになりました。 首都カシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄しました。 このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジプの「クタドゥグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」です。 その後世界的な大帝国であるモンゴル帝国がこの地域に進行してときには、ウイグル人はあえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選びました。 ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せました。 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでセイディヤ モグーリスタン ・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配しました。 東チャガタイ・ハン国の後半から、モンゴル支配層は言語的にウイグル語を受容し、宗教的にイスラム教を受け入れ、基本的にウイグル化が進んでいました。 セイディヤ・ハン国の王族や貴族達は殆どウイグル化していました。 なお、このセイディヤ・ハン国のときに、タリム盆地全域がイスラム化しました。 この時代のタリム盆地の名目的な支配者はウイグル化したモンゴル人王朝のセイディヤ モグーリスタン ・ハン家でしたが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族でした。 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配の手を伸ばしてきました。 ジュンガル帝国三代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げました。 彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ五世の下で過ごしていました。 ダライ・ラマ五世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げました。 その後東モンゴル族のハルハ部も破りましたが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになりました。 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成されました。 この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなりました。 続いて1759年には、タリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされましたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、失地回復のための聖戦を後に繰り返すことになります。 このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリム・イスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けました。 清朝の支配は、将軍や大臣の下に各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものでした。 これはチベットの支配でも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット人、ウイグル人を味方につけるための優遇措置であったと考えられます。 このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われます。 19世紀半ばから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発しました。 このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクが、この地域にカシュガル・ハン国を建てました。 これにより東トルキスタンは再びテュルク系民族によるイスラム政権が樹立することになったのです。 対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていました。 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠の侵略により滅び、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなりました。 1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなりました。 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは、イギリスとロシアの勢力争いの場となっていました。 また英露をはじめヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされました。 また、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中からは、ロシアの圧迫への反発から、近代的改革の動きが生まれました。 彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動といいます。 これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きました。 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要となります。 それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになりました。 当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力しました。 有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいます。 彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになりました。 ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいます。 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれましたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立しました。 このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国となり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となりました。 そしてそれに遅れること約20年、東トルキスタンでも侵略者を追い出し、自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきました。 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていましたが、実質は漢人の軍閥によって支配されていました。 清末期から続いていた東トルキスタンへの漢人の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間には不満と怒りが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていました。 そして、1931年3月にクムル(ハミ)で起きた蜂起が、東トルキスタン全土に飛び火しました。 その混乱の最中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至りました。 大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立されました。 しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えました。 1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わりましたが、この頃の東トルキスタン情勢について日本政府は強い関心を持っていました。 国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対し、日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていました。 指導者の中には東京まで亡命してきた者もいました。 彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようですが、その後日本政府が東トルキスタンに対しての関心を失ってしまったため実現しませんでした。 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族による民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言しました。 主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていました。 ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握しました(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。 1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫りましたが、突然進軍を停止しました。 これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と中国国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためです。 武力による独立闘争に代わって和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年に東トルキスタン政府とウルムチの国民党政府との間に和平協定が締結されました。 これにより、お互いの閣僚を出し合った新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言しました。 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定しました。 8月に開催される会議に参加するため、政治的指導者たちは北京に向かいましたが、途中行方を絶つことになりました。 一説にはソ連に連れ去られ殺害されたとも言われています。 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」され、1955年に新疆省から新疆ウイグル自治区へと名称を変え、現在に至っています。

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清・ジュンガル戦争

ジュンガル

現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきました。 トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けられ、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれます。 中国の歴代王朝が本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満州人の征服王朝である清のときからです。 それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみです。 中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けてきたかのように喧伝していますが、これは事実と異なります。 中国の歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたことからも分かります。 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域の最初の住人は、イラン系・インド系のアーリア人でしたが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴や柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配しました。 そしてこの地域をテュルク系民族が住む「トルキスタン」としていく主体となったのは二つのウイグル王国、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)とカラ・ハン朝です。 両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国です。 西ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していきました。 カラ・ハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク系民族として初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開し、このときにカラ・ハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになりました。 首都カシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄しました。 このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジプの「クタドゥグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」です。 その後世界的な大帝国であるモンゴル帝国がこの地域に進行してときには、ウイグル人はあえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選びました。 ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せました。 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでセイディヤ モグーリスタン ・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配しました。 東チャガタイ・ハン国の後半から、モンゴル支配層は言語的にウイグル語を受容し、宗教的にイスラム教を受け入れ、基本的にウイグル化が進んでいました。 セイディヤ・ハン国の王族や貴族達は殆どウイグル化していました。 なお、このセイディヤ・ハン国のときに、タリム盆地全域がイスラム化しました。 この時代のタリム盆地の名目的な支配者はウイグル化したモンゴル人王朝のセイディヤ モグーリスタン ・ハン家でしたが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族でした。 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配の手を伸ばしてきました。 ジュンガル帝国三代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げました。 彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ五世の下で過ごしていました。 ダライ・ラマ五世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げました。 その後東モンゴル族のハルハ部も破りましたが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになりました。 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成されました。 この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなりました。 続いて1759年には、タリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされましたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、失地回復のための聖戦を後に繰り返すことになります。 このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリム・イスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けました。 清朝の支配は、将軍や大臣の下に各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものでした。 これはチベットの支配でも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット人、ウイグル人を味方につけるための優遇措置であったと考えられます。 このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われます。 19世紀半ばから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発しました。 このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクが、この地域にカシュガル・ハン国を建てました。 これにより東トルキスタンは再びテュルク系民族によるイスラム政権が樹立することになったのです。 対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていました。 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠の侵略により滅び、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなりました。 1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなりました。 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは、イギリスとロシアの勢力争いの場となっていました。 また英露をはじめヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされました。 また、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中からは、ロシアの圧迫への反発から、近代的改革の動きが生まれました。 彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動といいます。 これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きました。 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要となります。 それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになりました。 当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力しました。 有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいます。 彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになりました。 ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいます。 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれましたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立しました。 このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国となり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となりました。 そしてそれに遅れること約20年、東トルキスタンでも侵略者を追い出し、自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきました。 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていましたが、実質は漢人の軍閥によって支配されていました。 清末期から続いていた東トルキスタンへの漢人の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間には不満と怒りが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていました。 そして、1931年3月にクムル(ハミ)で起きた蜂起が、東トルキスタン全土に飛び火しました。 その混乱の最中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至りました。 大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立されました。 しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えました。 1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わりましたが、この頃の東トルキスタン情勢について日本政府は強い関心を持っていました。 国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対し、日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていました。 指導者の中には東京まで亡命してきた者もいました。 彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようですが、その後日本政府が東トルキスタンに対しての関心を失ってしまったため実現しませんでした。 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族による民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言しました。 主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていました。 ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握しました(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。 1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫りましたが、突然進軍を停止しました。 これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と中国国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためです。 武力による独立闘争に代わって和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年に東トルキスタン政府とウルムチの国民党政府との間に和平協定が締結されました。 これにより、お互いの閣僚を出し合った新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言しました。 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定しました。 8月に開催される会議に参加するため、政治的指導者たちは北京に向かいましたが、途中行方を絶つことになりました。 一説にはソ連に連れ去られ殺害されたとも言われています。 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」され、1955年に新疆省から新疆ウイグル自治区へと名称を変え、現在に至っています。

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ジュンガル

ジュンガル

出版元品切れだが、amazonで入手可能)が、その疑問に答えてくれました。 「歴史書によると、モンゴル帝国『崩壊』後の中央ユーラシア草原は、全く暗黒の時代であったように見える。 かつての広大なモンゴル帝国の領域は、『野蛮な遊牧民が文明の中心を離れて、昔の無秩序な生活に戻った』かのように説明され、曲解されてきたのである」と、著者が怒っています。 「本書の主人公ジューンガル部族は、17世紀末に突然歴史の表舞台に登場し、中央アジアに一大遊牧帝国を築いた。 しかし18世紀中葉には、古くからの遊牧帝国と同様、相続争いによる内部崩壊を起こし、この機を利用した清朝に討伐されて滅んだ。 ジューンガルの人びとは、清軍のもたらした天然痘の大流行と虐殺によって、ほとんど絶えたといわれる。 しかし、ジューンガル部族と同盟関係にあって、これとともにオイラトと総称されたドルベト部族やトルグート部族やホシュート部族の人びとは、いまもモンゴル国西部、中国の新彊ウイグル自治区北部、ロシアなどに分かれて暮らしている」。 「18世紀中葉のジューンガル帝国滅亡後、中央ユーラシア草原には、かつてのような遊牧帝国は二度と生まれなかった。 ジューンガルは、中央ユーラシアで活躍した最後の遊牧帝国だった」。 「元朝が1368年に中国を失ってモンゴル高原に退却したあと、1634年に、元朝の創始者フビライ・ハーン直系のチャハル部のリンダン・ハーンが死ぬまでの北アジア史を、われわれモンゴル史研究者は北元時代とよぶ。 その北元時代のモンゴル高原は、新たなモンゴル民族とオイラト民族の対立・抗争の歴史であった」。 「『最後の遊牧帝国』とよばれるジューンガルの経済の基盤は、古来の遊牧帝国と同様、内陸貿易の拠点をおさえて遠距離の交易から利益を得ることと、周りの異民族を襲撃して家畜や領民を掠奪するとともに、かれらから貢納を徴収することであった。 遊牧民の騎馬軍団は機動力に富むことはもちろんであるが、ジューンガル軍は、火器などの、当時最高の軍事技術も取り入れていた」。 「17、18世紀に中央ユーラシア草原を席巻した最後の遊牧帝国ジューンガルの実体は、ジューンガル部長を盟主とするオイラト遊牧部族連合であった。 古くは匈奴以来、鮮卑や柔然や突厥やウイグルやモンゴルなど、北アジアや中央アジアで消長を繰り返したいわゆる遊牧帝国も、ジューンガルと同じような遊牧部族連合だったに違いない。 広い草原に家畜を放牧するため、人口が少なく分散して生活する遊牧民を構成員とする国家は、このような仕組みを取る以外に存立し得なかったのである」。 中央ユーラシアの歴史は奥深いことを再認識しました。

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