ホラー小説のアンソロジーである『』(1984年)と『』(1987年)から22編を選んで編みなおした『』(1988年)の邦訳です。 私はマキャモンの『夜襲部隊』とマシスンの『埋もれた才能』が読みたくて古書を手に入れました。 そんな豪雨のある夜、州間高速道路そばの食堂<ビッグ・ボブの店>にプライスと名乗るずぶ濡れの男が客としてやってくる。 36時間寝ていないと語るプライスは、眠気覚ましに熱いコーヒーを注文する。 店にいた警官デニスがプライスをフロリダ州で発生した不可解な殺人事件の容疑者だとにらんで、ケチャップの瓶で殴って気絶させる。 すると、夜襲部隊がどこからともなく現れ、店を銃撃し始める…。 このアンソロジーを手にした理由が二つあり、その一つがこの『夜襲部隊』を再読したいと考えたからです。 私は今から30年ほど前、この短編小説をドラマ化した映像作品を『』第1シーズン第4話(米国放送は1985年)で見たことがあります。 監督は『フレンチ・コネクション』や『エクソシスト』のウィリアム・フリードキン。 TVドラマとは思えないほど激しい銃撃シーンが続き、そのシーンの暴力的苛烈さを今でも鮮明に思い返すことができます。 そしてまた、当時なお、多くのベトナム帰還兵の心を戦争が切り裂き続けていたことを強く思ったものです。 手もとにあるDVDとこの短編を改めて比較してみました。 ドラマは小説を驚くほど忠実に映像化しています。 唯一の違いは、小説には食堂夜襲の場面の後にエピローグがある点です。 店主のボブがプライスの事件から何かを学び取ろうと内省する姿が描かれています。 そこでは金魚鉢にピンポン球を投げ入れることができると景品がもらえる。 しかしめったに球は入らないはずなのに、その男は一度もしくじらずに球を入れ続けるため、店主は焦り始める…。 薄気味悪い痩せた男は口数少なく、最後の1ページまでひたすらピンポン球を投げ入れ続けるお話です。 男はいつかしくじるのか、しくじったらどうなるのか、あるいはしくじらないままだとしたらその果てには何が待ち受けているのか、と薄ら寒さを感じながら頁を繰り続けることになります。 そして最後に店主にあることが起こるのですが、それが実に巧みな言葉のダブルミーニングにひっかけて描かれるのです。 マシスンはとにかく掛け言葉や著名な言葉の引用など言葉遊びが好きで、今回もget the hell…. やOh, God…という英語特有の表現が現れると急激に物語が転換するのです。 しかしこれは日本語に翻訳するのが難しい。 かといって英語と同じように二重の意味にとれるようにスマートに訳すのは無理でしょう。 マシスン得意の言葉遊びといえば、表題の「Buried Talents」も聖書の言葉にかけていると思われます。 新約聖書マタイの福音書25章に、3人の男がそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントのお金を預けられる話が出てきます。 最初の二人はそれを元手に商売をして増やすことに成功しますが、最後の男はその1タラントを地中に埋めて隠してしまうのです。 これが「埋もれたタレント(タラント)」というわけ。 与えられたタラント(才能)は埋もれたままにしてはならず、積極的に使わなければならないという戒めの物語です。 ですからマシスンのこの短編の痩せた男は持って生まれた才能をただ使っただけ。 しかしそのことを阻もうとした店主は、聖書的観点から報いを受けるという寸法です。 最終一行の和訳「体内の血が流れ出ていくような気がした」は少し誤解を与えるかもしれません。 私はこれを読んで、「体内の血が【体の外へ】流れ出ていくような気がした」と解釈してしまいました。 原文は「It felt as though he was bleeding inside. 」ですから、正しくは「体内に血が流れ出ていくような気がした」(=体の内側で出血しているような気がした)です。 つまり、血は体外に向けて流れ出てはいないのです。 主人公と娘のジュディは足がこのソフト病に罹患したが、症状が全身に広がる前にどういうわけか進行が止まり、免疫を獲得できたようだ。 今は人の姿もまばらとなったマンハッタンで息をひそめるように暮らしている。 二人には、幸運にも全く感染していないジョージという友人がいたが、ここ数日彼からの連絡が途絶えている。 不自由な足を抱えて主人公はジョージの様子を見るため、彼のアパートへと這っていくのだが…。 これは新手のゾンビ物と言ってよいでしょう。 ウィルスに感染した人同志が殺し合うわけではありませんが、奇病に対する底なしの絶望感が全編に漂い、今や少数者となった主人公が廃市でその絶望感をさらに積み重ねざるを得ないエンディングがこれまた絶望的です。 この短編について作者自身が2015年に語っているインタビュー記事をネットで見つけました。 それによると、1984年に出版されたこの短編は、当時まだ未解明だったエイズに触発されたこと、そしてエイズが男性同性愛者特有の奇病だと誤解されていたその時代に、作者が通っていたジムである筋肉質の男が「世の中が軟(やわ=soft)になった」と嘆いているのを耳にしたのがきっかけだとのことです。 あれは野犬がドアをひっかく音なのか。 そしてある夜、またあのひっかき音が聞こえて目が覚めたキーは、自分が50年前の両親の家にいることを目にする…。 最後の一行を読んで初めて、私が目で追っていた頁に書かれていたものの全体像が一気に見えてきて、そのことに驚愕するとともに、ただちにこの短編を冒頭から再読することになりました。 物語の中で様々なものを耳にし、嗅ぎ、触れていたキーの実相が私の眼前に広がり、そしてまたそれはキーの眼前に広がるのとまさしく同時であることに、感嘆したのです。 また再読後に『Second Sight』という原題の意味するところが明確にわかって思わずニヤリとさせられました。 (『追体験』という邦題はいただけませんが。 ) 実に巧みな構造を持った小説です。 ある夜、私たち二人は彼の勤務先のデパートから女性のマネキンを失敬する。 マネキンと暮らす青年を描いた映画には『』(1987年)、『』(1991年)、そしてダッチワイフと暮らす青年を描いた映画に『』がありますが、そのいずれもコメディである一方、この『ささやかな愛』はヒチコックの『サイコ』の原作者ブロックの短編ですから当然のごとくホラー作品です。 ただし、オチはいたって凡庸で、ひねりが十分きいていないと思います。 カーティスとエステルの関係が明らかになる流れも短兵急に感じました。 なおこの物語はTVシリーズ『フロム・ザ・ダークサイド』の第3シーズン第17話として映像化されています。 そこで働くラッティングじいさんは隻眼の犬を飼っているが、彼がどんな風に生計を立てているのか、どんな声をしているのか、街の誰一人として知らない。 そこで少年時代を過ごした主人公は、父の葬儀のために久しぶりに帰郷し、今も変わらない廃車置き場を見つけるのだが…。 故郷へ戻ると子供時代のあの不可思議で割り切れなかった物・人・場所が今も変わらず不可思議で割り切れない存在のままであり、さらにはその存在が超常現象となって主人公に襲い掛かってくるタイプの奇談です。 見知らぬ故郷は見知らぬままだったというお話です。 なお、ラッティングじいさんの飼い犬が「日曜日の罪のように醜い犬だった」(138頁)という訳文が登場しますが、この和訳に日本の読者は首をかしげてしまうでしょう。 これは「Ugly as sin on Sunday, that dog. 」の直訳ですが、英語には「be as ugly as sin」という成句があり、これは「とても醜い」という意味です。 on Sundayが付加されているのは、sinからの連想で、日曜日の労働を戒めるキリスト教的発想が背後にあるのです。 英語にはこうした比較を表す成句がいくつもありますが、直訳するのは危険な場合があります。 例えば「as subtle as a sledgehammer」という表現は逐語訳すると「大型ハンマーと同じくらい繊細で」となりますが、これは皮肉を込めた表現であり、日本人向けに意訳するならば「ひどく荒っぽい」、「繊細さのかけらもない」とするべきところです。 オア先生はアリアアという聞きなれない国の話を始めるが、教室の黒板から奇妙な生き物がうごめき出てこようとしていることに子供たちは気づいて… 教室を入口として異世界からの侵略者がやってくるという物語です。 心がまっさらな子どもたちに侵略者が都合のよい世界観を植え付けていこうというのですから、これを読むと、学校とは社会の構成員として子どもたちを馴致する装置だということを改めて強く意識します。 よく似た物語としてジェームズ・クラベルの短編『』を思い出しました。 ただ、クラベルの小説で侵略は見事成功しますが、この『代理教室』の子供たちは無抵抗では終わらないところが異なります。 実際に戦争が始まったのを機に彼は近隣住民の目の前でハッチを閉めて中にひとり閉じこもる。 しかしシェルター内にはいつの間にか猫が紛れ込んでいた。 モーリスはその猫にモグと名付けて暮らし始めるが、やがてその猫が凶暴化して…。 猫が英米では孤独に生きる人間の象徴として描かれることが多いことを押さえたうえで読む必要があるかもしれません。 そしてその友が飼い主と相いれない存在と化していくお話です。 ただ、この短編では猫との諍いはさほど大きな展開を見せるわけではありません。 ご近所さんを顧みることなく利己的に生きる道を選んだ男の皮肉な末路が描かれる、ある種の道徳的寓話として読むことも可能でしょう。 この猫に名付けられたMogとは「猫野郎」といった意味です。 この短編を読んで思い出したのがTVシリーズ『ミステリー・ゾーン』第1シーズン第8話『廃墟』です。 恐妻家で本の虫の銀行員が核爆弾投下時に偶然地下金庫にいたおかげで助かり、一人ぼっちになった地球で読書三昧の日々を送れるぞと喜んだのも束の間、神の皮肉ないたずらとでもいうべき運命に襲われるお話です。 原作はリン・A・ヴェナブル『廃墟』(『』(角川文庫)所収)。 両者は兄弟でありながら、眠りは歓迎され、死は忌み嫌われる。 そのことに疲れ切った死神が、眠りの天使に安らぎを求めて語りかけ、会話を交わした末に互いの任務を交換することにするというお話です。 ギリシア神話には眠りの神であるヒュプノスと死の神タナトスの兄弟がいます。 死と眠りが類似のものであるという感覚がそこにはあり、そのことをもってしてこの『天使の交換』を読むと、物語がより明確に見えるかもしれません。 眠りの天使はこう語ります。 「人間にあなたさま(=死神)の贈りものをひとときなりと味わわせ、それによって心の準備をさせる。 果てのない仕事です。 だのに、あなたさまは彼らが憎しみと恐怖をもって、あなたさまを迎えるとおおせになる」 本来は眠りがいっときの死を毎夜もたらして、人間に死への準備を甘美な形で少しずつ与えてくれているはずなのに、もしも眠りが死の仕事を本格的に担ってしまったら…。 「かわいらしい子どもたちが、むなしくいけにえとして殺される」ようになる世の中が現出するというわけです。 その庭にはジェニファーが隠れ場所と呼ぶ場所がある。 ジェニファーは新しい父が前妻との間にもうけた弟ロバートと折り合いが上手くつけられない。 ある日ロバートがジェニファーの隠れ場所へと降りていってしまい…。 空想癖が強いジェニファーの想像が生む隠れ場所の中の世界は薄気味悪く、そこへロバートがとらわれていくという超短編です。 さほどの恐怖を与えるということもありませんが、ジェニファー自身が新しい弟ロバートに寄せる思いがしっとりと迫る点が妙に印象に残りました。 ひどいブリザードの日、アランは祖父と車で買い物に出かけ、路上で不気味なヒッチハイカーと出くわす…。 男の正体は何者なのか、そしてその目的は何なのか。 正体が明かされぬまま車中で祖父と男が交わす会話の薄気味悪さがひたひたと迫ってきます。 ただ、最終場面で祖父が言う、「あれはだめだ」という言葉の意味を測りかねました。 「あれ」という言葉で指し示されている<物>が何なのかと首をかしげながら原文にあたったところ、「No! Not him! 」となっていました。 つまり「あれ」というのは「彼」のことだったのです。 なお、この男が口にする「夜は早く凍てつく(The Night Is Freezing Fast)」とは、イギリスの詩人A. Housmanの短い詩のこと。 この詩は、生前はあれほど寒がりだった友人のDickが今は冷たい骸(むくろ)となり、地中で冷たい土を身にまとうとうたう、つまり死んだ友への皮肉な弔辞ともとれる内容を持ちます。 ですからモンテレオーネの短編に出てくる男が死をまとっていることが見て取れるというわけです。 また、この『ナイト・ソウルズ』に収められた版で祖父が運転する車は「スカウト」ですが、2015年に出たアンソロジー『』所収の版ではチェロキーに更新されています。 ある日、庭の奇妙な光が差すのを目撃する。 やがてホームレスの友人たちに不幸が訪れ、そしてベルも年下の男性に気持ちが移っていって…。 ホラー小説としての魅力は感じませんでしたが、キャズとベルのすれ違っていく男女の機微が妙に心に残りました。 「ベルは自分の最高の主義がスポイルされるから結婚はいやだと言った。 わたしはわたしで、もう二度とひとりになれないだろうから、結婚はいやだった」(225頁) 「わたしはまだ、離ればなれでいる時間がうれしいだけだ。 離ればなれでいると、ふたたびいっしょになれる時間がさらにたいせつになるだけではなく、わたしだけの時間をもてることにもなる」(226頁) こうした言葉が胸に沈みました。 なお、原題『The Old Men Know』はアメリカの詩人オグデン・ナッシュ(1902 — 1971)の詩『Old Men』の結句「But the old men know when an old man dies. 」から取られていると考えると、この短編小説にうってつけのタイトルだと感じられるでしょう。 この物語のテーマは、残虐描写のホラーを規制するべきか、それともそんな規制は言論統制ではないか、という永遠の議論です。 この小説が書かれた1987年はビデオのレンタルと販売の黎明期にあたりますから、以前であれば年齢制限されていたスプラッタ映画を若い世代がたやすく(こっそりかもしれませんが)家庭で見ることができるようになったという時代背景があります。 規制推進派のストダーやキャメロンと、規制反対派のタリスらが規制法案をめぐって対立するというのがあらすじです。 ですが、読者は章の冒頭に掲げられた個々のホラー映画の筋立てを知らないと、この短編小説の各章とそれぞれの映画とがどう関連付けられているのかが理解できないでしょう。 たとえば『カンニバル・フェロックス』の章では映画館のポスターに「やつらをじわじわ殺せ!」と書いてある描写が出てきますが、これはイタリア映画『Cannibal Ferox』の英語タイトルが『Make Them Die Slowly』(やつらをじわじわ殺せ)であることにかけているのです。 また中には邦題が記されていないものもあります。 冒頭に掲げられた『アポカリプス・ドマーニ』は『』、先述の『カンニバル・フェロックス』は『人喰族』、『オージー・オブ・ザ・ブラッド・パラサイツ』は『』の撮影時の仮題、そして『葬儀屋とその仲間』は確かに原題を『The Undertaker and His Pals』とはいうものの、DVD化されたときの邦題は『』です。 とはいえ、こうしたことはインターネットが広く普及した21世紀の今だから手軽に調べられることですし、この翻訳文庫が出た1992年当時はまだDVD化されていない日本未公開作だったものも含まれているので、翻訳者の山田氏も調べがつかなかったでしょう。 なお、このように実在する映画と物語がシンクロする小説で思い出したものがあります。 多和田葉子の『』(2004年)です。 この長編小説の中で、日本でも広く名の知られたあのフランス人女優の出演作13本の筋書きと、共産国ベトナムから東ベルリンへ渡った少女の一生がシンクロしていくのです。 私は実に楽しくこの小説を読みましたが、その女優の名前すら登場しないので、知識のない読者は物語の中で置いてけぼりにされるかもしれません。 そんな彼の末路とは…。 エスタスは200ドル受け取っても2000ドルもらったと言い、350ドルで新調した服も3500ドルしたと大げさに話す、実に面倒くさい男です。 そんな彼がやがてその10倍ルールを自らに当てはめた運命をたどるという話ですが、それを恐怖ととるのか、現実化してしまった法螺話として笑って済ませるのか、判断がつかないオチに戸惑いました。 そのすばらしい出来に驚いた私は、他社にその作品を取られないように独占契約を結ぼうとするが、条件を二つ付きつけられる。 1)作品は絶対に出版しないこと 2)報酬は小切手ではなく現金で送ること。 私はその条件を呑むが、やがてどうしても出版したくなり、作者の住所を頼りに会いに出かけていくことにするのだが…。 この『ナイト・ソウルズ』のアンソロジストであるウィリアムスン自身の手による短編です。 自身をモデルにしたかのような主人公が、覆面作家ワードソングを求めて旅をするという話です。 途中、「本は人間によって書かれたものであり、なんら自然の驚異ではないことを知るのは…ショックであり失望である」という作家ユードラ・ウェルティの言葉が引用されていて、これが見事な伏線となっています。 そして最後に待ち受けるワードソングの正体が…。 読者好きにはなんともイカシた幕切れだと思います。 これから出逢うであろう様々な書物のことを大切にしていきたい。 そう感じさせられたのです。 すると4人は少しずつ精神に異常を来たしはじめて…。 わずか7頁で描かれるダーク・ファンタジー掌編です。 気になったのは主人公一家の妻の名前のカタカナ表記がトニーとなっていることです。 読み始めた当初、これを私はTonyだと思い込んで、マレーとは同性愛カップルなのかと一瞬勘違いしましたが、これはToniですね。 つまりアントワネットかアントニアの愛称でした。 ベテラン看護婦(ママ)のヘンリエッタは、同僚の若い看護人に、ピーナッツと、ある女性との間に生まれた息子との因縁話を始める…。 この短編の登場人物たちのほとんどが全員アフリカ系だということに日本の読者はなかなか気づけないかもしれません。 ピーナッツが共演したステッピン・フェチットとレナ・ホーンは実在するアフリカ系芸能人です。 ヘンリエッタはそうしたアフリカ系芸能人たちと同時代人だといいます。 ピーナッツの息子フレームは「ブラザー」と声を掛けられ、「ワッツやデトロイトで激しく闘った」男です。 ワッツ暴動は1965年、デトロイト暴動は1967年にそれぞれ発生した、黒人と警察との対立事件のこと。 そして看護人は「白い部分は白衣だけ」です。 そうしたことに気づきながら読んでいると最終ページの直前でオチの予想はつきましたが、それでもそこそこ楽しめました。 原文の一部がAmazonの「なか見!検索」で見つけられたので読んでみたところ、どうも誤訳ではないかと思われる個所が複数見つかりました。 たとえば「Then one afternoon she phoned to say that it would be nice if he were there. 」が「そしてある日の午後、彼女から電話があり、あなたがいてくれてよかったと言った」(320頁)と訳されています。 ですが「it would be nice if he were there. 」は現実とは異なることを表す仮定法ですから、「あなたがいてくれたらよかったのに(でもいないから寂しいわ)と言った」とするべきではないでしょうか。 また「きみのために、ぼくはこの歌をうたう」という彼の独白が複数回出てきますが、原文は「I sing this song of you. 」です。 つまり「I sing this song for you. 」ではありませんから、正しくは「ぼくは<きみの歌>をうたう」です。 さらに「Wavering before the mirror as he tossed and turned」が「鏡の前で震えながら、彼は顔をぐいとあげ」(330頁)と訳されていますが、「tossed and turned」は「寝返りをして」です。 つまりこの場面で彼は横になっていたということではないでしょうか。 「なか見!検索」で原文のすべてを読めるわけではないので、確かなことは言えませんが、上記の「歌」のくだりと「寝返り」のくだりを英語原文で読むと、この小説の主人公の行動が実は…、と日本語訳を読んだ直後よりも私の読み解きは少し前進するのです。 ですから、訳文の誤りがこの短編の理解を阻んでいる可能性が否定できないのです。 仕事の前に50マイルのジョギングを始めたところ…。 マイケルは生き馬の目を抜く法曹界で、結婚だのにうつつを抜かして競争を避けようとする同僚たちを軽蔑しています。 そんな彼に、50マイルを走り終えたところできっと何か起こるに違いないと予想しながら読んでいきました。 彼に襲い掛かる事態は、私の予想を超えた出来事でしたが、よくよく読み返すと伏線がちゃんとあったことに気づいて思わずニヤリとさせられました。 なおリチャード・クリスチャン・マシスンは父親のリチャード・マシスン同様、タイトルに掛け言葉や成句のもじりを用いることがあります。 タイトルの「Third Wind」の意味を知るためには、まず「second wind」を知る必要があります。 オンライン辞書の英辞郎によれば「走りだしてしばらくすると、とてもしんどくなる。 しかし、そこを我慢して走り続けると、体が慣れてきて急に楽になったように感じる。 その状態をget one's second wind(第二の呼吸を得る)という」。 ということは「Third Wind」が意味するところは…と想像しながら読むと楽しめるでしょう。 彼を蘇生させたのは異星人たちだ。 そのエイリアンたちが彼を訪ねて自宅までやって来て、ある提案をするのだが…。 予期せぬ形で戻ってきたとはいえ、最愛の息子ウォルトを迎えた母親の態度がなぜああしたものだったのかが、読んでいて理解不能、承服不可でした。 だからこそこのラストはあまりにも苦く、うら寂しい思いを抱かせるものです。 1988年のブラム・ストーカー賞最優秀中編賞受賞作品です。 ショッピング・モールで一人心細そうにしている少年を見つけ、誘拐するのだが…。 シェリダンは当然のごとく、この犯罪の代償を支払わされることになります。 その顛末は、実に上質のホラーの形で読者に迫ってきます。 手練れのホラー作家ならではの好編といえるでしょう。
次の私がウスウスと眼を覚ました時、こうした 蜜蜂 ( みつばち )の 唸 ( うな )るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。 そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。 私はフッと眼を開いた。 かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い 塵埃 ( ほこり )に 蔽 ( おお )われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。 その赤黄色く光る 硝子球 ( ガラスだま )の横腹に、大きな 蠅 ( はえ )が一匹とまっていて、死んだように 凝然 ( じっ )としている。 その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字 型 ( なり )に長くなって寝ているようである。 ……おかしいな…………。 私は大の字 型 ( なり )に 凝然 ( じっ )としたまま、 瞼 ( まぶた )を一パイに見開いた。 そうして眼の 球 ( たま )だけをグルリグルリと上下左右に廻転さしてみた。 青黒い 混凝土 ( コンクリート )の壁で囲まれた二 間 ( けん )四方ばかりの部屋である。 その三方の壁に、黒い鉄格子と、 鉄網 ( かなあみ )で二重に張り詰めた、大きな縦長い 磨硝子 ( すりガラス )の窓が一つ 宛 ( ずつ )、都合三つ取付けられている、トテも 要心 ( ようじん )堅固に構えた部屋の感じである。 窓の無い側の壁の附け根には、やはり 岩乗 ( がんじょう )な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷き 展 ( なら )べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。 ……おかしいぞ…………。 私は少し頭を持ち上げて、自分の 身体 ( からだ )を見廻わしてみた。 白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。 そこから丸々と 肥 ( ふと )って突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。 ……いよいよおかしい……。 怖 ( こ )わ 怖 ( ご )わ 右手 ( めて )をあげて、自分の顔を 撫 ( な )でまわしてみた。 ……鼻が 尖 ( と )んがって……眼が落ち 窪 ( くぼ )んで…… 頭髪 ( あたま )が 蓬々 ( ぼうぼう )と乱れて…… 顎鬚 ( あごひげ )がモジャモジャと延びて……。 ……私はガバと跳ね起きた。 モウ一度、顔を撫でまわしてみた。 そこいらをキョロキョロと見廻わした。 ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。 胸の動悸がみるみる高まった。 早鐘を 撞 ( つ )くように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。 やがて死ぬかと思うほど 喘 ( あえ )ぎ出した。 ……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。 ……こんな不思議なことがあろうか……。 ……自分で自分を忘れてしまっている……。 ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。 ……ソレッ切りである……。 ……それでいて気は 慥 ( たし )かである。 森閑 ( しんかん )とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。 ……夢ではない……たしかに夢では…………。 私は飛び上った。 ……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。 そこに映った自分の 容貌 ( かおかたち )を見て、何かの記憶を 喚 ( よ )び起そうとした。 ……しかし、それは何にもならなかった。 磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。 私は身を 飜 ( ひるがえ )して寝台の枕元に在る入口の 扉 ( ドア )に駈け寄った。 鍵穴だけがポツンと開いている 真鍮 ( しんちゅう )の金具に顔を近付けた。 けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。 只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。 ……寝台の脚を探しまわった。 寝具を引っくり返してみた。 着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は 愚 ( おろ )か、頭文字らしいものすら発見し得なかった。 私は呆然となった。 私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。 私自身にも誰だかわからない私であった。 臓腑 ( はらわた )の底から湧き出して来る 戦慄 ( せんりつ )と共に、我を忘れて大声をあげた。 それは金属性を帯びた、 突拍子 ( とっぴょうし )もない 甲高 ( かんだか )い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。 又叫んだ。 ……けれども 矢張 ( やは )り無駄であった。 その声が一しきり 烈 ( はげ )しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。 又叫ぼうとした。 ……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、 咽喉 ( のど )の奥の方へ引返してしまった。 叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。 膝頭 ( ひざがしら )が自然とガクガクし出した。 それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか 喘 ( あえ )ぎ初めていた。 叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の 中央 ( まんなか )に棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、 凩 ( こがらし )のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。 そのうちに私は気が遠くなって来た。 両眼をカッと見開いて、寝台の向側の 混凝土 ( コンクリート )壁を凝視した。 その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。 ……それは確かに若い女の声と思われた。 けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど 嗄 ( しゃが )れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい 響 ( ひびき )ばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。 「……お兄さま。 お兄さま。 お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。 思わずモウ一度、 背後 ( うしろ )を振り返った。 この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声を 滲 ( し )み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。 「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。 妾 ( あたし )です。 お兄様の 許嫁 ( いいなずけ )だった…… 貴方 ( あなた )の未来の妻でした妾……あたしです。 あたしです。 唇をアングリと開いた。 その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。 そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。 そのまま一心に 混凝土 ( コンクリート )の壁を 白眼 ( にら )み付けた。 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。 臓腑をドン底まで凍らせずには 措 ( お )かないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。 ……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い 怨 ( うら )みの声であった。 それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。 「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。 なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。 あたしです、あたしです、あたしですあたしです。 お兄さまはお忘れになったのですか。 妾 ( あたし )ですよ。 あたしですよ。 お兄様の 許嫁 ( いいなずけ )だった……妾……妾をお忘れになったのですか。 ……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。 ……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。 幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。 ……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」 私はヨロヨロと 背後 ( うしろ )に 蹌踉 ( よろめ )いた。 モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。 ……何という奇怪な言葉だ。 ……壁の向うの少女は私を知っている。 私の許嫁だと云っている。 ……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で云っている。 そうして私と壁 一重 ( ひとえ )を隔てた向うの部屋に 閉 ( と )じ 籠 ( こ )められたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。 想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、 死物狂 ( しにものぐる )いに努力し続けているらしい。 ……キチガイだろうか。 ……本気だろうか。 いやいや。 キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。 私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。 ……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。 笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な…… 悽愴 ( せいそう )とした……。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。 何故 ( なぜ )、御返事をなさらないのですか。 妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」 「……………………」 「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。 ……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。 そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」 「……………………」 「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に 這入 ( はい )らないのですか……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」 そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。 それは平手か、コブシかわからないが、とにかく 生身 ( なまみ )の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。 皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。 私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の 痕跡 ( あと )を想像しながら、なおも一心に眼を 瞠 ( みは )り、奥歯を噛み締めていた。 「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。 そうして生き返っている妾です。 お兄様よりほかにお 便 ( たよ )りする方は一人もない可哀想な妹です。 一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」 「お兄様もおんなじです。 世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。 そうして 他人 ( ひと )からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」 「……………………」 「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。 妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」 私は思わず寝台の上に飛乗った。 その声のあたりと思われる青黒い 混凝土 ( コンクリート )壁に 縋 ( すが )り付いた。 すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。 ……が……又グット 唾液 ( つば )を 嚥 ( の )んで思い 止 ( とど )まった。 ソロソロと寝台の上から 辷 ( すべ )り降りた。 その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと 後退 ( あとしざ )りをして来た。 ……私は返事が出来なかったのだ。 否……返事をしてはいけなかったのだ。 私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。 あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。 自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。 その私が、どうして彼女の 夫 ( おっと )として返事してやる事が出来よう。 たとい返事をしてやったお 蔭 ( かげ )で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの 氏素性 ( うじすじょう )や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。 ……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。 そればかりじゃない。 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに 外 ( ほか )ならないとしたら、どうであろう。 私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの 原因 ( もと )にならないとは限らないではないか。 ……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。 私は自分の 軽率 ( かるはずみ )から、他人の妻を 横奪 ( よこど )りした事になるではないか。 他人の恋人を 冒涜 ( ぼうとく )した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し 唾液 ( つば )を 嚥 ( の )み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。 「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。 あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」 そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。 私は 頭髪 ( かみ )を両手で引掴んだ。 長く伸びた十本の 爪 ( つめ )で、血の出るほど掻きまわした。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。 妾は 貴方 ( あなた )のものです。 貴方のものです。 早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」 私は 掌 ( てのひら )で顔を烈しくコスリまわした。 ……違う違う……違います違います。 貴女 ( あなた )は思い違いをしているのです。 僕は貴女を知らないのです……。 ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を 噤 ( つぐ )んだ。 そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。 私は 拳骨 ( げんこつ )を固めて、耳の 後部 ( うしろ )の骨をコツンコツンとたたいた。 けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。 それでも彼女の声は絶えなかった。 息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。 「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」 私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、 扉 ( ドア )を見まわした。 駈け出しかけて又、立止まった。 ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。 と思ううちに、全身がゾーッと 粟立 ( あわだ )って来た。 入口の 扉 ( ドア )に走り寄って、鉄かと思われるほど 岩乗 ( がんじょう )な、青塗の板の平面に、全力を挙げて 衝突 ( ぶつか )ってみた。 暗い鍵穴を覗いてみた。 ……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、 痺 ( しび )れ上るほど 脅 ( おび )やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。 やっと下の方の片隅だけ 引歪 ( ひきゆが )める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。 私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。 ガタガタ 慄 ( ふる )えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。 私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから 幽瞑 ( あのよ )の世界に来て、何かの 責苦 ( せめく )を受けているのではあるまいか。 この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の 無間 ( むげん )地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。 ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに 苛責 ( さい )なまれ初めた絶体絶命の 活 ( いき )地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない 永劫 ( えいごう )の苛責……。 私は 踵 ( かかと )が痛くなるほど強く 地団駄 ( じだんだ )を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。 ……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た 隣室 ( となり )の物音と、切れ切れに起る 咽 ( むせ )び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。 こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。 けれども私の頭の中は依然として 空虚 ( からっぽ )であった。 彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に 就 ( つ )いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。 カラッポの記憶の中に、 空 ( から )っぽの私が生きている。 それがアラレもない女の叫び声に 逐 ( お )いまわされながら、ヤミクモに 藻掻 ( もが )きまわっているばかりの私であった。 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。 次第次第に糸のように 甲走 ( かんばし )って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう 以前 ( もと )の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。 同時に私も疲れた。 狂いくたびれて、考えくたびれた。 扉 ( ドア )の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。 ……コトリ……と音がした。 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に 身体 ( からだ )を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで 項垂 ( うなだ )れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。 という静かな 雀 ( すずめ )の声……遠くに 辷 ( すべ )って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。 ……夜が明けたのだ……。 私はボンヤリとこう思って、両手で眼の 球 ( たま )をグイグイとコスリ上げた。 グッスリと睡ったせいであったろう。 今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に 剛 ( こわ )ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな 欠伸 ( あくび )をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。 向うの入口の 扉 ( ドア )の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の 膳 ( ぜん )が這入って来るようである。 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。 無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。 …… 吾 ( われ )を忘れて立上った。 爪先走りに切戸の 傍 ( かたわら )に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を 狙 ( ねら )いすまして 無手 ( むず )と引っ掴んだ。 ……と……お膳とトースト 麺麭 ( パン )と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。 私はシャ 嗄 ( が )れた声を振り絞った。 「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。 僕は……僕の名前は、何というのですか」 「……………………」 相手は身動き一つしなかった。 白い 袖口 ( そでぐち )から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。 「……僕は……僕の名前は……何というのですか。 私に掴まれた紫色の腕が、力なく 藻掻 ( もが )き初めた。 「……誰か……誰か来て下さい。 七号の患者さんが……アレッ。 静かに静かに……黙って下さい。 僕は誰ですか。 その瞬間に私の両手の力が 弛 ( ゆる )んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ 脱 ( ぬ )け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。 一所懸命に 縋 ( すが )り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを 喰 ( くら )った私は、固い人造石の床の上にドタリと 尻餅 ( しりもち )を突いた。 あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。 すると……又、不思議な事が起った。 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに 連 ( つ )れて、何とも知れない 可笑 ( おか )しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。 それは 迚 ( とて )もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本 毎 ( ごと )にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。 魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから 止 ( と )め 度 ( ど )もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。 ……アッハッハッハッハッ。 ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。 名前なんてどうでもいいじゃないか。 忘れたってチットモ不自由はしない。 俺は俺に間違いないじゃないか。 アハアハアハアハアハ………。 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。 頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。 笑った……笑った……笑った。 涙を 嚥 ( の )んでは 咽 ( む )せかえって、 身体 ( からだ )を 捩 ( よ )じらせ、 捻 ( ね )じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。 ……アハハハハ。 こんな馬鹿な事が又とあろうか。 ……天から降ったか、地から湧いたか。 エタイのわからない人間がここに一人居る。 俺はこんな人間を知らない。 アハハハハハハハ……。 ……今までどこで何をしていた人間だろう。 そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。 何が何だか一つも見当が附かない。 俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と 識 ( し )り合いになったのだ。 アハハハハハ…………。 ……これはどうした事なのだ。 何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。 アハ……アハ…… 可笑 ( おか )しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。 ……ああ苦しい。 やり切れない。 俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。 アッハッハッハッハッハッハッ……。 私はこうして 止 ( と )め 度 ( ど )もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。 そうして眼の 球 ( たま )をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、 栓 ( せん )をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。 同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを 塗 ( な )すくった焼 麺麭 ( パン )を掴んでガツガツと喰いはじめた。 それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお 美味 ( いし )さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと 嚥 ( の )み込んだ。 そうしてスッカリ満腹してしまうと、 背後 ( うしろ )に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。 それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。 満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、 掌 ( てのひら )と、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。 ……往来のざわめき。 急ぐ靴の音。 ゆっくりと下駄を引きずる音。 自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。 ……遠い、高い処で 鴉 ( からす )がカアカアと 啼 ( な )いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に 甲走 ( かんばし )った女の声……。 「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」 ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。 そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。 それはたしかに自動車の 警笛 ( サイレン )で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い 音 ( ね )であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。 それが朝の 静寂 ( しじま )を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした 髪毛 ( かみのけ )の中に走り込みそうになったところで、急に横に 外 ( そ )れて、大まわりをした。 高い高い 唸 ( うな )り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に 沁 ( し )み入るほどの高い悲鳴を 揚 ( あ )げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。 何の物音も聞えなくなった。 ……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと 濃 ( こま )やかになって行く…………。 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。 ……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。 私の眼の前で、 緩 ( ゆる )やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な 籐椅子 ( とういす )が一個 据 ( す )えられている。 そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を 衝 ( つ )くばかりに突立っているのであった。 それは身長六 尺 ( しゃく )を超えるかと思われる 巨人 ( おおおとこ )であった。 顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。 薄く、長く引いた眉の下に、 鯨 ( くじら )のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は 瀕死 ( ひんし )の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。 鼻は外国人のように隆々と 聳 ( そび )えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。 その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と 一 ( ひ )と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に 罹 ( かか )っているせいではあるまいか。 殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い 額 ( ひたい )の斜面と、軍艦の 舳先 ( へさき )を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。 それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の 外套 ( がいとう )を着て、その間から揺らめく 白金色 ( プラチナいろ )の逞ましい時計の 鎖 ( くさり )の前に、細長い、 蒼白 ( あおじろ )い、毛ムクジャラの指を 揉 ( も )み合わせつつ、婦人用かと思われる 華奢 ( きゃしゃ )な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。 初めて卵から 孵化 ( かえ )った 生物 ( いきもの )のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。 けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、 吾 ( わ )れ知らずその方向に向き直って座り直した。 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。 そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく 身体 ( からだ )が縮むような気がして、自ずと 項垂 ( うなだ )れさせられてしまった。 しかし巨大な紳士は、そんな事を 些 ( すこ )しも気にかけていないらしかった。 極めて冷静な態度で、 一 ( ひ )とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。 その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず 看破 ( みやぶ )られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。 ……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。 するとその時であった。 巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて 前屈 ( まえこご )みになった。 慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。 ……と思う間もなく私の方に身体を 反背 ( そむ )けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい 咳嗽 ( せき )を続けた。 そうして 稍 ( やや )暫らくしてから、やっと 呼吸 ( いき )が落ち付くと、又、 徐 ( おもむ )ろに私の方へ向き直って一礼した。 「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」 それは 矢張 ( やは )り身体に釣り合わない、女みたような声であった。 しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。 この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、 恭 ( うやうや )しく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又も 咳 ( せ )き入った。 「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」 私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。 九州帝国大学法医学教授 若林鏡太郎 医学部長 この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も 唖然 ( あぜん )となった。 眼の前に 咳嗽 ( せき )を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。 そうして、 「……ここは……九州大学……」 と 独言 ( ひとりごと )のように 呟 ( つぶ )やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、 微 ( かす )かにビクリビクリと震えた。 或 ( あるい )はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。 続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。 「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。 どうもお 寝 ( やす )みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは 他事 ( ほか )でも御座いませぬ。 ……早速ですが貴方は 先刻 ( さきほど )、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、 如何 ( いかが )で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」 私は返事が出来なかった。 やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。 ……これが驚かずにいられようか。 私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。 私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。 私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。 私は二重三重に面喰わせられたまま、 掌 ( てのひら )の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。 ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、 瞬 ( またたき )一つしないで見下しているのであった。 私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。 私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。 二人はこうして、ちょっとの 間 ( ま )、 睨 ( にら )み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、 如何 ( いか )にも失望したらしくソット眼を閉じた。 けれども、その 瞼 ( まぶた )が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。 同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、 微 ( かす )かに二三度うなずきながら唇を動かした。 「…… 御尤 ( ごもっと )もです。 不思議に思われるのは御尤も千万です。 元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」 と云いさした若林博士は、又も、 咳嗽 ( せき )が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。 ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。 「……と申しますのは、ほかでも御座いません。 ……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで 正木敬之 ( まさきけいし )という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」 「……マサキ……ケイシ……」 「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から 行詰 ( ゆきつま )ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。 純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、 劃時代的 ( かくじだいてき )の新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく 首肯 ( しゅこう )出来るので御座います。 ……申すまでもなく 貴方 ( あなた )も、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」 「僕が……精神病の治療……」 「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々 御尤 ( ごもっとも )千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。 ……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しましたのが、 外 ( ほか )ならぬ貴方で御座いました。 言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに 懸 ( かか )っていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」 若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急に 眩 ( まぶ )しくなったように思って、眼をパチパチさした。 私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。 ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず 項垂 ( うなだ )れてしまったのであった。 ……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。 そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。 ……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に 罹 ( かか )っていた……否。 現在も罹っている証拠なのだ。 ……そうだ。 私はキチガイなのだ。 ……鳴呼。 私が浅ましい 狂人 ( きちがい )……。 ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、 叮嚀 ( ていねい )過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。 それに 連 ( つ )れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。 恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも 判然 ( わか )らない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと 火熱 ( ほて )って来た。 ……眼の中が 自然 ( おのず )と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに 充 ( みた )されつつ、かなしく 両掌 ( りょうて )を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。 若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、 唾液 ( つば )を呑み込んだようであった。 それから、 恰 ( あたか )も、 貴 ( たっと )い身分の人に対するように、両手を前に 束 ( たば )ねて、今までよりも一層親切な 響 ( ひびき )をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。 「御尤もです。 重々、御尤もです。 どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。 ……しかし御心配には及びませぬ。 貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」 「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」 「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」 「……僕が……私が…… 狂人 ( きちがい )の解放治療の実験材料…… 狂人 ( きちがい )を解放して治療する……」 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ 首肯 ( うなず )いた。 「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。 「さようさよう。 その通りで御座います。 その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の 裡 ( うち )に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。 ……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の 衝動 ( ショック )のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。 ……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」 「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」 と私は思わず 急 ( せ )き込んで、寝台の端にニジリ出した。 あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。 その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。 「それは誠に御尤も千万な御不審です。 ……が……しかしその事に 就 ( つき )ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。 いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」 「……僕自身に思い出す。 ……そ……それはドウして思い出すので……」 と私は一層 急 ( せ )き込みながら 口籠 ( くちごも )った。 若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。 しかし若林博士は騒がなかった。 静かに手を挙げて私を制した。 「……ま……ま……お待ち下さい。 それは 斯様 ( かよう )な 仔細 ( わけ )で御座います。 ……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。 しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が 虚構 ( うそ )になって 終 ( しま )う 虞 ( おそ )れがありますので…… 詰 ( つま )るところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が 併 ( しか )し……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。 ……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、 僅々 ( きんきん )四箇月間の実験を行われました 後 ( のち )、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。 そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」 「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」 「さようさよう。 貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。 その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。 ……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が 嘗 ( かつ )て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。 むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」 「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」 「さよう。 とりあえず空前とは申しましたものの、 或 ( あるい )は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」 「……そ……それは……ドンナ事件……」 と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。 端然として 佇立 ( ちょりつ )したままスラスラと言葉を続けて行った。 その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。 「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。 ……何をお隠し申しましょう。 只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」 「……精神科学……応用の犯罪……」 「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい 主題 ( テーマ )で御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、 斯様 ( かよう )申上げましたならば 大凡 ( おおよそ )、御諒解が出来ましょう。 ……すなわち私が、斯様な 主題 ( テーマ )に就いて研究を初めました 抑々 ( そもそも )の動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。 たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白 可笑 ( おか )しく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。 ……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、 歴々 ( ありあり )と展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」 「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」 若林博士は、いとも荘重にうなずいた。 「さようさよう。 貴方は、その学説の真理である事を、身を 以 ( もっ )て証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました 暁 ( あかつき )には、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が 洩 ( も )れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。 ……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。 同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。 その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。 ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。 その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら 最早 ( もはや )、取返しの附けようがないであろう。 この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。 ……と同時に、甚だ 得手 ( えて )勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。 つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。 ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学の 中 ( うち )でも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。 ……すなわちその犯罪の 外観 ( アウトライン )と申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。 ……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の 温柔 ( おとな )しい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。 ……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を 繋 ( つな )ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい 従妹 ( いとこ )と結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の 夜半 ( よなか )過ぎに、その青年が、思いもかけぬ 夢中遊行 ( むちゅうゆうこう )を起しまして、その少女を絞殺してしまいました。 そうしてその少女の 屍体 ( したい )を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が 何人 ( なんぴと )であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか 判然 ( わか )らない事件で御座います。 ……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて 該 ( がい )事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。 ……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この 一途 ( いっと )よりほかに方法は無い事に相成りました。 それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、 踪跡 ( そうせき )を 晦 ( くら )ましているので御座います。 ……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。 その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。 又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相を 蔽 ( おお )い 晦 ( くら )ましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。 ……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。 すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文の 中 ( うち )の、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。 そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。 ……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。 過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事に 就 ( つ )きましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。 …… 然 ( しか )るに……」 ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い 一瞥 ( いちべつ )を私に与えた。 ……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。 その 皺 ( しわ )だらけに 痙攣 ( ひきつ )った横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。 今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる 大袈裟 ( おおげさ )に、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。 すると、そのうちに 咳嗽 ( せき )を収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。 「御免下さい。 疲れますので……」 と云ううちに、やおら 背後 ( うしろ )の 華奢 ( きゃしゃ )な 籐椅子 ( とういす )を振り返って、ソロソロと腰を 卸 ( おろ )したのであったが、その 風付 ( ふうつ )きを見ると私は又、思わず眼を 反 ( そ )らさずにはいられなかった。 初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。 ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと這入った。 そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。 その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなに 瘠 ( やせ )こけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。 しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。 「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外の私にもよくわかるので御座います。 貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お 勉 ( つと )めになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。 それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。 ……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので御座います。 ……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかに 居 ( お )ったので御座いましょう。 ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い 夢中遊行 ( むちゅうゆうこう )状態に陥れる事に相成りました。 ……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。 つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。 ……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと 焦燥 ( あせ )りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。 正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」 「……自我……忘失症……」 「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。 ……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて 稀有 ( けう )のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。 たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ 記憶 ( おぼえ )の無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っている 間 ( ま )に、 禿頭 ( とくとう )の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると 白髪 ( しらが )の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の 懺悔譚 ( ざんげものがたり )』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の 境界 ( さかい )に迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。 そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、 以前 ( もと )の精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。 ……すなわち厳密な意味で申しますと、 吾々 ( われわれ )の日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くものによって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。 そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く 刹那 ( せつな )刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。 ……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。 ……ですから、申すまでもなく 貴下 ( あなた )も、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」 若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を 舐 ( な )めたようであった。 しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。 ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を 固 ( こわ )ばらせていた。 ……さては今の話の怪事件というのは、 矢張 ( やは )り自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖から 滴 ( した )たり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。 その時に若林博士は、その 仄青 ( ほのあお )い 瞳 ( ひとみ )を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。 「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。 あなたは 最早 ( もはや )、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。 ……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、 貴下 ( あなた )御自身のお名前を思い出させて差上げるために、 斯様 ( かよう )にお伺いした次第で御座います」 「……ボ……僕の名前を思い出させる……」 こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。 ……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。 ……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。 しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。 「……さよう。 あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。 その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。 如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。 その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。 ……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」 私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。 思わず座り直して 頓狂 ( とんきょう )な声を出した。 「……何というんですか……僕の名前は……」 私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は 恰 ( あたか )も器械か何ぞのようにピッタリと口を 噤 ( つぐ )んだ。 私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。 後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。 若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。 皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。 ……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の 裡 ( うち )に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。 私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。 しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。 ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。 すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。 頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、 繊細 ( かぼそ )い声を出した。 「……いけませぬ……。 私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。 そんな名前は記憶せぬと 仰言 ( おっしゃ )れば、それ迄です。 やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。 「……思い出すことが出来ましょうか」 若林博士はキッパリと答えた。 「お出来になります。 きっとお出来になります。 しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。 つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」 若林博士は 斯様 ( かよう )云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。 私はその瞳の力に 圧 ( お )されて、余儀なく 項垂 ( うなだ )れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が 判然 ( わか )らないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。 しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。 「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が 喚 ( よ )び起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、 如何 ( いかが )で御座いましょうか」 と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。 私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。 ……ちっとも構いません。 どうなりと御随意に……という風に……。 しかし心の中では 些 ( すく )なからず 躊躇 ( ちゅうちょ )していた。 否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。 ……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。 ……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。 ……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。 ……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者…… 其奴 ( そいつ )が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。 ……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。 その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。 徐 ( おもむ )ろに 背後 ( うしろ )の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字 髭 ( ひげ )をピンと 生 ( は )やして、白い 詰襟 ( つめえり )の 上衣 ( うわぎ )に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない 扮装 ( いでたち )をしていた。 四角い黒革の 手提鞄 ( てさげかばん )と、薄汚ない 畳椅子 ( たたみいす )を左右の手に 提 ( ひっさ )げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の 中央 ( まんなか )に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。 それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の 鋏 ( はさみ )や、ブラシを 葢 ( ふた )の上に 掴 ( つま )み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。 「ササ、どうぞ」という風に……。 すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。 だから 素跣足 ( すはだし )のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字 鬚 ( ひげ )の小男が、白い 布片 ( きれ )をパッと私の 周囲 ( まわり )に引っかけた。 それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。 「この前の通りの 刈方 ( かりかた )で、およろしいので……」 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。 チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく 去 ( さ )り 気 ( げ )ない口調で答えた。 この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。 記憶しておりますか。 あの時の刈方を……」 「ヘイ。 ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。 まん中を高く致しまして、お顔全体が 温柔 ( おとな )しい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」 「そうそう。 その通りに今度も願います」 「かしこまりました」 そう云う 中 ( うち )にモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。 若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。 私は眼を閉じて考え初めた。 私の過去はこうして 兎 ( と )にも 角 ( かく )にもイクラカずつ明るくなって来る。 若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。 私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、 昨日 ( きのう )が昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。 そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい 以前 ( まえ )に、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。 その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。 ……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。 しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、 真実 ( ほんとう )に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。 その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。 私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに 成長 ( おおき )くなったか。 あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。 そんなに 夥 ( おびただ )しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の 空洞 ( がらんどう )をジッと凝視していると、私の 霊魂 ( たましい )は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる 微生物 ( アトム )のように思われて来る。 ……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。 ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。 それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の 襟筋 ( えりすじ )を 剃 ( そ )るべくシャボンの泡を 塗 ( なす )り付けたのであった。 私はガックリと 項垂 ( うなだ )れた。 ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。 それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。 しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。 もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの 詰 ( つま )り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し 演 ( や )っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。 今朝から今まで引き続いて私の 周囲 ( まわり )に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。 どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。 ……私はそう考える 中 ( うち )にハッとして椅子から飛び上った。 ……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。 ……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。 それは 二個 ( ふたつ )の丸い 櫛 ( くし )が、私の頭の上に並んで、息も 吐 ( つ )かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、 一寸 ( ちょっと )の 間 ( ま )にわからなくなってしまった。 ……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された 亡者 ( もうじゃ )みたようになって、グッタリと椅子に 凭 ( も )たれ込んで底も 涯 ( はて )しもないムズ 痒 ( がゆ )さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。 ……もうこうなっては仕方がない。 何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。 前途 ( さき )はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。 「コチラへお 出 ( い )でなさい」 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が 這入 ( はい )って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。 首の 周囲 ( まわり )の白い 布切 ( きれ )は、私の気づかぬうちに理髪師が 取外 ( とりはず )して、扉の外で威勢よくハタイていた。 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと 頁 ( ページ )を伏せて立ち上った。 長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と 咳 ( せき )をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。 顔一面の髪の毛とフケの中から、 辛 ( かろう )じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ 宛 ( ずつ )、向い合って並んでいる。 その廊下の突当りの薄暗い壁の 凹 ( くぼ )みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と 鉄網 ( かなあみ )で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと 唸 ( うな )って、私の眼を醒まさした時計であろう。 どこから手を入れて 螺旋 ( ねじ )をかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の 振子球 ( ふりこだま )を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。 その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。 患者の名札は無い。 私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。 そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。 その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした 鶏頭 ( けいとう )が咲き乱れている真白い砂地で、その又 向 ( むこう )は左右とも、深緑色の松林になっている。 その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。 「……ああ……今は秋だな」 と私は思った。 冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。 そうして右手の 取付 ( とっつ )きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に 内部 ( なか )に這入った。 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。 向うの窓際に在る 石造 ( いしづくり )の 浴槽 ( ゆぶね )から湧出す水蒸気が三方の 硝子 ( ガラス )窓一面にキラキラと 滴 ( した )たり流れていた。 その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと 丸裸体 ( まるはだか )にして、 浴槽 ( ゆぶね )の中に追い込んだ。 そうして 良 ( い )い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の 板片 ( いたぎれ )の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい 石鹸 ( シャボン )とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。 それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて 泡沫 ( あわ )を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、 有無 ( うむ )を云わさず私の両手を引っ立てて、 「コチラですよ」 と金切声で命令しながら、モウ一度、 浴槽 ( ゆぶね )の中へ追い込んだ。 そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、 非道 ( ひど )い目に会わされた看護婦が、三人の 中 ( うち )に 交 ( まじ )っていて、 復讐 ( かたき )を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を 截 ( き )ってもらって、 竹柄 ( たけえ )のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで 身体 ( からだ )中を 拭 ( ぬぐ )い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、 流石 ( さすが )に生れ変ったような気持になってしまった。 こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。 「これとお着換なさい」 と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。 結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの 襯衣 ( シャツ )、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ 編上靴 ( あみあげくつ )なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。 私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その 序 ( ついで )に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。 しかし、そのどれもこれもは、殆ど 仕立卸 ( したておろ )しと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに 昔馴染 ( むかしなじみ )でもあるかのようにシックリと着心地がいい。 ただ上衣の 詰襟 ( つめえり )の新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。 あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には 幾何 ( いくら )這入っているかわからないが、 滑 ( やわ )らかに膨らんだ小さな 蟇口 ( がまぐち )が 触 ( さわ )った。 私は又も狐に 抓 ( つま )まれたようになった。 どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、 生憎 ( あいにく )、 破片 ( かけら )らしいものすら見当らぬ。 その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。 私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い 晒 ( ざら )しの 浴衣 ( ゆかた )を取り 除 ( の )けた。 その下から現われたものは、思いがけない一面の、 巨大 ( おおき )な姿見鏡であった。 私は思わず 背後 ( うしろ )によろめいた。 ……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の 鬚武者 ( ひげむしゃ )で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、 掌 ( てのひら )で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。 眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと 二十歳 ( はたち )かそこいらの青二才としか見えない。 額の丸い、 腮 ( あご )の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。 制服がなければ中学生と思われるかも知れない。 こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。 その時に 背後 ( うしろ )から若林博士が、催促をするように声をかけた。 「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」 私は 冠 ( かむ )りかけていた帽子を慌てて脱いだ。 冷めたい 唾液 ( つば )をグッと 嚥 ( の )み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと 判明 ( わか )った。 若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。 つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。 ……成る程これなら間違いはない。 たしかに私の過去の記念物に相違ない。 ……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら 酬 ( むく )いられなかった。 初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。 その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく 点頭 ( うなず )いた。 「…… 御尤 ( ごもっと )もです。 以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。 次の方法を試みてみますから……。 今度は、きっと思い出されるでしょう……」 私は新らしい編上靴を 穿 ( は )いた足首と、 膝頭 ( ひざがしら )を 固 ( こわ )ばらせつつ、若林博士の背後に 跟随 ( くっつ )いて、 鶏頭 ( けいとう )の咲いた廊下を引返して行った。 そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。 それから大きな 真鍮 ( しんちゅう )の 把手 ( ノッブ )を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。 その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、 「只今、よくお 寝 ( やす )みになっております」 と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして 内部 ( なか )に這入った。 片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の 根方 ( ねかた )に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。 そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。 私は両手で帽子の 庇 ( ひさし )をシッカリと握り締めた。 自分の眼を疑って、二三度パチパチと 瞬 ( まばた )きをした。 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。 その少女は 艶々 ( つやつや )した 夥 ( おびただ )しい 髪毛 ( かみのけ )を、黒い、大きな 花弁 ( はなびら )のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に 蓬々 ( ぼうぼう )と乱していた。 肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい 繃帯 ( ほうたい )で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。 むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い 睫毛 ( まつげ )、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった 二重顎 ( ふたえあご )まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。 ……否。 その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。 すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、 生 ( う )ぶ 毛 ( げ )で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。 しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の 輪廓 ( りんかく )のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。 ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく 淋 ( さび )しい 薔薇 ( ばら )色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。 そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の 神々 ( こうごう )しいこと……。 私は又も、自分の眼を疑いはじめた。 けれども、眼をこすることは愚か、 呼吸 ( いき )も出来ないような気持になって、なおも 瞬 ( またたき )一つせずに、 見惚 ( みと )れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。 それが見る見るうちに大きい露の 珠 ( たま )になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、 微 ( かす )かにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。 「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。 ……あたしは…… 妾 ( あたし )は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。 お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」 それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。 けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の 眥 ( めじり )へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした 両鬢 ( りょうびん )の、すきとおるような 生 ( は )え 際 ( ぎわ )へ消え込んで行くのであった。 しかし、その涙はやがて止まった。 そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、 健康 ( すこやか )な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。 ……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。 そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて 和 ( なご )やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。 そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと 背後 ( うしろ )をふり返った。 私の背後に突立った若林博士は、 最前 ( さっき )からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。 しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その 蝋石 ( ろうせき )のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと 嘗 ( な )めて、今までとはまるで違った、 響 ( ひびき )の無い声を出した。 「……この方の……お名前を……御存じですか」 私は今一度、少女の寝顔を振り返った。 あたりを 憚 ( はばか )るように、ヒッソリと頭を振った。 ……イイエ……チットモ……。 という風に……。 すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で 囁 ( ささや )いた。 「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」 私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく 瞬 ( まばたき )をして見せた。 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう…… といわんばかりに……。 すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。 そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。 極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、 恰 ( あた )かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。 暗示的な、ゆるやかな口調で云った。 「……それでは……申します。 この方は、あなたのタッタ一人のお 従妹 ( いとこ )さんで、あなたと 許嫁 ( いいなずけ )の間柄になっておられる方ですよ」 「……アッ……」 と私は驚きの声を呑んだ。 額 ( ひたい )を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。 自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。 「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」 「……さよう、世にも 稀 ( まれ )な美しいお方です。 しかし間違い御座いませぬ。 本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました 貴方 ( あなた )の、たった一人のお従妹さんです。 その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで 斯様 ( かよう )にお気の毒な生活をしておられますので……」 「……………………」 「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」 若林博士の口調は、私を威圧するかのように 緩 ( ゆる )やかに、 且 ( か )つ荘重であった。 しかし私はもとの通り、狐に 抓 ( つま )まれたように眼を 瞠 ( みは )りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。 ……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。 「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」 「あれは夢を見ていられるのです。 ……今申します通りこの令嬢には最初から 御同胞 ( ごきょうだい )がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが 居 ( お )られたという事実が記録に残っております。 それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」 「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」 といううちに私は声を震わした。 若林博士の顔を見上げながらジリジリと 後退 ( あとずさ )りせずにはおられなかった。 若林博士の 頭脳 ( あたま )が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、 外 ( ほか )から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない…… 況 ( ま )して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。 事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。 依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。 依然として響の無い、切れ切れの声で……。 「……それは……この令嬢が、眼を 醒 ( さま )しておられる間にも、そんな事を云ったり、 為 ( し )たりしておられるから 判明 ( わか )るのです。 ……この髪の奇妙な 結 ( ゆ )い方を御覧なさい。 この結髪のし方は、この令嬢の一千年 前 ( ぜん )の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、 身体 ( からだ )のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。 年齢 ( とし )ごろまでも見違えるくらい成熟された、 優雅 ( みやび )やかな若夫人の姿に見えて来るのです。 …… 尤 ( もっと )も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル 巻 ( まき )にしておられるのですが……」 私は 開 ( あ )いた口が 閉 ( ふさ )がらなかった。 その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを 惘々然 ( ぼうぼうぜん )と見比べない訳に行かなかった。 「……では……では……兄さんと云ったのは……」 「それは 矢張 ( やは )り貴方の、一千年 前 ( ぜん )の御先祖に当るお方の事なのです。 その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる 情景 ( ありさま )を、現在夢に見ておられるのです」 「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」 と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。 若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。 「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」 と云いさして若林博士もピッタリと口を 噤 ( つぐ )んだ。 二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。 けれども 最早 ( もう )、遅かった。 私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。 その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度 瞬 ( まばたき )をした。 そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。 その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。 それに 連 ( つ )れて頬の色が 俄 ( にわ )かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、 「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」 と 魂消 ( たまぎ )るように叫びつつ身を起した。 素跣足 ( すはだし )のまま寝台から飛び降りて、 裾 ( すそ )もあらわに私に 縋 ( すが )り付こうとした。 私は仰天した。 無意識の 裡 ( うち )にその手を払い 除 ( の )けた。 思わず二三歩飛び 退 ( の )いて 睨 ( にら )み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。 両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。 顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を 凝視 ( みつ )めながら、よろよろと、うしろに 退 ( さが )って寝台の上に両手を 支 ( つ )いた。 唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。 グッタリとうなだれて、石の床の上に 崩折 ( くずお )れ座りつつ、白い患者服の 袖 ( そで )を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。 私はいよいよ面喰った。 顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ 嗄 ( が )れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。 若林博士は……しかし顔の 筋肉 ( すじ )一つ動かさなかった。 呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を 屈 ( かが )めた。 耳に口を当てるようにして問うた。 「思い出されましたか。 この方のお名前を……そうして 貴女 ( あなた )のお名前も……」 この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。 けれども少女は返事をしなかった。 ただ、ちょっとの 間 ( ま )、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。 「……それではこの方が、貴方とお 許嫁 ( いいなずけ )になっておられた、あのお兄さまということだけは 記憶 ( おぼ )えておいでになるのですね」 少女はうなずいた。 そうして前よりも一層 烈 ( はげ )しい、高い声で泣き出した。 それは、何も知らずに聞いていても、 真 ( まこと )に悲痛を極めた、 腸 ( はらわた )を絞るような声であった。 自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして 折角 ( せっかく )その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、 素気 ( そっけ )なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその 嗄 ( か )れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。 今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは 全然 ( まるで )違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に 陥 ( おとしい )れられてしまったのであった。 この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ 堪 ( た )まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい 背面 ( うしろ )姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに 苛責 ( さい )なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。 気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。 「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう 直 ( じ )きに思い出されます。 この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。 しかし、もう間もなく思い出されます。 そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。 そうして御一緒に退院なさるでしょう。 ……さ……静かにおやすみなさい。 時期の来るのをお待ちなさい。 それは決して遠いことではありませんから……」 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。 ……驚いて、弱って、 暗涙 ( あんるい )を拭い拭い立ち 竦 ( すく )んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。 廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。 その 歔欷 ( すす )り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと 吐 ( つ )きながら気を落ち付けた。 とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。 ……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁 一重 ( ひとえ )を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。 ……しかもその美少女は、私のタッタ一人の 従妹 ( いとこ )で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお 婿 ( むこ )さんであった私」というような 奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。 ……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。 ……それを私から払い 除 ( の )けられたために、床の上へ 崩折 ( くずお )れて、 腸 ( はらわた )を絞るほど歎き悲しんでいる…… というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に 唖 ( おし )にでもなったかのように、ピッタリと口を 噤 ( つぐ )んでしまった。 そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で 胴衣 ( チョッキ )のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、 掌 ( てのひら )の上に載せた。 それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。 身体 ( からだ )の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。 しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。 その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。 小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、 弛 ( ゆる )めたりしている姿を見ると、 恰 ( あたか )もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。 ……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に 悶 ( もだ )えている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。 だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。 ……しかも……私が、何だかこの博士から 小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。 何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。 そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。 何も知らない私を 捉 ( つか )まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って 紹介 ( ひきあわ )せたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ 可怪 ( おか )しいようである。 この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の 身体 ( からだ )に合せて仕立てたものではないかしらん。 又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。 この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。 ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの 勿体 ( もったい )らしい錯覚に 陥 ( おとしい )れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。 そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。 なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。 ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。 ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。 そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの 木阿弥 ( もくあみ )のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。 何等の責任も、心配もない……。 けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。 すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、 左掌 ( ひだりて )の上の懐中時計を、やおら 旧 ( もと )のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。 「いかがです。 お疲れになりませんか」 私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。 「いいえ。 ちっとも……」 「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」 私は今一度、何でもなくうなずいた。 どうでもなれ……という気持で……。 それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。 「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました 正木敬之 ( まさきけいし )先生が、御臨終の当日まで 居 ( お )られました部屋に御案内いたしましょう。 そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。 そうして貴方と、あの令嬢に 絡 ( から )まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。 しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。 ……どこへでも連れて行くがいい。 どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。 同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。 すると若林博士も満足げにうなずいた。 「……では……こちらへどうぞ……」 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ 塗 ( ぬり )、二階建の木造洋館であった。 その 中央 ( まんなか )を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。 その扉の上の 明窓 ( あかりまど )から洩れ込んで来る、 仄青 ( ほのあお )い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。 その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。 背後 ( うしろ )を振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で 外套 ( がいとう )を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。 だから私もそれに 倣 ( なら )って、 霜降 ( しもふり )のオーバーと角帽をかけ並べた。 私たちの靴の 痕跡 ( あと )が、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに 蔽 ( おお )われているらしい。 それはステキに広い、明るい部屋であった。 北と、西と、南の三方に、四ツ 宛 ( ずつ )並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝で 蔽 ( おお )われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も 遮 ( さえぎ )るものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のように 眩 ( まぶ )しく流れ込んでいる。 その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。 同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。 「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました 斎藤寿八 ( さいとうじゅはち )先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、 若 ( もし )くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが 尠 ( すくな )くありませぬ。 ところがその斎藤先生が他界されました 後 ( のち )、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な 煖炉 ( ストーブ )まで取付けられたものです。 しかも、それが総長の許可も受けず、正規の 届 ( とどけ )も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで 届書 ( とどけしょ )を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を 卑 ( ひく )うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。 「なあに……そんなに心配するがものはないよ。 ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。 総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ 理由 ( わけ )なんだ。 聞き給え。 ……何を隠そう、かく云う 吾輩 ( わがはい )自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。 そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。 ……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。 とりあえずこんな参考材料と 一所 ( いっしょ )に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。 ……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。 この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」 と云って大笑されましたので、 流石 ( さすが )老練の塚江事務官も 煙 ( けむ )に 捲 ( まか )れたまま 引退 ( ひきさが )ったものだそうです」 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の 度胆 ( どぎも )を抜くのには充分であった。 今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの 素破 ( すば )らしさが、こうした何でもない 諧謔 ( かいぎゃく )の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一 刹那 ( せつな )に、私は思わずゾッとさせられたのであった。 世間一般が 大切 ( だいじ )がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の 辛辣 ( しんらつ )、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として 開 ( あ )いた口が 塞 ( ふさ )がらなくなるばかりであった。 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。 「……ところで、 貴方 ( あなた )をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは 他事 ( ほか )でも御座いませぬ。 只今も 階下 ( した )の七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。 これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。 ……正木先生は 曾 ( かつ )て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。 何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。 あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。 それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく 一瀉千里 ( いっしゃせんり )に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。 恰 ( あたか )も大人が 小児 ( こども )に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。 私が 先刻 ( さっき )から感じていた……何もかも 出鱈目 ( でたらめ )ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。 若林博士は 流石 ( さすが )に権威ある法医学者であった。 私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。 最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の 隙間 ( すきま )もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。 その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。 ……それならば 先刻 ( さっき )から見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり 真実 ( ほんとう )に、私の身の上に関係した事だったのか知らん。 そうしてあの少女は、やはり私の正当な 従妹 ( いとこ )で、同時に 許嫁 ( いいなずけ )だったのか知らん……。 ……もしそうとすれば私は、 否 ( いや )でも 応 ( おう )でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。 そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。 ……ああ。 「自分の過去」を「 狂人 ( きちがい )病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。 何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。 こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず 額 ( ひたい )にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の 内部 ( なか )を恐る恐る見廻しはじめた。 思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ 硝子 ( ガラス )戸棚の行列が 立塞 ( たちふさ )がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二 間 ( けん )ぐらいに見える大 卓子 ( テーブル )が、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。 その大卓子の表面に張詰めてある緑色の 羅紗 ( らしゃ )は、やはり薄いホコリを 被 ( かぶ )ったまま、南側の窓からさし込む光線を 眩 ( まぶ )しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。 又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の 綴込 ( とじこ )みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に 蔽 ( おお )い 被 ( かぶ )さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。 しかもその前には瀬戸物の赤い 達磨 ( だるま )の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の 欠伸 ( あくび )を続けているのが、何だか 故意 ( わざ )と、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。 その赤い 達磨 ( だるま )の真正面に 衝 ( つ )き立っている東側の 壁面 ( かべ )は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に 跼 ( かが )まれる位の大 暖炉 ( ストーブ )が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。 その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。 その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。 その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、 清々 ( すがすが )しい朝の光りの中に、 或 ( あるい )は 眩 ( まぶ )しく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な 静寂 ( しじま )を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。 事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。 最前から持っていたような一種の 投 ( なげ )やりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。 それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。 私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。 若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に 治癒 ( なお )りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。 それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。 それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の 綴込 ( つづりこみ )で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ 穢 ( よご )れてボロボロになりかけている。 硝子の破れ目から 怪我 ( けが )をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに 赤 ( あか )インキの一頁大の 亜剌比亜 ( アラビア )数字で、 、 、 、 、 と番号が打ってある。 その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。 巻頭歌 胎児よ胎児よ何故躍る 母親の 心がわかっておそろしいのか その次のページに黒インキのゴジック体で『 ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。 何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。 「……これは何ですか先生……この ドグラ・マグラというのは……」 若林博士は今までになく気軽そうに、私の 背後 ( うしろ )からうなずいた。 「ハイ。 それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを 表現 ( あらわ )した珍奇な、面白い製作の一つです。 当科 ( ここ )の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気 呵成 ( かせい )に書上げて、私の手許に提出したものですが……」 「若い大学生が……」 「そうです」 「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」 「イヤ。 そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」 「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」 「さようで……」 「論文じゃないのですか……」 「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。 つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。 そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容が 亦 ( また )非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、 色情表現 ( エロチシズム )、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと 流石 ( さすが )に、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に 横溢 ( おういつ )しております。 ……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を 異 ( こと )にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。 世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」 若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。 その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。 「ヘエ。 そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」 「……それは 斯様 ( かよう )な訳です。 その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚に 囚 ( とら )われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。 そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。 ……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。 つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に 幽閉 ( とじこ )められて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」 「……ヘエ。 先生にはソンナ 記憶 ( おぼえ )が、お在りになるのですか」 若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑の 皺 ( しわ )が寄った。 それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。 「そんな事は絶対に御座いませぬ」 「それじゃ全部が 出鱈目 ( でたらめ )なのですね」 「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」 「ヘエ。 妙ですね。 そんな事があり得るでしょうか」 「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」 「イヤ。 読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」 「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では 追付 ( おいつ )かない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。 専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。 現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。 そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。 甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用が 措 ( お )けなくなったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」 「ヘエ。 何だかモノスゴイ話ですね。 正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。 よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」 「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。 しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。 ……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の 所謂 ( いわゆる )、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。 その意味で、 斯様 ( かよう )な標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」 「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」 「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」 「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」 「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。 ……と申します理由は外でも御座いませぬ。 この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な 謎語 ( なぞ )を解決する鍵が隠されているのではないか。 このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。 ……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、 流石 ( さすが )に疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。 ……といって 斯様 ( かよう )な不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、 計 ( はか )らず面白い事に気付きました。 元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧 欧羅巴 ( ヨーロッパ )系統の 訛 ( なまり )言葉が、方言として多数に残っているようですから、 或 ( あるい )は、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。 ……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは 切支丹伴天連 ( キリシタンバテレン )の使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。 語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、 強 ( し )いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『 堂廻目眩 ( どうめぐりめぐらみ )』『 戸惑面喰 ( とまどいめんくらい )』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。 ……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」 「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」 「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。 ……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に 記述 ( しる )されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。 たとえば、 ……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類…… ……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした 幻魔作用 ( ドグラ・マグラ )の印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へと 逐 ( お )いかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。 ……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。 しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じ唯一つの 時鐘 ( じしょう )の音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程 左様 ( さよう )にこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。 ……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」 といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。 しかし私は慌てて押し止めた。 「イヤ。 モウ結構です」 と云ううちに両手を烈しく左右に振った。 若林博士の説明を聞いただけで、 最早 ( もはや )私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に…… ……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。 「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。 ……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。 ……こんな話は 最早 ( もはや )、これっきり忘れてしまうに限る……。 ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。 そうして戸棚の 出外 ( ではず )れの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。 私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。 こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしい 覗 ( のぞ )きまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。 却 ( かえ )って、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。 私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大 卓子 ( テーブル )の片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。 又もニジミ出して来る額の 生汗 ( なまあせ )をハンカチで拭いた。 そうして急に靴の 踵 ( かかと )で半回転をして西の方に背中を向けた。 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大 卓子 ( テーブル )越しに、私の真正面まで 辷 ( すべ )って来てピッタリと停止した。 さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。 私は前こごみになっていた 身体 ( からだ )をグッと引き伸ばした。 そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に 見惚 ( みと )れた。 その図は、西洋の 火焙 ( ひあぶ )りか何かの光景らしかった。 三本並んだ太い 生木 ( なまき )の柱の中央に、白髪、 白髯 ( はくぜん )の神々しい老人が、高々と 括 ( くく )り付けられている。 その右に、 瘠 ( や )せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに 丸裸体 ( まるはだか )のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。 その 酷 ( むご )たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の 輿 ( こし )に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた 眷族 ( けんぞく )や、臣下らしいものに取巻かれつつも 如何 ( いか )にも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。 それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな 掌 ( てのひら )で小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の 頭巾 ( ずきん )を冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、 撞木杖 ( しゅもくづえ )を突いて立ち 佇 ( とど )まっているが、如何にも手柄顔に 火刑柱 ( ひあぶりばしら )の三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、 粗 ( まば )らな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。 「これは何の絵ですか」 私はその画面を指さして振り返った。 若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。 「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。 精神病者を魔者に 憑 ( つ )かれたものとして、 片端 ( かたっぱし )から 焚 ( や )き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に 居 ( お )りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼 卜筮者 ( うらないしゃ )であった 巫女婆 ( みこばばあ )です。 昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が 柳河 ( やながわ )の 骨董店 ( こっとうてん )から買って来られたというお話です。 筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」 「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」 「さようさよう。 精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、 寧 ( むし )ろ徹底した治療法というべきでしょう」 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが 籠 ( こも )っていたので……。 私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。 「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。 「……いや……必ずしもそうでないのです。 或は 一 ( ひ )と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。 そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。 それは額の 禿 ( は )げ上った、 胡麻塩髯 ( ごましおひげ )を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に 湛 ( たた )えている。 私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。 「この写真はどなたですか」 若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、 著 ( いちじる )しく柔らいだように見えた。 何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。 「……ハイ……その写真ですか。 ハイ……それは斎藤寿八先生です。 最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」 そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な 歎息 ( ためいき )をしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。 「……やっとお眼に止まりましたね」 「……エッ……」 と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。 そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。 しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。 「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。 何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」 こう云われると同時に私はハッと気が付いた。 この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。 そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。 そうして心持ち 俛首 ( うなだ )れながら若林博士の言葉に耳を傾けた。 「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。 貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人 焚殺 ( ふんさつ )の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。 何故かと申しますと、 彼 ( か )の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。 あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。 ……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。 そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」 「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」 と私は 独言 ( ひとりごと )のように 呟 ( つぶや )いた。 又も底知れぬ恐怖に 囚 ( とら )われつつ……。 しかし若林博士は平気でうなずいた。 「……行われております。 遺憾なく昔の通りに行われております。 焚 ( や )き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。 今日只今でも……」 「……そ……それはあんまり……」 と云いさして私は言葉を 嚥 ( の )み込んだ。 あんまり 非道 ( ひど )い云い方だと思ったので……。 しかし若林博士は動じなかった。 私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。 「あんまりではありませぬ。 儼然 ( げんぜん )たる事実に相違ないのです。 その事実は 追々 ( おいおい )と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を 樹 ( た )てられる事になったのです。 その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、 申分 ( もうしぶん )なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」 私は又も呆然となった。 開 ( あ )いた口が 塞 ( ふさ )がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。 そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に 囚 ( とら )われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。 しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。 「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。 すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」 「エッ。 僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」 「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」 「……二十年……」 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、 咽喉 ( のど )の奥に引返した。 その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の 頸筋 ( くび )に捲き付いて来るような気がしたので……。 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。 「そうです。 正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」 「……まだ生れない僕のために……」 「さよう。 こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。 正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。 貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました 後 ( のち )に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。 その上で前後の事実を 照合 ( てらしあわ )されましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、 御首肯 ( ごしゅこう )出来る事と信じます。 ……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」 若林博士は、こう説明しつつ大 卓子 ( テーブル )の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。 私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を 卸 ( おろ )すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。 余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、 唾液 ( つば )を呑込み呑込みしているばかりであった。 その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。 最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、 露 ( あら )わに細長く折れ曲っている間へ、長い 頸部 ( くび )と、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。 そうしてそのまん中に、顔だけが 旧 ( もと )の通りの大きさで 据 ( す )わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。 たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大 蜘蛛 ( ぐも )が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を 餌食 ( えさ )にすべく、モーニングコートを着て 匐 ( は )い出して来たような感じに変ってしまったのであった。 私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に 居住居 ( いずまい )を正した。 するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと 塵 ( ごみ )を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。 「……ところでその正木先生が、生涯を 賭 ( と )して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますに 就 ( つい )ては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。 正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。 そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。 しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。 取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。 学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、 頗 ( すこぶ )る呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく 他人 ( ひと )に貸してやったりしておられたものでした。 そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べて 廻 ( ま )わったりしておられたような事でした。 …… 尤 ( もっと )もこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。 ……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。 ……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに 驚目駭心 ( きょうもくがいしん )させられているような次第で御座います。 いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。 ……と申しますのは 斯様 ( かよう )な次第で御座います。 元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。 嘗 ( かつ )て、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。 「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく 花柳 ( かりゅう )の 巷 ( ちまた )に出入したり、賭博に 耽 ( ふけ )ったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。 そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を 弄 ( もてあそ )ぶことでもない。 学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。 これは日本の学界の一大弊害と思う」 と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。 ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を 窺 ( うかが )うのに十分で御座いましょう。 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初の 中 ( うち )は、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。
次の私がウスウスと眼を覚ました時、こうした 蜜蜂 ( みつばち )の 唸 ( うな )るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。 そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。 私はフッと眼を開いた。 かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い 塵埃 ( ほこり )に 蔽 ( おお )われた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。 その赤黄色く光る 硝子球 ( ガラスだま )の横腹に、大きな 蠅 ( はえ )が一匹とまっていて、死んだように 凝然 ( じっ )としている。 その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、私は大の字 型 ( なり )に長くなって寝ているようである。 ……おかしいな…………。 私は大の字 型 ( なり )に 凝然 ( じっ )としたまま、 瞼 ( まぶた )を一パイに見開いた。 そうして眼の 球 ( たま )だけをグルリグルリと上下左右に廻転さしてみた。 青黒い 混凝土 ( コンクリート )の壁で囲まれた二 間 ( けん )四方ばかりの部屋である。 その三方の壁に、黒い鉄格子と、 鉄網 ( かなあみ )で二重に張り詰めた、大きな縦長い 磨硝子 ( すりガラス )の窓が一つ 宛 ( ずつ )、都合三つ取付けられている、トテも 要心 ( ようじん )堅固に構えた部屋の感じである。 窓の無い側の壁の附け根には、やはり 岩乗 ( がんじょう )な鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷き 展 ( なら )べたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。 ……おかしいぞ…………。 私は少し頭を持ち上げて、自分の 身体 ( からだ )を見廻わしてみた。 白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。 そこから丸々と 肥 ( ふと )って突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。 ……いよいよおかしい……。 怖 ( こ )わ 怖 ( ご )わ 右手 ( めて )をあげて、自分の顔を 撫 ( な )でまわしてみた。 ……鼻が 尖 ( と )んがって……眼が落ち 窪 ( くぼ )んで…… 頭髪 ( あたま )が 蓬々 ( ぼうぼう )と乱れて…… 顎鬚 ( あごひげ )がモジャモジャと延びて……。 ……私はガバと跳ね起きた。 モウ一度、顔を撫でまわしてみた。 そこいらをキョロキョロと見廻わした。 ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。 胸の動悸がみるみる高まった。 早鐘を 撞 ( つ )くように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。 やがて死ぬかと思うほど 喘 ( あえ )ぎ出した。 ……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。 ……こんな不思議なことがあろうか……。 ……自分で自分を忘れてしまっている……。 ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。 ……ソレッ切りである……。 ……それでいて気は 慥 ( たし )かである。 森閑 ( しんかん )とした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。 ……夢ではない……たしかに夢では…………。 私は飛び上った。 ……窓の前に駈け寄って、磨硝子の平面を覗いた。 そこに映った自分の 容貌 ( かおかたち )を見て、何かの記憶を 喚 ( よ )び起そうとした。 ……しかし、それは何にもならなかった。 磨硝子の表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、私自身の影法師しか映らなかった。 私は身を 飜 ( ひるがえ )して寝台の枕元に在る入口の 扉 ( ドア )に駈け寄った。 鍵穴だけがポツンと開いている 真鍮 ( しんちゅう )の金具に顔を近付けた。 けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。 只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。 ……寝台の脚を探しまわった。 寝具を引っくり返してみた。 着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は 愚 ( おろ )か、頭文字らしいものすら発見し得なかった。 私は呆然となった。 私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。 私自身にも誰だかわからない私であった。 臓腑 ( はらわた )の底から湧き出して来る 戦慄 ( せんりつ )と共に、我を忘れて大声をあげた。 それは金属性を帯びた、 突拍子 ( とっぴょうし )もない 甲高 ( かんだか )い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。 又叫んだ。 ……けれども 矢張 ( やは )り無駄であった。 その声が一しきり 烈 ( はげ )しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。 又叫ぼうとした。 ……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、 咽喉 ( のど )の奥の方へ引返してしまった。 叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。 膝頭 ( ひざがしら )が自然とガクガクし出した。 それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか 喘 ( あえ )ぎ初めていた。 叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の 中央 ( まんなか )に棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、 凩 ( こがらし )のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。 そのうちに私は気が遠くなって来た。 両眼をカッと見開いて、寝台の向側の 混凝土 ( コンクリート )壁を凝視した。 その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。 ……それは確かに若い女の声と思われた。 けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど 嗄 ( しゃが )れてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい 響 ( ひびき )ばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。 「……お兄さま。 お兄さま。 お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。 思わずモウ一度、 背後 ( うしろ )を振り返った。 この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声を 滲 ( し )み透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。 「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。 妾 ( あたし )です。 お兄様の 許嫁 ( いいなずけ )だった…… 貴方 ( あなた )の未来の妻でした妾……あたしです。 あたしです。 唇をアングリと開いた。 その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。 そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。 そのまま一心に 混凝土 ( コンクリート )の壁を 白眼 ( にら )み付けた。 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。 臓腑をドン底まで凍らせずには 措 ( お )かないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。 ……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い 怨 ( うら )みの声であった。 それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。 「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。 なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。 あたしです、あたしです、あたしですあたしです。 お兄さまはお忘れになったのですか。 妾 ( あたし )ですよ。 あたしですよ。 お兄様の 許嫁 ( いいなずけ )だった……妾……妾をお忘れになったのですか。 ……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。 ……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。 幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。 ……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」 私はヨロヨロと 背後 ( うしろ )に 蹌踉 ( よろめ )いた。 モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。 ……何という奇怪な言葉だ。 ……壁の向うの少女は私を知っている。 私の許嫁だと云っている。 ……しかも私と結婚式を挙げる前の晩に、私の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で云っている。 そうして私と壁 一重 ( ひとえ )を隔てた向うの部屋に 閉 ( と )じ 籠 ( こ )められたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。 想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、私の過去の記憶を喚び起すべく、 死物狂 ( しにものぐる )いに努力し続けているらしい。 ……キチガイだろうか。 ……本気だろうか。 いやいや。 キチガイだキチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。 私は思わず笑いかけたが、その笑いは私の顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。 ……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土の壁を貫いて来たのだ。 笑うにも笑えない……たしかに私を私と知っている確信にみちみちた……真剣な…… 悽愴 ( せいそう )とした……。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。 何故 ( なぜ )、御返事をなさらないのですか。 妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」 「……………………」 「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。 ……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。 そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」 「……………………」 「……妾の苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に 這入 ( はい )らないのですか……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様……あんまりです、あんまりですあんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」 そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。 それは平手か、コブシかわからないが、とにかく 生身 ( なまみ )の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。 皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。 私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の 痕跡 ( あと )を想像しながら、なおも一心に眼を 瞠 ( みは )り、奥歯を噛み締めていた。 「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。 そうして生き返っている妾です。 お兄様よりほかにお 便 ( たよ )りする方は一人もない可哀想な妹です。 一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」 「お兄様もおんなじです。 世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。 そうして 他人 ( ひと )からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」 「……………………」 「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。 妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」 私は思わず寝台の上に飛乗った。 その声のあたりと思われる青黒い 混凝土 ( コンクリート )壁に 縋 ( すが )り付いた。 すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。 ……が……又グット 唾液 ( つば )を 嚥 ( の )んで思い 止 ( とど )まった。 ソロソロと寝台の上から 辷 ( すべ )り降りた。 その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと 後退 ( あとしざ )りをして来た。 ……私は返事が出来なかったのだ。 否……返事をしてはいけなかったのだ。 私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。 あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。 自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。 その私が、どうして彼女の 夫 ( おっと )として返事してやる事が出来よう。 たとい返事をしてやったお 蔭 ( かげ )で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの 氏素性 ( うじすじょう )や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。 ……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。 そればかりじゃない。 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに 外 ( ほか )ならないとしたら、どうであろう。 私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの 原因 ( もと )にならないとは限らないではないか。 ……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。 私は自分の 軽率 ( かるはずみ )から、他人の妻を 横奪 ( よこど )りした事になるではないか。 他人の恋人を 冒涜 ( ぼうとく )した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し 唾液 ( つば )を 嚥 ( の )み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。 「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。 あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」 そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。 私は 頭髪 ( かみ )を両手で引掴んだ。 長く伸びた十本の 爪 ( つめ )で、血の出るほど掻きまわした。 「……お兄さまお兄さまお兄さま。 妾は 貴方 ( あなた )のものです。 貴方のものです。 早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」 私は 掌 ( てのひら )で顔を烈しくコスリまわした。 ……違う違う……違います違います。 貴女 ( あなた )は思い違いをしているのです。 僕は貴女を知らないのです……。 ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を 噤 ( つぐ )んだ。 そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。 私は 拳骨 ( げんこつ )を固めて、耳の 後部 ( うしろ )の骨をコツンコツンとたたいた。 けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。 それでも彼女の声は絶えなかった。 息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。 「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」 私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、 扉 ( ドア )を見まわした。 駈け出しかけて又、立止まった。 ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。 と思ううちに、全身がゾーッと 粟立 ( あわだ )って来た。 入口の 扉 ( ドア )に走り寄って、鉄かと思われるほど 岩乗 ( がんじょう )な、青塗の板の平面に、全力を挙げて 衝突 ( ぶつか )ってみた。 暗い鍵穴を覗いてみた。 ……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、 痺 ( しび )れ上るほど 脅 ( おび )やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。 やっと下の方の片隅だけ 引歪 ( ひきゆが )める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。 私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。 ガタガタ 慄 ( ふる )えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。 私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから 幽瞑 ( あのよ )の世界に来て、何かの 責苦 ( せめく )を受けているのではあるまいか。 この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の 無間 ( むげん )地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。 ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに 苛責 ( さい )なまれ初めた絶体絶命の 活 ( いき )地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない 永劫 ( えいごう )の苛責……。 私は 踵 ( かかと )が痛くなるほど強く 地団駄 ( じだんだ )を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。 ……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た 隣室 ( となり )の物音と、切れ切れに起る 咽 ( むせ )び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。 こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。 けれども私の頭の中は依然として 空虚 ( からっぽ )であった。 彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に 就 ( つ )いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。 カラッポの記憶の中に、 空 ( から )っぽの私が生きている。 それがアラレもない女の叫び声に 逐 ( お )いまわされながら、ヤミクモに 藻掻 ( もが )きまわっているばかりの私であった。 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。 次第次第に糸のように 甲走 ( かんばし )って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう 以前 ( もと )の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。 同時に私も疲れた。 狂いくたびれて、考えくたびれた。 扉 ( ドア )の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。 ……コトリ……と音がした。 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に 身体 ( からだ )を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで 項垂 ( うなだ )れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。 という静かな 雀 ( すずめ )の声……遠くに 辷 ( すべ )って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。 ……夜が明けたのだ……。 私はボンヤリとこう思って、両手で眼の 球 ( たま )をグイグイとコスリ上げた。 グッスリと睡ったせいであったろう。 今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に 剛 ( こわ )ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな 欠伸 ( あくび )をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。 向うの入口の 扉 ( ドア )の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の 膳 ( ぜん )が這入って来るようである。 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。 無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。 …… 吾 ( われ )を忘れて立上った。 爪先走りに切戸の 傍 ( かたわら )に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を 狙 ( ねら )いすまして 無手 ( むず )と引っ掴んだ。 ……と……お膳とトースト 麺麭 ( パン )と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。 私はシャ 嗄 ( が )れた声を振り絞った。 「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。 僕は……僕の名前は、何というのですか」 「……………………」 相手は身動き一つしなかった。 白い 袖口 ( そでぐち )から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。 「……僕は……僕の名前は……何というのですか。 私に掴まれた紫色の腕が、力なく 藻掻 ( もが )き初めた。 「……誰か……誰か来て下さい。 七号の患者さんが……アレッ。 静かに静かに……黙って下さい。 僕は誰ですか。 その瞬間に私の両手の力が 弛 ( ゆる )んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ 脱 ( ぬ )け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。 一所懸命に 縋 ( すが )り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを 喰 ( くら )った私は、固い人造石の床の上にドタリと 尻餅 ( しりもち )を突いた。 あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。 すると……又、不思議な事が起った。 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに 連 ( つ )れて、何とも知れない 可笑 ( おか )しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。 それは 迚 ( とて )もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本 毎 ( ごと )にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。 魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから 止 ( と )め 度 ( ど )もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。 ……アッハッハッハッハッ。 ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。 名前なんてどうでもいいじゃないか。 忘れたってチットモ不自由はしない。 俺は俺に間違いないじゃないか。 アハアハアハアハアハ………。 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。 頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。 笑った……笑った……笑った。 涙を 嚥 ( の )んでは 咽 ( む )せかえって、 身体 ( からだ )を 捩 ( よ )じらせ、 捻 ( ね )じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。 ……アハハハハ。 こんな馬鹿な事が又とあろうか。 ……天から降ったか、地から湧いたか。 エタイのわからない人間がここに一人居る。 俺はこんな人間を知らない。 アハハハハハハハ……。 ……今までどこで何をしていた人間だろう。 そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。 何が何だか一つも見当が附かない。 俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と 識 ( し )り合いになったのだ。 アハハハハハ…………。 ……これはどうした事なのだ。 何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。 アハ……アハ…… 可笑 ( おか )しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。 ……ああ苦しい。 やり切れない。 俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。 アッハッハッハッハッハッハッ……。 私はこうして 止 ( と )め 度 ( ど )もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。 そうして眼の 球 ( たま )をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、 栓 ( せん )をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。 同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを 塗 ( な )すくった焼 麺麭 ( パン )を掴んでガツガツと喰いはじめた。 それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお 美味 ( いし )さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと 嚥 ( の )み込んだ。 そうしてスッカリ満腹してしまうと、 背後 ( うしろ )に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。 それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。 満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、 掌 ( てのひら )と、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。 ……往来のざわめき。 急ぐ靴の音。 ゆっくりと下駄を引きずる音。 自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。 ……遠い、高い処で 鴉 ( からす )がカアカアと 啼 ( な )いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に 甲走 ( かんばし )った女の声……。 「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」 ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。 そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。 それはたしかに自動車の 警笛 ( サイレン )で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い 音 ( ね )であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。 それが朝の 静寂 ( しじま )を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした 髪毛 ( かみのけ )の中に走り込みそうになったところで、急に横に 外 ( そ )れて、大まわりをした。 高い高い 唸 ( うな )り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に 沁 ( し )み入るほどの高い悲鳴を 揚 ( あ )げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。 何の物音も聞えなくなった。 ……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと 濃 ( こま )やかになって行く…………。 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。 ……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。 私の眼の前で、 緩 ( ゆる )やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な 籐椅子 ( とういす )が一個 据 ( す )えられている。 そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を 衝 ( つ )くばかりに突立っているのであった。 それは身長六 尺 ( しゃく )を超えるかと思われる 巨人 ( おおおとこ )であった。 顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。 薄く、長く引いた眉の下に、 鯨 ( くじら )のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は 瀕死 ( ひんし )の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。 鼻は外国人のように隆々と 聳 ( そび )えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。 その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と 一 ( ひ )と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に 罹 ( かか )っているせいではあるまいか。 殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い 額 ( ひたい )の斜面と、軍艦の 舳先 ( へさき )を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。 それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の 外套 ( がいとう )を着て、その間から揺らめく 白金色 ( プラチナいろ )の逞ましい時計の 鎖 ( くさり )の前に、細長い、 蒼白 ( あおじろ )い、毛ムクジャラの指を 揉 ( も )み合わせつつ、婦人用かと思われる 華奢 ( きゃしゃ )な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。 初めて卵から 孵化 ( かえ )った 生物 ( いきもの )のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。 けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、 吾 ( わ )れ知らずその方向に向き直って座り直した。 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。 そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく 身体 ( からだ )が縮むような気がして、自ずと 項垂 ( うなだ )れさせられてしまった。 しかし巨大な紳士は、そんな事を 些 ( すこ )しも気にかけていないらしかった。 極めて冷静な態度で、 一 ( ひ )とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。 その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず 看破 ( みやぶ )られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。 ……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。 するとその時であった。 巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて 前屈 ( まえこご )みになった。 慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。 ……と思う間もなく私の方に身体を 反背 ( そむ )けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい 咳嗽 ( せき )を続けた。 そうして 稍 ( やや )暫らくしてから、やっと 呼吸 ( いき )が落ち付くと、又、 徐 ( おもむ )ろに私の方へ向き直って一礼した。 「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」 それは 矢張 ( やは )り身体に釣り合わない、女みたような声であった。 しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。 この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、 恭 ( うやうや )しく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又も 咳 ( せ )き入った。 「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」 私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。 九州帝国大学法医学教授 若林鏡太郎 医学部長 この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も 唖然 ( あぜん )となった。 眼の前に 咳嗽 ( せき )を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。 そうして、 「……ここは……九州大学……」 と 独言 ( ひとりごと )のように 呟 ( つぶ )やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、 微 ( かす )かにビクリビクリと震えた。 或 ( あるい )はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。 続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。 「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。 どうもお 寝 ( やす )みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは 他事 ( ほか )でも御座いませぬ。 ……早速ですが貴方は 先刻 ( さきほど )、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、 如何 ( いかが )で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」 私は返事が出来なかった。 やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。 ……これが驚かずにいられようか。 私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。 私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。 私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。 私は二重三重に面喰わせられたまま、 掌 ( てのひら )の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。 ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、 瞬 ( またたき )一つしないで見下しているのであった。 私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。 私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。 二人はこうして、ちょっとの 間 ( ま )、 睨 ( にら )み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、 如何 ( いか )にも失望したらしくソット眼を閉じた。 けれども、その 瞼 ( まぶた )が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。 同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、 微 ( かす )かに二三度うなずきながら唇を動かした。 「…… 御尤 ( ごもっと )もです。 不思議に思われるのは御尤も千万です。 元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」 と云いさした若林博士は、又も、 咳嗽 ( せき )が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。 ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。 「……と申しますのは、ほかでも御座いません。 ……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで 正木敬之 ( まさきけいし )という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」 「……マサキ……ケイシ……」 「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から 行詰 ( ゆきつま )ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然として樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。 純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、 劃時代的 ( かくじだいてき )の新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく 首肯 ( しゅこう )出来るので御座います。 ……申すまでもなく 貴方 ( あなた )も、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」 「僕が……精神病の治療……」 「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、甚しい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々 御尤 ( ごもっとも )千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。 ……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままになっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委托を受けまして、お引受致しましたのが、 外 ( ほか )ならぬ貴方で御座いました。 言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところ唯一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かに 懸 ( かか )っていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」 若林博士がこう云い切った時、私はそこいら中が急に 眩 ( まぶ )しくなったように思って、眼をパチパチさした。 私の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。 ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず 項垂 ( うなだ )れてしまったのであった。 ……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。 そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。 ……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に 罹 ( かか )っていた……否。 現在も罹っている証拠なのだ。 ……そうだ。 私はキチガイなのだ。 ……鳴呼。 私が浅ましい 狂人 ( きちがい )……。 ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、 叮嚀 ( ていねい )過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。 それに 連 ( つ )れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。 恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも 判然 ( わか )らない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと 火熱 ( ほて )って来た。 ……眼の中が 自然 ( おのず )と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに 充 ( みた )されつつ、かなしく 両掌 ( りょうて )を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。 若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、 唾液 ( つば )を呑み込んだようであった。 それから、 恰 ( あたか )も、 貴 ( たっと )い身分の人に対するように、両手を前に 束 ( たば )ねて、今までよりも一層親切な 響 ( ひびき )をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。 「御尤もです。 重々、御尤もです。 どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。 ……しかし御心配には及びませぬ。 貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」 「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」 「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」 「……僕が……私が…… 狂人 ( きちがい )の解放治療の実験材料…… 狂人 ( きちがい )を解放して治療する……」 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ 首肯 ( うなず )いた。 「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。 「さようさよう。 その通りで御座います。 その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の 裡 ( うち )に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。 ……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の 衝動 ( ショック )のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。 ……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」 「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」 と私は思わず 急 ( せ )き込んで、寝台の端にニジリ出した。 あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。 その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。 「それは誠に御尤も千万な御不審です。 ……が……しかしその事に 就 ( つき )ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。 いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」 「……僕自身に思い出す。 ……そ……それはドウして思い出すので……」 と私は一層 急 ( せ )き込みながら 口籠 ( くちごも )った。 若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。 しかし若林博士は騒がなかった。 静かに手を挙げて私を制した。 「……ま……ま……お待ち下さい。 それは 斯様 ( かよう )な 仔細 ( わけ )で御座います。 ……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。 しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が 虚構 ( うそ )になって 終 ( しま )う 虞 ( おそ )れがありますので…… 詰 ( つま )るところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が 併 ( しか )し……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。 ……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、 僅々 ( きんきん )四箇月間の実験を行われました 後 ( のち )、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。 そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」 「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」 「さようさよう。 貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。 その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。 ……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が 嘗 ( かつ )て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。 むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」 「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」 「さよう。 とりあえず空前とは申しましたものの、 或 ( あるい )は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」 「……そ……それは……ドンナ事件……」 と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。 端然として 佇立 ( ちょりつ )したままスラスラと言葉を続けて行った。 その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。 「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。 ……何をお隠し申しましょう。 只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」 「……精神科学……応用の犯罪……」 「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい 主題 ( テーマ )で御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、 斯様 ( かよう )申上げましたならば 大凡 ( おおよそ )、御諒解が出来ましょう。 ……すなわち私が、斯様な 主題 ( テーマ )に就いて研究を初めました 抑々 ( そもそも )の動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。 たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白 可笑 ( おか )しく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。 ……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、 歴々 ( ありあり )と展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」 「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」 若林博士は、いとも荘重にうなずいた。 「さようさよう。 貴方は、その学説の真理である事を、身を 以 ( もっ )て証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました 暁 ( あかつき )には、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が 洩 ( も )れましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。 ……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。 同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。 その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。 ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。 その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら 最早 ( もはや )、取返しの附けようがないであろう。 この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。 ……と同時に、甚だ 得手 ( えて )勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。 つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。 ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学の 中 ( うち )でも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。 ……すなわちその犯罪の 外観 ( アウトライン )と申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。 ……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の 温柔 ( おとな )しい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。 ……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を 繋 ( つな )ぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい 従妹 ( いとこ )と結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の 夜半 ( よなか )過ぎに、その青年が、思いもかけぬ 夢中遊行 ( むちゅうゆうこう )を起しまして、その少女を絞殺してしまいました。 そうしてその少女の 屍体 ( したい )を眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が 何人 ( なんぴと )であるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか 判然 ( わか )らない事件で御座います。 ……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて 該 ( がい )事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。 ……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、唯一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この 一途 ( いっと )よりほかに方法は無い事に相成りました。 それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、 踪跡 ( そうせき )を 晦 ( くら )ましているので御座います。 ……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。 その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。 又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相を 蔽 ( おお )い 晦 ( くら )ましている怪魔人の正体を曝露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。 ……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。 すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人の解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべき或る重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文の 中 ( うち )の、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。 そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。 ……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。 過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事に 就 ( つ )きましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。 …… 然 ( しか )るに……」 ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い 一瞥 ( いちべつ )を私に与えた。 ……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。 その 皺 ( しわ )だらけに 痙攣 ( ひきつ )った横顔を眺めながら、私は煙に捲かれたように茫然となっていた。 今朝から私の周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとして私に、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる 大袈裟 ( おおげさ )に、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……私の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際は私と全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。 すると、そのうちに 咳嗽 ( せき )を収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。 「御免下さい。 疲れますので……」 と云ううちに、やおら 背後 ( うしろ )の 華奢 ( きゃしゃ )な 籐椅子 ( とういす )を振り返って、ソロソロと腰を 卸 ( おろ )したのであったが、その 風付 ( ふうつ )きを見ると私は又、思わず眼を 反 ( そ )らさずにはいられなかった。 初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにも潰れそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。 ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと這入った。 そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、膝小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面に潜む怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。 その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなに 瘠 ( やせ )こけているにしても……その外套の毛皮が如何に薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。 しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。 「……どうも失礼を……然るに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外の私にもよくわかるので御座います。 貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、お 勉 ( つと )めになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。 それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。 ……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところの或る一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持った或る一点が存在しておったので御座います。 ……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかに 居 ( お )ったので御座いましょう。 ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺戟する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張に陥れました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い 夢中遊行 ( むちゅうゆうこう )状態に陥れる事に相成りました。 ……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。 つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。 ……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと 焦燥 ( あせ )りながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。 正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」 「……自我……忘失症……」 「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、或る異状な夢中遊行状態を続けておられたので御座います。 ……もちろんこのような深い夢中遊行状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて 稀有 ( けう )のものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。 たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ 記憶 ( おぼえ )の無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っている 間 ( ま )に、 禿頭 ( とくとう )の大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると 白髪 ( しらが )の老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の 懺悔譚 ( ざんげものがたり )』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の 境界 ( さかい )に迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。 そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、 以前 ( もと )の精神意識に立ち帰ります際には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。 ……すなわち厳密な意味で申しますと、 吾々 ( われわれ )の日常生活の中で、吾々の心理状態が、見るもの聞くものによって刺戟されつつ、引っ切りなしに変化して行く。 そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行でありまして、その心理が変化して行く 刹那 ( せつな )刹那の到る処には、こうした『夢中遊行』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。 ……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生は併せて立証していられるので御座います。 ……ですから、申すまでもなく 貴下 ( あなた )も、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところは唯、時日の問題となっていたので御座います」 若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇を 舐 ( な )めたようであった。 しかし私がこの時に、どんな顔をしていたか私は知らない。 ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明に脅やかされて、高圧電気にかけられたように、全身を 固 ( こわ )ばらせていた。 ……さては今の話の怪事件というのは、 矢張 ( やは )り自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、云い知れぬ恐怖から 滴 ( した )たり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。 その時に若林博士は、その 仄青 ( ほのあお )い 瞳 ( ひとみ )を少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。 「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。 あなたは 最早 ( もはや )、今朝から、完全に、今までの夢中遊行的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。 ……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、 貴下 ( あなた )御自身のお名前を思い出させて差上げるために、 斯様 ( かよう )にお伺いした次第で御座います」 「……ボ……僕の名前を思い出させる……」 こう叫んだ私は、突然、息詰るほどドキッとさせられた。 ……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが私自身ではあるまいか。 ……若林博士が特に、私の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那的な頭のヒラメキに打たれたので……。 しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。 「……さよう。 あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下の御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。 その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何に恐るべきものであるか。 如何なる理由で、如何なる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。 その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。 ……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」 私は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。 思わず座り直して 頓狂 ( とんきょう )な声を出した。 「……何というんですか……僕の名前は……」 私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は 恰 ( あたか )も器械か何ぞのようにピッタリと口を 噤 ( つぐ )んだ。 私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。 後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。 若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。 皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。 ……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の 裡 ( うち )に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。 私の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。 しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。 ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。 すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。 頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、 繊細 ( かぼそ )い声を出した。 「……いけませぬ……。 私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。 そんな名前は記憶せぬと 仰言 ( おっしゃ )れば、それ迄です。 やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」 私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。 「……思い出すことが出来ましょうか」 若林博士はキッパリと答えた。 「お出来になります。 きっとお出来になります。 しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。 つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」 若林博士は 斯様 ( かよう )云い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳で私を見据えた。 私はその瞳の力に 圧 ( お )されて、余儀なく 項垂 ( うなだ )れさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が 判然 ( わか )らないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。 しかし若林博士は、私のそうした気持ちに頓着なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。 「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶が 喚 ( よ )び起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、 如何 ( いかが )で御座いましょうか」 と云ううちに籐椅子の両肱に手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。 私はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。 ……ちっとも構いません。 どうなりと御随意に……という風に……。 しかし心の中では 些 ( すく )なからず 躊躇 ( ちゅうちょ )していた。 否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。 ……今朝から私を呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。 ……私を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。 ……これから見せ付けられるであろう私の過去の記念物というのも、実をいうと、私とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。 ……どこかに潜み隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者…… 其奴 ( そいつ )が描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。 ……といったような、あられもない想像を逞しくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。 その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かに私に一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。 徐 ( おもむ )ろに 背後 ( うしろ )の扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に這入って来た。 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字 髭 ( ひげ )をピンと 生 ( は )やして、白い 詰襟 ( つめえり )の 上衣 ( うわぎ )に黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない 扮装 ( いでたち )をしていた。 四角い黒革の 手提鞄 ( てさげかばん )と、薄汚ない 畳椅子 ( たたみいす )を左右の手に 提 ( ひっさ )げていたが、あとから這入って来た看護婦が、部屋の 中央 ( まんなか )に湯気の立つボール鉢を置くと、その横に活溌な態度で畳椅子を拡げた。 それから黒い手提鞄を椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用の 鋏 ( はさみ )や、ブラシを 葢 ( ふた )の上に 掴 ( つま )み出しながら、私を見てヒョッコリとお辞儀をした。 「ササ、どうぞ」という風に……。 すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、私に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……と私は思った。 だから 素跣足 ( すはだし )のまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、殆ど同時に八字 鬚 ( ひげ )の小男が、白い 布片 ( きれ )をパッと私の 周囲 ( まわり )に引っかけた。 それから熱湯で絞ったタオルを私の頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。 「この前の通りの 刈方 ( かりかた )で、およろしいので……」 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッとしたらしかった。 チラリと私の顔を盗み見たようであったが、間もなく 去 ( さ )り 気 ( げ )ない口調で答えた。 この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。 記憶しておりますか。 あの時の刈方を……」 「ヘイ。 ちょうど丸一個月前の事で、特別の御註文でしたから、まだよく存じております。 まん中を高く致しまして、お顔全体が 温柔 ( おとな )しい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」 「そうそう。 その通りに今度も願います」 「かしこまりました」 そう云う 中 ( うち )にモウ私の頭の上で鋏が鳴出した。 若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。 私は眼を閉じて考え初めた。 私の過去はこうして 兎 ( と )にも 角 ( かく )にもイクラカずつ明るくなって来る。 若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、私が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。 私は大正十五年(それはいつの事だかわからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、 昨日 ( きのう )が昨日まで夢中遊行状態の無我夢中で過して来たものらしい。 そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい 以前 ( まえ )に、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。 その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。 ……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。 しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、 真実 ( ほんとう )に、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。 その……ブーン……以前の事は、私にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。 私はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに 成長 ( おおき )くなったか。 あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。 そんなに 夥 ( おびただ )しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の 空洞 ( がらんどう )をジッと凝視していると、私の 霊魂 ( たましい )は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる 微生物 ( アトム )のように思われて来る。 ……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。 ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。 それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の 襟筋 ( えりすじ )を 剃 ( そ )るべくシャボンの泡を 塗 ( なす )り付けたのであった。 私はガックリと 項垂 ( うなだ )れた。 ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。 それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。 しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。 もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの 詰 ( つま )り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し 演 ( や )っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。 今朝から今まで引き続いて私の 周囲 ( まわり )に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。 どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。 ……私はそう考える 中 ( うち )にハッとして椅子から飛び上った。 ……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。 ……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。 それは 二個 ( ふたつ )の丸い 櫛 ( くし )が、私の頭の上に並んで、息も 吐 ( つ )かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、 一寸 ( ちょっと )の 間 ( ま )にわからなくなってしまった。 ……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された 亡者 ( もうじゃ )みたようになって、グッタリと椅子に 凭 ( も )たれ込んで底も 涯 ( はて )しもないムズ 痒 ( がゆ )さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。 ……もうこうなっては仕方がない。 何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。 前途 ( さき )はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。 「コチラへお 出 ( い )でなさい」 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が 這入 ( はい )って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。 首の 周囲 ( まわり )の白い 布切 ( きれ )は、私の気づかぬうちに理髪師が 取外 ( とりはず )して、扉の外で威勢よくハタイていた。 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと 頁 ( ページ )を伏せて立ち上った。 長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と 咳 ( せき )をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。 顔一面の髪の毛とフケの中から、 辛 ( かろう )じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ 宛 ( ずつ )、向い合って並んでいる。 その廊下の突当りの薄暗い壁の 凹 ( くぼ )みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と 鉄網 ( かなあみ )で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと 唸 ( うな )って、私の眼を醒まさした時計であろう。 どこから手を入れて 螺旋 ( ねじ )をかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の 振子球 ( ふりこだま )を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。 その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。 患者の名札は無い。 私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。 そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。 その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした 鶏頭 ( けいとう )が咲き乱れている真白い砂地で、その又 向 ( むこう )は左右とも、深緑色の松林になっている。 その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。 「……ああ……今は秋だな」 と私は思った。 冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。 そうして右手の 取付 ( とっつ )きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に 内部 ( なか )に這入った。 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。 向うの窓際に在る 石造 ( いしづくり )の 浴槽 ( ゆぶね )から湧出す水蒸気が三方の 硝子 ( ガラス )窓一面にキラキラと 滴 ( した )たり流れていた。 その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと 丸裸体 ( まるはだか )にして、 浴槽 ( ゆぶね )の中に追い込んだ。 そうして 良 ( い )い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の 板片 ( いたぎれ )の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい 石鹸 ( シャボン )とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。 それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて 泡沫 ( あわ )を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、 有無 ( うむ )を云わさず私の両手を引っ立てて、 「コチラですよ」 と金切声で命令しながら、モウ一度、 浴槽 ( ゆぶね )の中へ追い込んだ。 そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、 非道 ( ひど )い目に会わされた看護婦が、三人の 中 ( うち )に 交 ( まじ )っていて、 復讐 ( かたき )を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を 截 ( き )ってもらって、 竹柄 ( たけえ )のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで 身体 ( からだ )中を 拭 ( ぬぐ )い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、 流石 ( さすが )に生れ変ったような気持になってしまった。 こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。 「これとお着換なさい」 と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。 結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの 襯衣 ( シャツ )、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ 編上靴 ( あみあげくつ )なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。 私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その 序 ( ついで )に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。 しかし、そのどれもこれもは、殆ど 仕立卸 ( したておろ )しと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに 昔馴染 ( むかしなじみ )でもあるかのようにシックリと着心地がいい。 ただ上衣の 詰襟 ( つめえり )の新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。 あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には 幾何 ( いくら )這入っているかわからないが、 滑 ( やわ )らかに膨らんだ小さな 蟇口 ( がまぐち )が 触 ( さわ )った。 私は又も狐に 抓 ( つま )まれたようになった。 どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、 生憎 ( あいにく )、 破片 ( かけら )らしいものすら見当らぬ。 その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。 私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い 晒 ( ざら )しの 浴衣 ( ゆかた )を取り 除 ( の )けた。 その下から現われたものは、思いがけない一面の、 巨大 ( おおき )な姿見鏡であった。 私は思わず 背後 ( うしろ )によろめいた。 ……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の 鬚武者 ( ひげむしゃ )で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、 掌 ( てのひら )で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。 眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと 二十歳 ( はたち )かそこいらの青二才としか見えない。 額の丸い、 腮 ( あご )の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。 制服がなければ中学生と思われるかも知れない。 こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。 その時に 背後 ( うしろ )から若林博士が、催促をするように声をかけた。 「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」 私は 冠 ( かむ )りかけていた帽子を慌てて脱いだ。 冷めたい 唾液 ( つば )をグッと 嚥 ( の )み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと 判明 ( わか )った。 若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。 つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。 ……成る程これなら間違いはない。 たしかに私の過去の記念物に相違ない。 ……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら 酬 ( むく )いられなかった。 初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。 その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく 点頭 ( うなず )いた。 「…… 御尤 ( ごもっと )もです。 以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。 次の方法を試みてみますから……。 今度は、きっと思い出されるでしょう……」 私は新らしい編上靴を 穿 ( は )いた足首と、 膝頭 ( ひざがしら )を 固 ( こわ )ばらせつつ、若林博士の背後に 跟随 ( くっつ )いて、 鶏頭 ( けいとう )の咲いた廊下を引返して行った。 そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。 それから大きな 真鍮 ( しんちゅう )の 把手 ( ノッブ )を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。 その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、 「只今、よくお 寝 ( やす )みになっております」 と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして 内部 ( なか )に這入った。 片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の 根方 ( ねかた )に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。 そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。 私は両手で帽子の 庇 ( ひさし )をシッカリと握り締めた。 自分の眼を疑って、二三度パチパチと 瞬 ( まばた )きをした。 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。 その少女は 艶々 ( つやつや )した 夥 ( おびただ )しい 髪毛 ( かみのけ )を、黒い、大きな 花弁 ( はなびら )のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に 蓬々 ( ぼうぼう )と乱していた。 肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい 繃帯 ( ほうたい )で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。 むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い 睫毛 ( まつげ )、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった 二重顎 ( ふたえあご )まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。 ……否。 その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。 すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、 生 ( う )ぶ 毛 ( げ )で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。 しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の 輪廓 ( りんかく )のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。 ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく 淋 ( さび )しい 薔薇 ( ばら )色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。 そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の 神々 ( こうごう )しいこと……。 私は又も、自分の眼を疑いはじめた。 けれども、眼をこすることは愚か、 呼吸 ( いき )も出来ないような気持になって、なおも 瞬 ( またたき )一つせずに、 見惚 ( みと )れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。 それが見る見るうちに大きい露の 珠 ( たま )になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、 微 ( かす )かにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。 「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。 ……あたしは…… 妾 ( あたし )は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。 お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」 それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。 けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の 眥 ( めじり )へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした 両鬢 ( りょうびん )の、すきとおるような 生 ( は )え 際 ( ぎわ )へ消え込んで行くのであった。 しかし、その涙はやがて止まった。 そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、 健康 ( すこやか )な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。 ……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。 そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて 和 ( なご )やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。 そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと 背後 ( うしろ )をふり返った。 私の背後に突立った若林博士は、 最前 ( さっき )からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。 しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その 蝋石 ( ろうせき )のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと 嘗 ( な )めて、今までとはまるで違った、 響 ( ひびき )の無い声を出した。 「……この方の……お名前を……御存じですか」 私は今一度、少女の寝顔を振り返った。 あたりを 憚 ( はばか )るように、ヒッソリと頭を振った。 ……イイエ……チットモ……。 という風に……。 すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で 囁 ( ささや )いた。 「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」 私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく 瞬 ( まばたき )をして見せた。 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう…… といわんばかりに……。 すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。 そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。 極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、 恰 ( あた )かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。 暗示的な、ゆるやかな口調で云った。 「……それでは……申します。 この方は、あなたのタッタ一人のお 従妹 ( いとこ )さんで、あなたと 許嫁 ( いいなずけ )の間柄になっておられる方ですよ」 「……アッ……」 と私は驚きの声を呑んだ。 額 ( ひたい )を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。 自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。 「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」 「……さよう、世にも 稀 ( まれ )な美しいお方です。 しかし間違い御座いませぬ。 本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました 貴方 ( あなた )の、たった一人のお従妹さんです。 その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで 斯様 ( かよう )にお気の毒な生活をしておられますので……」 「……………………」 「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」 若林博士の口調は、私を威圧するかのように 緩 ( ゆる )やかに、 且 ( か )つ荘重であった。 しかし私はもとの通り、狐に 抓 ( つま )まれたように眼を 瞠 ( みは )りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。 ……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。 「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」 「あれは夢を見ていられるのです。 ……今申します通りこの令嬢には最初から 御同胞 ( ごきょうだい )がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが 居 ( お )られたという事実が記録に残っております。 それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」 「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」 といううちに私は声を震わした。 若林博士の顔を見上げながらジリジリと 後退 ( あとずさ )りせずにはおられなかった。 若林博士の 頭脳 ( あたま )が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、 外 ( ほか )から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない…… 況 ( ま )して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。 事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。 依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。 依然として響の無い、切れ切れの声で……。 「……それは……この令嬢が、眼を 醒 ( さま )しておられる間にも、そんな事を云ったり、 為 ( し )たりしておられるから 判明 ( わか )るのです。 ……この髪の奇妙な 結 ( ゆ )い方を御覧なさい。 この結髪のし方は、この令嬢の一千年 前 ( ぜん )の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、 身体 ( からだ )のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。 年齢 ( とし )ごろまでも見違えるくらい成熟された、 優雅 ( みやび )やかな若夫人の姿に見えて来るのです。 …… 尤 ( もっと )も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル 巻 ( まき )にしておられるのですが……」 私は 開 ( あ )いた口が 閉 ( ふさ )がらなかった。 その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを 惘々然 ( ぼうぼうぜん )と見比べない訳に行かなかった。 「……では……では……兄さんと云ったのは……」 「それは 矢張 ( やは )り貴方の、一千年 前 ( ぜん )の御先祖に当るお方の事なのです。 その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる 情景 ( ありさま )を、現在夢に見ておられるのです」 「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」 と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。 若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。 「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」 と云いさして若林博士もピッタリと口を 噤 ( つぐ )んだ。 二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。 けれども 最早 ( もう )、遅かった。 私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。 その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度 瞬 ( まばたき )をした。 そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。 その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。 それに 連 ( つ )れて頬の色が 俄 ( にわ )かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、 「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」 と 魂消 ( たまぎ )るように叫びつつ身を起した。 素跣足 ( すはだし )のまま寝台から飛び降りて、 裾 ( すそ )もあらわに私に 縋 ( すが )り付こうとした。 私は仰天した。 無意識の 裡 ( うち )にその手を払い 除 ( の )けた。 思わず二三歩飛び 退 ( の )いて 睨 ( にら )み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。 両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。 顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を 凝視 ( みつ )めながら、よろよろと、うしろに 退 ( さが )って寝台の上に両手を 支 ( つ )いた。 唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。 グッタリとうなだれて、石の床の上に 崩折 ( くずお )れ座りつつ、白い患者服の 袖 ( そで )を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。 私はいよいよ面喰った。 顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ 嗄 ( が )れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。 若林博士は……しかし顔の 筋肉 ( すじ )一つ動かさなかった。 呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を 屈 ( かが )めた。 耳に口を当てるようにして問うた。 「思い出されましたか。 この方のお名前を……そうして 貴女 ( あなた )のお名前も……」 この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。 けれども少女は返事をしなかった。 ただ、ちょっとの 間 ( ま )、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。 「……それではこの方が、貴方とお 許嫁 ( いいなずけ )になっておられた、あのお兄さまということだけは 記憶 ( おぼ )えておいでになるのですね」 少女はうなずいた。 そうして前よりも一層 烈 ( はげ )しい、高い声で泣き出した。 それは、何も知らずに聞いていても、 真 ( まこと )に悲痛を極めた、 腸 ( はらわた )を絞るような声であった。 自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして 折角 ( せっかく )その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、 素気 ( そっけ )なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその 嗄 ( か )れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。 今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは 全然 ( まるで )違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に 陥 ( おとしい )れられてしまったのであった。 この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ 堪 ( た )まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい 背面 ( うしろ )姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに 苛責 ( さい )なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。 気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。 「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう 直 ( じ )きに思い出されます。 この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。 しかし、もう間もなく思い出されます。 そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。 そうして御一緒に退院なさるでしょう。 ……さ……静かにおやすみなさい。 時期の来るのをお待ちなさい。 それは決して遠いことではありませんから……」 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。 ……驚いて、弱って、 暗涙 ( あんるい )を拭い拭い立ち 竦 ( すく )んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。 廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。 その 歔欷 ( すす )り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと 吐 ( つ )きながら気を落ち付けた。 とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。 ……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁 一重 ( ひとえ )を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。 ……しかもその美少女は、私のタッタ一人の 従妹 ( いとこ )で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお 婿 ( むこ )さんであった私」というような 奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。 ……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。 ……それを私から払い 除 ( の )けられたために、床の上へ 崩折 ( くずお )れて、 腸 ( はらわた )を絞るほど歎き悲しんでいる…… というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に 唖 ( おし )にでもなったかのように、ピッタリと口を 噤 ( つぐ )んでしまった。 そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で 胴衣 ( チョッキ )のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、 掌 ( てのひら )の上に載せた。 それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。 身体 ( からだ )の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。 しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。 その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。 小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、 弛 ( ゆる )めたりしている姿を見ると、 恰 ( あたか )もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。 ……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に 悶 ( もだ )えている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。 だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。 ……しかも……私が、何だかこの博士から 小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。 何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。 そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。 何も知らない私を 捉 ( つか )まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って 紹介 ( ひきあわ )せたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ 可怪 ( おか )しいようである。 この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の 身体 ( からだ )に合せて仕立てたものではないかしらん。 又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。 この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。 ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの 勿体 ( もったい )らしい錯覚に 陥 ( おとしい )れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。 そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。 なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。 ……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。 ……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。 そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの 木阿弥 ( もくあみ )のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。 何等の責任も、心配もない……。 けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。 すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、 左掌 ( ひだりて )の上の懐中時計を、やおら 旧 ( もと )のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。 「いかがです。 お疲れになりませんか」 私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。 「いいえ。 ちっとも……」 「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」 私は今一度、何でもなくうなずいた。 どうでもなれ……という気持で……。 それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。 「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました 正木敬之 ( まさきけいし )先生が、御臨終の当日まで 居 ( お )られました部屋に御案内いたしましょう。 そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。 そうして貴方と、あの令嬢に 絡 ( から )まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。 しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。 ……どこへでも連れて行くがいい。 どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。 同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。 すると若林博士も満足げにうなずいた。 「……では……こちらへどうぞ……」 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキ 塗 ( ぬり )、二階建の木造洋館であった。 その 中央 ( まんなか )を貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが多分まだ朝が早いせいであったろう。 その扉の上の 明窓 ( あかりまど )から洩れ込んで来る、 仄青 ( ほのあお )い光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつもの室が並んでいる。 その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。 背後 ( うしろ )を振り返って私を招き入れると、謹しみ返った態度で 外套 ( がいとう )を脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。 だから私もそれに 倣 ( なら )って、 霜降 ( しもふり )のオーバーと角帽をかけ並べた。 私たちの靴の 痕跡 ( あと )が、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリに 蔽 ( おお )われているらしい。 それはステキに広い、明るい部屋であった。 北と、西と、南の三方に、四ツ 宛 ( ずつ )並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝で 蔽 ( おお )われているが、南側に並んだ四ツの窓は、何も 遮 ( さえぎ )るものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のように 眩 ( まぶ )しく流れ込んでいる。 その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとした私の制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。 同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。 「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました 斎藤寿八 ( さいとうじゅはち )先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、 若 ( もし )くは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものが 尠 ( すくな )くありませぬ。 ところがその斎藤先生が他界されました 後 ( のち )、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な 煖炉 ( ストーブ )まで取付けられたものです。 しかも、それが総長の許可も受けず、正規の 届 ( とどけ )も出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで 届書 ( とどけしょ )を出して正規の手続きをしてもらうように、言葉を 卑 ( ひく )うして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を云われたそうです。 「なあに……そんなに心配するがものはないよ。 ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。 総長にそう云っといてくれ給え……というのはコンナ 理由 ( わけ )なんだ。 聞き給え。 ……何を隠そう、かく云う 吾輩 ( わがはい )自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。 そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。 ……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。 とりあえずこんな参考材料と 一所 ( いっしょ )に、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。 ……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。 この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手を挙げて賛成して御座ると思うんだがね……」 と云って大笑されましたので、 流石 ( さすが )老練の塚江事務官も 煙 ( けむ )に 捲 ( まか )れたまま 引退 ( ひきさが )ったものだそうです」 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも私の 度胆 ( どぎも )を抜くのには充分であった。 今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの 素破 ( すば )らしさが、こうした何でもない 諧謔 ( かいぎゃく )の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一 刹那 ( せつな )に、私は思わずゾッとさせられたのであった。 世間一般が 大切 ( だいじ )がる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の 辛辣 ( しんらつ )、偉大さが、私にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、私は唯呆然として 開 ( あ )いた口が 塞 ( ふさ )がらなくなるばかりであった。 しかし若林博士は、例によって、そうした私の驚きとは無関係に言葉を続けて行った。 「……ところで、 貴方 ( あなた )をこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは 他事 ( ほか )でも御座いませぬ。 只今も 階下 ( した )の七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意を惹くかという事を、試験させて頂きたいのです。 これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかに喚び起すに違いないと考えられるので御座います。 ……正木先生は 曾 ( かつ )て、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。 何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶を喚び起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものに就て順々に御質問なすって御覧なさい。 あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。 それが貴方の過去の御記憶を喚び起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく 一瀉千里 ( いっしゃせんり )に、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。 恰 ( あたか )も大人が 小児 ( こども )に云って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちに私は、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。 私が 先刻 ( さっき )から感じていた……何もかも 出鱈目 ( でたらめ )ではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。 若林博士は 流石 ( さすが )に権威ある法医学者であった。 私を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。 最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘の 隙間 ( すきま )もなく私の心理を取り囲んで、私自身の手で直接に、私自身を彼女の恋人として指ささせようとしている。 その確信の底深さ……その計劃の冷静さ……周到さ……。 ……それならば 先刻 ( さっき )から見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり 真実 ( ほんとう )に、私の身の上に関係した事だったのか知らん。 そうしてあの少女は、やはり私の正当な 従妹 ( いとこ )で、同時に 許嫁 ( いいなずけ )だったのか知らん……。 ……もしそうとすれば私は、 否 ( いや )でも 応 ( おう )でも彼女のために、私自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。 そうして私は、それによって過去の記憶を喚び起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。 ……ああ。 「自分の過去」を「 狂人 ( きちがい )病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁でなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙な私の立場であろう。 何という恥かしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。 こんな風に考えが変って来た私は、われ知らず 額 ( ひたい )にニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチで拭いながら、今一度部屋の 内部 ( なか )を恐る恐る見廻しはじめた。 思いもかけない過去の私が、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ 硝子 ( ガラス )戸棚の行列が 立塞 ( たちふさ )がっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリを冠った一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二 間 ( けん )ぐらいに見える大 卓子 ( テーブル )が、中程を二つの肘掛廻転椅子に挟まれながら横たわっている。 その大卓子の表面に張詰めてある緑色の 羅紗 ( らしゃ )は、やはり薄いホコリを 被 ( かぶ )ったまま、南側の窓からさし込む光線を 眩 ( まぶ )しく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。 又、その緑色の反射の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の 綴込 ( とじこ )みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子の表面と同様の灰色のホコリが一面に 蔽 ( おお )い 被 ( かぶ )さっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。 しかもその前には瀬戸物の赤い 達磨 ( だるま )の灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の 欠伸 ( あくび )を続けているのが、何だか 故意 ( わざ )と、そうした位置に置いてあるかのようで、妙に私の気にかかるのであった。 その赤い 達磨 ( だるま )の真正面に 衝 ( つ )き立っている東側の 壁面 ( かべ )は一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽に 跼 ( かが )まれる位の大 暖炉 ( ストーブ )が取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。 その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計が懸かっているが、セコンドの音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。 その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーが懸かっている。 その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、 清々 ( すがすが )しい朝の光りの中に、 或 ( あるい )は 眩 ( まぶ )しく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な 静寂 ( しじま )を作っている光景を眺めまわしているうちに、私は自から襟を正したい気持ちになって来た。 事実……私はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。 最前から持っていたような一種の 投 ( なげ )やりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞいうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟のカラを両手で直した。 それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。 私はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。 若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に 治癒 ( なお )りましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。 それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。 それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の 綴込 ( つづりこみ )で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ 穢 ( よご )れてボロボロになりかけている。 硝子の破れ目から 怪我 ( けが )をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに 赤 ( あか )インキの一頁大の 亜剌比亜 ( アラビア )数字で、 、 、 、 、 と番号が打ってある。 その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。 巻頭歌 胎児よ胎児よ何故躍る 母親の 心がわかっておそろしいのか その次のページに黒インキのゴジック体で『 ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。 何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。 「……これは何ですか先生……この ドグラ・マグラというのは……」 若林博士は今までになく気軽そうに、私の 背後 ( うしろ )からうなずいた。 「ハイ。 それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを 表現 ( あらわ )した珍奇な、面白い製作の一つです。 当科 ( ここ )の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気 呵成 ( かせい )に書上げて、私の手許に提出したものですが……」 「若い大学生が……」 「そうです」 「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」 「イヤ。 そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」 「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」 「さようで……」 「論文じゃないのですか……」 「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。 つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。 そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、飜弄するために書いた無意味な漫文とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容が 亦 ( また )非常に変っておりまして科学趣味、猟奇趣味、 色情表現 ( エロチシズム )、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと 流石 ( さすが )に、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に 横溢 ( おういつ )しております。 ……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を 異 ( こと )にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。 世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」 若林博士は私にこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。 その熱心振りが異様だったので私は思わず眼をパチパチさせた。 「ヘエ。 そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」 「……それは 斯様 ( かよう )な訳です。 その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状を呈しましたものらしく、自分自身で或る幻覚錯覚に 囚 ( とら )われた一つの驚くべき惨劇を演出しました。 そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。 ……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにも拘わらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。 つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に 幽閉 ( とじこ )められて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」 「……ヘエ。 先生にはソンナ 記憶 ( おぼえ )が、お在りになるのですか」 若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑の 皺 ( しわ )が寄った。 それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。 「そんな事は絶対に御座いませぬ」 「それじゃ全部が 出鱈目 ( でたらめ )なのですね」 「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」 「ヘエ。 妙ですね。 そんな事があり得るでしょうか」 「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」 「イヤ。 読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」 「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、少くとも専門家にとっては面白いという形容では 追付 ( おいつ )かない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。 専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。 現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。 そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。 甚しいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用が 措 ( お )けなくなったから自殺すると云って鉄道往生をした者が一人居る位です」 「ヘエ。 何だかモノスゴイ話ですね。 正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。 よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」 「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。 しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。 ……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の 所謂 ( いわゆる )、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。 その意味で、 斯様 ( かよう )な標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」 「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」 「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」 「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」 「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。 ……と申します理由は外でも御座いませぬ。 この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な 謎語 ( なぞ )を解決する鍵が隠されているのではないか。 このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。 ……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、 流石 ( さすが )に疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。 ……といって 斯様 ( かよう )な不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、 計 ( はか )らず面白い事に気付きました。 元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧 欧羅巴 ( ヨーロッパ )系統の 訛 ( なまり )言葉が、方言として多数に残っているようですから、 或 ( あるい )は、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。 ……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは 切支丹伴天連 ( キリシタンバテレン )の使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。 語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、 強 ( し )いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『 堂廻目眩 ( どうめぐりめぐらみ )』『 戸惑面喰 ( とまどいめんくらい )』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。 ……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」 「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」 「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。 ……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に 記述 ( しる )されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。 たとえば、 ……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類…… ……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした 幻魔作用 ( ドグラ・マグラ )の印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へと 逐 ( お )いかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。 ……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、或る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。 しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じ唯一つの 時鐘 ( じしょう )の音であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程 左様 ( さよう )にこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。 ……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」 といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。 しかし私は慌てて押し止めた。 「イヤ。 モウ結構です」 と云ううちに両手を烈しく左右に振った。 若林博士の説明を聞いただけで、 最早 ( もはや )私のアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に…… ……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。 「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。 ……現在の私が直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。 ……こんな話は 最早 ( もはや )、これっきり忘れてしまうに限る……。 ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。 そうして戸棚の 出外 ( ではず )れの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。 私は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。 こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、私に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしい 覗 ( のぞ )きまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。 却 ( かえ )って、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシと私の神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。 私はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものに囚われながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大 卓子 ( テーブル )の片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。 又もニジミ出して来る額の 生汗 ( なまあせ )をハンカチで拭いた。 そうして急に靴の 踵 ( かかと )で半回転をして西の方に背中を向けた。 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大 卓子 ( テーブル )越しに、私の真正面まで 辷 ( すべ )って来てピッタリと停止した。 さながらにその額面と向い合うべく、私が運命附けられていたかのように……。 私は前こごみになっていた 身体 ( からだ )をグッと引き伸ばした。 そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に 見惚 ( みと )れた。 その図は、西洋の 火焙 ( ひあぶ )りか何かの光景らしかった。 三本並んだ太い 生木 ( なまき )の柱の中央に、白髪、 白髯 ( はくぜん )の神々しい老人が、高々と 括 ( くく )り付けられている。 その右に、 瘠 ( や )せこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに 丸裸体 ( まるはだか )のまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。 その 酷 ( むご )たらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の 輿 ( こし )に乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた 眷族 ( けんぞく )や、臣下らしいものに取巻かれつつも 如何 ( いか )にも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。 それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな 掌 ( てのひら )で小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の 頭巾 ( ずきん )を冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、 撞木杖 ( しゅもくづえ )を突いて立ち 佇 ( とど )まっているが、如何にも手柄顔に 火刑柱 ( ひあぶりばしら )の三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、 粗 ( まば )らな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。 「これは何の絵ですか」 私はその画面を指さして振り返った。 若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。 「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。 精神病者を魔者に 憑 ( つ )かれたものとして、 片端 ( かたっぱし )から 焚 ( や )き殺している光景を描きあらわしたもので、中央に 居 ( お )りまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼 卜筮者 ( うらないしゃ )であった 巫女婆 ( みこばばあ )です。 昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が 柳河 ( やながわ )の 骨董店 ( こっとうてん )から買って来られたというお話です。 筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」 「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」 「さようさよう。 精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、 寧 ( むし )ろ徹底した治療法というべきでしょう」 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが 籠 ( こも )っていたので……。 私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。 「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。 「……いや……必ずしもそうでないのです。 或は 一 ( ひ )と思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。 そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。 それは額の 禿 ( は )げ上った、 胡麻塩髯 ( ごましおひげ )を長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に 湛 ( たた )えている。 私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。 「この写真はどなたですか」 若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、 著 ( いちじる )しく柔らいだように見えた。 何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。 「……ハイ……その写真ですか。 ハイ……それは斎藤寿八先生です。 最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」 そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な 歎息 ( ためいき )をしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。 「……やっとお眼に止まりましたね」 「……エッ……」 と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。 そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。 しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。 「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。 何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」 こう云われると同時に私はハッと気が付いた。 この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。 そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。 そうして心持ち 俛首 ( うなだ )れながら若林博士の言葉に耳を傾けた。 「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。 貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人 焚殺 ( ふんさつ )の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。 何故かと申しますと、 彼 ( か )の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。 あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。 ……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。 そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」 「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」 と私は 独言 ( ひとりごと )のように 呟 ( つぶや )いた。 又も底知れぬ恐怖に 囚 ( とら )われつつ……。 しかし若林博士は平気でうなずいた。 「……行われております。 遺憾なく昔の通りに行われております。 焚 ( や )き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。 今日只今でも……」 「……そ……それはあんまり……」 と云いさして私は言葉を 嚥 ( の )み込んだ。 あんまり 非道 ( ひど )い云い方だと思ったので……。 しかし若林博士は動じなかった。 私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。 「あんまりではありませぬ。 儼然 ( げんぜん )たる事実に相違ないのです。 その事実は 追々 ( おいおい )と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を 樹 ( た )てられる事になったのです。 その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、 申分 ( もうしぶん )なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」 私は又も呆然となった。 開 ( あ )いた口が 塞 ( ふさ )がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。 そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に 囚 ( とら )われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。 しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。 「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。 すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」 「エッ。 僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」 「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」 「……二十年……」 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、 咽喉 ( のど )の奥に引返した。 その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の 頸筋 ( くび )に捲き付いて来るような気がしたので……。 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。 「そうです。 正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」 「……まだ生れない僕のために……」 「さよう。 こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。 正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。 貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました 後 ( のち )に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。 その上で前後の事実を 照合 ( てらしあわ )されましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、 御首肯 ( ごしゅこう )出来る事と信じます。 ……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」 若林博士は、こう説明しつつ大 卓子 ( テーブル )の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。 私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を 卸 ( おろ )すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。 余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、 唾液 ( つば )を呑込み呑込みしているばかりであった。 その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。 最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、 露 ( あら )わに細長く折れ曲っている間へ、長い 頸部 ( くび )と、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。 そうしてそのまん中に、顔だけが 旧 ( もと )の通りの大きさで 据 ( す )わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。 たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大 蜘蛛 ( ぐも )が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を 餌食 ( えさ )にすべく、モーニングコートを着て 匐 ( は )い出して来たような感じに変ってしまったのであった。 私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に 居住居 ( いずまい )を正した。 するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと 塵 ( ごみ )を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。 「……ところでその正木先生が、生涯を 賭 ( と )して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますに 就 ( つい )ては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。 正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。 そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。 しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。 取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。 学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、 頗 ( すこぶ )る呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく 他人 ( ひと )に貸してやったりしておられたものでした。 そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べて 廻 ( ま )わったりしておられたような事でした。 …… 尤 ( もっと )もこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。 ……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。 ……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに 驚目駭心 ( きょうもくがいしん )させられているような次第で御座います。 いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。 ……と申しますのは 斯様 ( かよう )な次第で御座います。 元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。 嘗 ( かつ )て、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。 「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく 花柳 ( かりゅう )の 巷 ( ちまた )に出入したり、賭博に 耽 ( ふけ )ったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。 そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を 弄 ( もてあそ )ぶことでもない。 学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。 これは日本の学界の一大弊害と思う」 と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。 ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を 窺 ( うかが )うのに十分で御座いましょう。 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初の 中 ( うち )は、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。
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