私たち成人の身体は60兆個もの細胞から成り立っています。 細胞は生命の基本単位であり、栄養や酸素の供給がうまくいかなくなれば、その細胞は受け持っている働きが果たせなくなり、はなはだしい場合には死滅してしまいます。 全身の健康を考える場合にも、細胞レベルで考察することは不可欠です。 ビタミンB群のひとつであるパントテン酸の発見者である故ロジャー・ウイリアムス博士は、名著、『健康になるための栄養学早分かり』(中央公論社)で、「細胞の生命を維持するためには、少なくとも18種類のミネラル、20種類のビタミン、8種類のアミノ酸が一定量揃い、相互に支え合っている状態で細胞外液に溶け込んでいることが必要である。 」と述べており、必須栄養素は鎖で出来た首飾りのようなもので、と呼びました。 一ヶ所でも細いところがあれば、容易に切れてしまうことが想像できます。 この46種類の栄養素は、どれかがひとつ欠けたとしても鎖としての働きは失われ、細胞の病変につながります。 逆の見方をすると、細胞の健康度、元気度はその揃い方によって、極めて快調な状態から、死にいたるまで無限ともいえる様々な段階があるといえます。 アメリカでは、この生体内に本来あるべき分子をそろえ、正常て病気に対処しようという考え方が、栄養学から医学の分野にその実戦の場をひろげ、「ニュートリション・セラピー」の名のもとに成果をあげています。 我が国においてニュートリション・セラピーは、「正常分子栄養学」とか「分子矯正医学(Ortho-Molecular Medicine)」などと訳されています。 1970年代はじめにライナス・ポーリングが提唱した分子矯正医学は「通常体内にある分子を、各人の体が正常に機能するよう正しい分子濃度に調節する医学」ということを意味します。 細胞の栄養環境は、現実には必要な養分がいつも揃っているとはかぎりません。 現代人の9割もの人が病気とまではいえないまでも、何らかの症状を自覚しており、病気とは診断されないけれど、健康とはいいがたい状況にあるというのは、むしろ何かが不足している状態であることを示しているといえるのです。 そこで、これらの問題を解決するうえでポイントになるのが毛髪分析による生体内のミネラルチェックです。 分析結果は身体内部の状況を語ります。 私たちの毛髪に含まれている、鉄や銅といったミネラルの量は、毛髪を伸ばす栄養を与えられている血液中に含まれている鉄や銅などのミネラルの量と相関性がありますから、毛髪のなかに各ミネラルがどの程度含まれているかを正確に調べて過不足を発見し、その人の栄養(ミネラル)の摂り方を修正するうえでの指針にしようという考え方と技術です。 身体の中でDNAの生合成を最も活発に行っているのが毛根で、しかも金属と結合しやすいシステム基が多いことから「毛髪は金属の排泄器官のひとつ」と呼ばれています。 また、Cr、Coなどの検出物質の濃度も毛髪では濃く、血中濃度と比較しても約10〜100倍。 ちなみに、尿では極く微量しか排泄されません。 毛髪以外の生体試料としては一般に血清が用いられていますが、どちらにも長所、短所はあります。 たとえば1821年にフランスで亡くなった、かのナポレオン・ボナパルトの遺髪から高濃度のヒ素(有毒ミネラル)が分析されました。 このことから、ヒ素中毒で狂い死したことが推定されます。 ヒ素の毒を長期にわたってもられて殺されたのかもしれません。 アメリカは強い軍人をつくるという目的から、ベトナム戦争の戦死者や交通事故で死亡した人を素材にミネラルの研究が非常に進んでいます。 その研究成果の平和利用のひとつがオリンピックで勝つための選手をつくるミネラルの研究です。 『毛髪分析』はこのような理由もあってアメリカで発達し、病気にならないような栄養(ミネラル)の摂り方の研究に応用され、いまや不可欠な方法となっています。 古来、東洋医学の分野でも毛髪は血液の余り(血余)であるといわれてきましたが、毛髪は1ヵ月間に約1センチ伸びますから、はえぎわから約1センチを切って調べれば、その人の血管のなかをどのミネラルがどれくらいの量、過去1ヵ月間に流れていたのかという痕跡が残っているかがわかるのです。 ただ、実に微量であるため、コンピューターを使った特殊な機器が必要ですが、現代の科学技術はそのわずかなミネラルも正確に測定することができるようになっています。 また、その分析値が何を表しているのかを統計学的手法を用いて、かなりの確率で正確な推論をすることができます。 例えばその人の毛髪を分析してみて、銅とクロムが極端に少なければ、その人はやがて動脈硬化を起こし、コレステロールがたまって心臓発作を起こして死んでしまう可能性が高いということがいえます。 もちろん、絶対にそうなるということは毛髪のミネラルだけでは断言できない部分もありますが、少なくとも何年も前から、他のどの検査よりも早い時期にその危険性を指摘することができるのです。 そこで対策としては、まずは銅とクロムを多く摂取することがあげられます。 ただミネラルというのはビタミンなどに比べてその消化・吸収において難しい面があり、単純にそれだけを摂取したからといって必ずしも吸収されて生体内のミネラルの量が増加するとは限りません。 ミネラルの吸収を助長する工夫が必要です。 これが分子矯正医学の奥深い部分なのですが、とりあえずは銅とクロムを多く摂取することで、生体内のミネラルの量が健康な人と同じレベルになれば、銅とクロムの不足による心臓発作による突然死の危険性は先にのばされたことになります。 そのときにどんな色の光をどのくらいの強さで出したかを、スペクトル分析してコンピューターを使って測定すると、その毛髪にどのミネラルがどのくらい含まれていたのかを正確に測定できます。 (3)毛髪分析で測定できること 『毛髪分析』という手法は、元来地域別、職業集団別に栄養素としてのミネラル、あるいは環境汚染としてのミネラルが人体にどの程度入り込んでいるかを、集団的に比較するためのスクリーニングテストとして用いられてきた経過があり、克山病(くしゃんびょう)の発見、水俣病やイタイイタイ病の原因追求にも大きく役立ちました。 毛髪に含まれるミネラルの定量分析の略称という意味では既に35年以上の歴史がありますが、現在『毛髪分析』とは定量分析だけでなく、その結果にもとづいた診断までを意味するようになっています。 現在の毛髪分析で診断できる代表的な病気は、有毒金属の中毒と必須ミネラルの欠乏による代謝異常疾患の中でも次のようなものがあげられます。 1.骨の脱灰・・・本格的な骨粗鬆症になったり、骨折する前にその危険性が予知できます。 関連としてストレスの過多も推定できます。 2.糖尿病の可能性・・・糖代謝異常、ブドウ糖耐性低下など。 3.近い将来における心臓病の可能性・・・冠動脈異常など。 4.ミネラルの吸収不全 アメリカ上院栄養問題特別委員会の委員でもあったレッサー博士は「有毒金属は毛髪分析で正確に測定することができる。 有毒金属を測定することに、毛髪分析は主要な直接的価値をもっている。 」と述べています。 ビタミンの発見により、脚気などに代表される欠乏症の克服、ウィリアムス博士が唱えた「生命の鎖」理論、DNA二重螺旋構造の発見、メガ・ビタミン主義など20世紀に発展した生化学の大きなうねりの中から、『分子栄養学』という概念が生まれました。 分子栄養学とは分子生物学の視点に立ち、ヒトの生命維持の主役になる細胞の代謝にはどのような栄養が必要なのかということを探る学問です。 そして、その延長線上にあるのが、実践法としての『毛髪分析』を用いた『分子矯正医学』です。 この学問は、いま日進月歩の勢いにあるのですが、特に1980年代から90年代のはじめにかけて従来の定説を塗り替える、極めて重要な研究の発表が相次ぎました。 このように、健康獲得において不可欠な情報源である『毛髪分析』を、現在の適応範囲である疾患について適切に応用し、また適応範囲を拡げていくためには、この学問に関する知識と最新情報を的確に把握しておくことが非常に重要です。 現在、我が国においても数多くの健康補助食品が販売されています。 しかし合成ビタミンの氾濫、キーとなるミネラルの摂り違いや摂り方の間違いなど、知識不足による様々な誤解から、とても正しく用いられているとはいい難い状況にあり、結果として症状の改善がみられないばかりか、かえって不調が増したという例も少なくないようです。 ビタミンCのことで非常に有名な、ノーベル賞受賞者のライナス・ポーリング博士が主張されていたように「正しく理解され、かつ正しく用いられ」れば、通常の療法では難病といわれる症状までもが解決できるのではないでしょうか。 (4)どのくらい髪の毛をきるの? 分析のためには、後頭部の頭皮から3〜4センチ以内の毛が0. 25グラム以上必要です。 切る髪の毛の本数は増えますが、頭皮から1センチ以内でも、合計で0. 25グラム以上あれば結構です。 頭髪が必要量摂れなかったり、不適当な頭髪であったり、前回の分析の結果、有毒ミネラルが極めて高い値が検出され、確認のために更に調べたい場合などは、陰毛による分析をお勧めします。 パーマやヘアダイなどの処置をしてある頭髪は、検出結果が実際とは異なってしまうため不適です。 新しい髪の毛が生えてくるのをしばらく待って、その部分だけで必要量を集めてください。 またフケどめシャンプーを使用している場合は商品名を確認し、袋に書いてください。 25グラムは付属の簡易紙製はかりを用いて、シーソーの原理で簡単にはかれます。 袋に入れていない状態で、つりあいがとれたところから更に毛髪を乗せて下まで落ちれば、0. 25グラム以上あることになります。 この必要量の確保は大変重要で、不足している場合はアメリカからキャンセルされてきます。 25グラム以上確保できたら、専用のビニール袋に入れてお送りください。 袋の白い部分にボールペンで、先に姓、後で名の順番で氏名をローマ字で書き、その横に、例えば47才の人は47Yというように、年齢を算用数字で書いて、そのあとにYと書いてください。 その横に男性は(M)、女性は(F)と書いてください。 更に陰毛の場合はその下に(P)と書いてください。 3週間ほどで、日本語のグラフ、解説書、栄養改善の具体的方法など、毛髪分析の結果にもとづいたウンデンストック博士によるアドバイスが届きます。 当院では、さらにデータにリンケージされた資料てんこもりでお渡ししています。
次の蛹 さなぎ は成虫の大まかな外部形態だけが形成された鋳型である その内部では一部の神経、呼吸器系以外の組織はドロドロに溶解している。 蛹が震動などのショックで容易に死亡するのは、このためである。 セクロピアサン(ヤママユガ科)を使って研究をはじめたウィリアムズ博士は、やがて変態を指令するものがこの、昆虫の頭のなかにあることを発見した。 実験的にサナギを前後に切り離してみたところ、前半部だけが発達して半分のガが出来、後半部はサナギのまま残ったのである。 博士はさらに研究をすすめて、変態を制御している物質は何なのかということを、発見しようとつとめた。 この実験によって、2つのたがいに関連したホルモン分泌の中心が、1つは脳に、他の1つは頭部に接近した胸のなかにあることがわかった。 さらに実験をすすめて、温度を高めると脳ホルモンの分泌がはじまって、休眠中のサナギが変態を起こすことも明らかになった。 その温度は自然界でいえば、春の最初の暖かい日にあてはまるものだった。 比較のため彼はまったく同じ年齢の4匹のサナギを使った。 このような実験結果からウィリアムズ博士は、サナギの傷は変態する前に、回復したにちがいないと結論をくだした。 しかし、プラスティック管内で発達した弱い組織はすぐに切れ、ガは地に落ちて死んでしまった…… (合掌) 参考文献.
次の歴史の中のこの日:1893年7月9日 医学の重要な一歩は、1893年7月9日にジェームズ・コニッシュが胸に刺された結果起こったものです。 医師、ダニエル・ヘイル・ウィリアムスと名付けられたシカゴのアフリカ系米国人医師が、心膜彼の心の周りに)。 ウィリアムズ博士は、1856年1月18日にペンシルバニア州ホルラスズバーグで生まれ、黒い理髪師の息子とスコット・アイルランドの女性の息子でした。 彼は理髪師として働いた後、医学に興味を持ち、ヘンリー・パーマー医師に2年間弟子入りしました。 彼はその後、ノースウェスタン大学の医学学校に通って、1883年に卒業したときにシカゴの最初のアフリカ系アメリカ人の医師になった。 ウィリアムズが練習を始めた時、シカゴには黒人医師が3人しかいなかった。 彼はすぐに高度に熟練した外科医として優れた評判を築きました。 1889年までに、イリノイ州保健委員会に任命され、病院の規則と医療基準を扱った。 ウィリアムズ博士は、医療従事者のアフリカ系アメリカ人が利用できる限られた機会を鋭く認識していました。 さらに、シカゴには1万5000人の黒人が住んでいましたが、市内の医療機関のほとんどが彼らにケアを提供する意思がありませんでした。 Emma Reynoldsという若い黒人女性が彼女に申し込んだすべての看護学校への入学を拒否されたと言ったとき、彼は行動に拍車をかけた。 ウィリアムズ博士は、著名なシカゴ居住者の助力を得て、同国初のアフリカ系アメリカ人病院であるプロビデント病院を開設しました。 黒人と白人の両方の医師がプロビデントで雇用され、良質の「色盲」ケアはウィリアムズ博士の使命の声明であった。 看護学生は忘れられていませんでした。 フリードマン看護大学院は1894年にワシントンD. に設立されました。 エマ・レイノルズは初の卒業生クラスの一員でした。 1893年7月9日、James Cornishという若者がプロビデント病院に胸骨に刺すような怪我を負わせた。 彼の状態が夜間にかなり悪化した後、彼を開いてコルニッシュを内部の出血から救うために何かができるかどうかを確かめる決定が下された。 ウィリアムズ博士が見いだしたのは、コーンウォールの刺し傷の1つが心膜(心臓の周囲の裏地)を穿孔し、別のものが血管を突き刺していたことでした。 これは通常、この時点で死刑判決を受けていたが、ウィリアムズはこれらの怪我の両方を縫合して出血を止め、コルニッシュを封鎖した。 彼は世界で2番目に成功した心膜手術を達成しました。 (最初のものは、1891年9月6日にDr. Henry Daltonによって行われました. Daltonも針とカテーテル糸で裂けた心膜を縫合しました。 ウィリアムズ博士の仕事のように、これは拍動する心臓に近いので扱いにくいものでした。 )James Cornishは負傷から回復し、さらに20年ほど生きました。 ウィリアムズ博士は、1902年に患者の脾臓を縫合することに成功しました。 世紀の変わり目に、彼は米国の2つのアフリカ系アメリカ人医学学校の1つであるテネシー州ナッシュビルのMeharry Medical Collegeで客員教授になりました。 彼は、黒人の医師が地域の指導者になり、病院を見つけることを奨励し、アフリカ系アメリカ人の死亡率を低下させると確信していた。 ウィリアムズ博士が死亡した後、彼はMeharry Medical College、Howard University、色んな人々の進歩のための協会、黒人学生のための医学教育の提供を手伝った多くの人々を含む、彼の一生の間サポートした多くの原因に多大な寄付をしました。 ボーナスの事実:• 最初の成功した心臓手術は1896年にドイツのDr. Ludwig Rehnによって行われました。 彼の患者は心臓の右心室に刺し傷を負っていましたが、手術中に鼓動していたにもかかわらず修復できました。 1895年には誰もが心臓手術をやってみることに迷っていたのは1年前のことでした。 これはAxel Cappelenが現在Osloで行っています。 今回も冠動脈に刺されていた。 Cappelen博士は問題を解決することができ、手術後に患者はいくらか回復したが、約1日後に手術の3日後に感染の徴候が見られ始め、死亡した。
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