門田 隆 将。 汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語― 門田 隆将:一般書

週刊ポストの韓国ヘイトを百田尚樹、門田隆将、ネトウヨが全面擁護! 安倍政権批判を「ヘイト」と攻撃し人種差別を「表現の自由」という噴飯|LITERA/リテラ

門田 隆 将

経歴 [ ] 出身。 、卒業。 1982年4月、入社。 『』に配属され、記者、デスクを経て編集次長に就任。 政治、経済、歴史、事件など、さまざまな分野で同誌の中核記事を担当する。 では被害者遺族の手記を発掘するなどした。 その後、副部長に昇進。 2002年10月から『週刊新潮』に「裁判官がおかしい! 」を連載、後にそれを大幅に加筆して『裁判官が日本を滅ぼす』を新潮社から刊行している。 同書では、がに殺人容疑で逮捕されて有罪が確定したについて、以前に逮捕されていたを逆転無罪としたの裁判官を「無罪病」と非難している。 新潮社勤務のかたわらから発表した『甲子園への遺言』が第16回優秀賞を受賞、NHK土曜ドラマ『』(主演・)としてドラマ化された。 2008年4月、新潮社を退社し独立。 同作品を原作とするのドラマWスペシャル「」(主演・)は、2010年度ドラマ部門の大賞を受賞した。 2009年10月、1949年ので軍に協力した日本の軍事顧問団関係者の子孫と共にのを訪問。 60周年の戦没者慰霊祭などに参加した。 また、門田が同書で明らかにしたが根本に贈った「花瓶」が、2011年、日台友情の証(あかし)として根本家によって台湾に返還されることが決まったと報道された。 台湾でも同書の翻訳本『為義捐命』が発売された。 後の状況を現地で取材。 2014年5月、が吉田が政府事故調の聴取に応じた「(聴取結果書)」を独占入手したとして「所員の9割が吉田所長の命令に違反して撤退した」と報道したことに対して、「これは誤報である」とブログ で主張した。 その後、週刊誌(『週刊ポスト』6月20日号、『週刊新潮』9月18日号)、写真誌(『FLASH』6月24日号)、月刊誌(『』8月号・11月号、『』8月号・10月号)、『』8月18日付朝刊 等で批判の論陣を張った。 一方、朝日新聞は門田の論評に対して「訂正謝罪」の要求と「法的措置を検討する」との抗議書を複数回送付したが、逆に9月11日、木村伊量社長が記者会見を開いて、当該の「吉田調書」記事を全面撤回し、謝罪した。 門田は11月に出版した『「吉田調書」を読み解く と現場の真実』に、その経緯を記した。 伯父が殺害されたについて、20代前半から調査を行っている。 訴訟 [ ] 大滝村交通事故名誉棄損訴訟 [ ] 詳細は「」を参照 1994年7月に創価学会員が運転するトラックと、創価学会に対立する日蓮正宗僧侶が運転する乗用車の衝突事故が発生した。 乗用車を運転していた僧侶が死亡したが、警察は、乗用車側のスピード超過によるものとして処理し、損害保険会社も同様の判断を行った。 事故は、創価学会を破門した日蓮正宗本山の「総登山」直前という激しい対立のさなかに起きたもので、週刊新潮は「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」を掲載した。 当記事には、事故のことを誰も知らない夜中に、死亡した僧侶の似顔絵に「日蓮正宗僧侶 天罰下る!」という見出しを掲げたビラが大量に撒かれたなどとも記載されており、創価学会員のトラックの運転手は週刊新潮に対して訂正を要求したが、新潮社はそれを受け入れなかったため、トラックの運転手は新潮社を名誉棄損で提訴した。 札幌地裁は新潮社の名誉棄損を認め、新潮社に110万円の慰謝料の支払いを命令、札幌高裁、最高裁ともに地裁の判決を支持し、新潮社の敗訴が確定した。 信平夫妻による池田大作に対する訴権の濫用 [ ] 1996年に信平醇浩・信子夫妻の「創価学会の池田大作名誉会長に暴行を受けた」とする手記を週刊新潮に掲載した。 信平夫妻は手記発表後、創価学会に対して損害賠償を求め提訴した()。 裁判は信平夫妻が裁判官を忌避するなど混迷し、ついに信平夫妻の証言が実現しないまま、信子には「時効」が宣告され、夫の醇浩には、「 裁判として成立するほどの証拠や信頼性がない訴訟に対する措置 」が言い渡されて終結した。 しかし、創価学会はこの関連記事を26回にわたって掲載した週刊新潮を提訴もせず、池田名誉会長の「出廷を阻止すること」に成功した。 この手記に関する記事が自民党機関誌の自由新報でも掲載されたため、自民党と公明党の接近が計られる中、時の内閣総理大臣・が謝罪を行う事態にまで発展した。 遺族側は合計26か所の盗用がおこなわれたと主張し、「承諾を得て参考にした。 盗用ではない」とする門田側の主張にも「承諾していない」と反論している。 2013年3月14日、一審のは著作権侵害を認定し、出版差し止めと書籍の廃棄、慰謝料など約58万円の支払いを命じた。 門田は「本人に確認取材し、参考文献としても明記した。 あきれた判決だ」と判決を非難し、即日控訴。 2013年9月30日、二審のも一審判決を支持し、控訴を退けた。 門田は上告の意向 を示す一方、「記憶の薄れていた本人が自ら提供してきた手記をもとに長時間にわたって本人に記憶を喚起してもらいながら取材し、その上で記述した内容が著作権侵害になるなら、もはや日本でノンフィクションは成り立たない」、「日本の官僚裁判官は、小説とノンフィクションの違いも理解できないのだろうか」と反発。 この問題を扱った『新版 裁判官が日本を滅ぼす』を2013年に出版した。 2015年5月14日、は門田の上告を棄却。 著作権侵害を認め、二審判決が確定した。 門田は同日、自身のブログを更新し、「これが司法の限界。 私の姿勢や手法はこれからも変わらない」と宣言した。 受賞歴 [ ]• 2005年 優秀賞• 2010年 ドラマ部門大賞(原作)• 2010年 テレビグランプリ・ドキュメンタリー部門優秀賞(原作)• 2010年• 2012年 芸術祭ドラマ部門優秀賞(原作) 著書 [ ]• 『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社 2003年)のち文庫• WOWOWがドラマWスペシャル「」(主演・江口洋介)として映像化。 2010年度文化庁芸術祭ドラマ部門大賞を受賞。 『神宮の奇跡』(講談社、2008年)のち文庫• 『激突! フジテレビが「ザ・ノンフィクション」500回記念番組で同作を原案とする「康子のバラ~19歳、戦渦の日記~」を放映。 第27回テレビグランプリ・ドキュメンタリー部門優秀賞受賞。 同年、WOWOWでドラマ化。 2012年度文化庁芸術祭ドラマ部門優秀賞を受賞。 『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ(小学館)• 『太平洋戦争 最後の証言 第1部 零戦・特攻編』(小学館、2011年8月)• 『太平洋戦争 最後の証言 第2部 陸軍玉砕編』(小学館、2011年12月)• 『太平洋戦争 最後の証言 第3部 大和沈没編』(小学館、2012年4月)• 『新版 裁判官が日本を滅ぼす』(、2013年)• 『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(、2013年)• 『慟哭の海峡』(角川書店、2014年)• 『吉田昌郎と福島フィフティ』(PHP研究所、2015年)• 『日本、遥かなり—エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』(PHP研究所、2015年)• 『リーダーの本義』(日経BP社、2016年)• 『』(小学館、2017年)• 『ヒョウのハチ』(小学館、2018年)• 『新聞という病』(産経新聞出版、2019年) 脚注 [ ]• 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p. 447• 『裁判官が日本を滅ぼす』 「第1章 小野悦男を解き放った無罪病裁判長の責任」 [ ]• 2009年10月27日. 2013年7月13日閲覧。 読売新聞2011年1月5日付• 門田隆将オフィシャルサイト ブログ「夏炉冬扇の記」 2011. 門田隆将オフィシャルサイト ブログ「夏炉冬扇の記」 2014. 産経新聞• 朝日新聞デジタル 2014年9月11日• 門田隆将オフィシャルサイト• 「週刊新潮」1994年9月1日号「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」• - 同志社大学教授渡辺武達• Forum21• 「信平狂言事件」、『』2005年4~6月号• 2013年3月15日. 2014年8月6日閲覧。 2013年9月30日閲覧。 2011年7月11日. 2013年9月14日閲覧。 知財情報局. 2013年10月1日. の2015年5月18日時点におけるアーカイブ。 2018年8月29日閲覧。 2015年5月14日閲覧。 門田隆将 2015年5月14日. 2015年5月15日閲覧。 但し集英社版での第1章と第3章が削除されている。 第3章は盗用疑惑の訴訟(訴訟の項参照)で問題となっていた部分だが、それが削除理由かは不明。 外部リンク [ ]• KadotaRyusho - この項目は、(・・・・・・・・・・・)に関連した です。

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根本博

門田 隆 将

『虎ノ門ニュース』でヘイト擁護! 百田と門田両氏 韓国人ヘイトの特集を組んで大炎上した小学館発行の「週刊ポスト」。 昨夜、小学館は自社サイト「ポストセブン」に、『週刊ポスト』編集部名義のこんな「お詫び」を掲載した。 〈週刊ポスト9月13日号掲載の特集『韓国なんて要らない!』は、混迷する日韓関係について様々な観点からシミュレーションしたものですが、多くのご意見、ご批判をいただきました。 なかでも、『怒りを抑えられない「韓国人という病理」』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。 お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります。 〉 だが、これ、本気で反省しているとはとても思えない。 そもそも、今回の記事は〈誤解を広めかねず、配慮に欠け〉というようなレベルの話ではないだろう。 しかも、醜悪なのは〈韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ〉などという言い訳だ。 『ポスト』が根拠にしているのは、中央日報2015年4月5日付の日本語版記事にあった〈大韓精神健康医学会がこのほど実施した調査の結果、韓国の成人の半分以上が憤怒調節に困難を感じており、10人に1人は治療が必要なほどの高危険群である〉という記述だが、精神疾患をめぐるこの程度の確率のアンケートはどこの国にもある。 たとえば、公益財団法人「日本学校保健会」HPによれば、日本でも、一生の間にうつ病、不安症などにかかる人の割合は18%、5人に1人が何らかの精神疾患にかかるという研究結果もあるという。 先進国では、3割を超える国も少なくない。 これは、明らかに、意図的な差別煽動だろう。 しかも、2日の記事でも指摘したが、今回のヘイトは「週刊ポスト」編集部の問題ではなく、小学館の組織的な問題だ。 見出しや記事のタイトルまで決めてしまうことすらある。 秋山さんは『SAPIO』出身で大の韓国嫌い。 『SAPIO』 はもちろん、管轄の『ポスト』、さらには『女性セブン』にまで、ことあるごとに韓国叩きをやれ、と指示を出してきた。 今回の記事と同じようなヘイト発言をしょっちゅう口にしていましたしね。 秋山氏と距離を置いていた編集幹部の飯田昌宏さんが『ポスト』の編集長を務めていた時期は、影響力が弱まっていたんですが、飯田さんが外れて再び、秋山さんの現場介入が激しくなった。 そう思っていたら、これですからね。 おそらく今回の特集も秋山さんの指示を受けたものか、編集部が秋山さんの意向を忖度したものと考えて間違いないでしょう」(小学館関係者).

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『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)(2020.3.6~):原作 門田隆将 「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」と、トモダチ作戦

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中華民国陸軍軍服姿の根本博 生誕 死没 1966-05-24 (74歳没) 所属組織 軍歴 - () - () 最終階級 陸軍(・) 除隊後 中華民国第5軍管区司令官顧問 根本 博(ねもと ひろし、 - 、中国名:林保源)は、の軍人及びの。 最終階級は共に。 栄典は・。 23期。 34期。 時に(当時は)に駐屯していたとして、終戦後もなお侵攻を止めないの攻撃から、蒙古聯合自治政府内の付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。 復員後の1949年には、の統治下にあったへ渡り、におけるを指揮し、中共政府のを撃破。 中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となった。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (現)出身。 実家は農家であるが、実父は県庁に勤務していた。 また、実兄の嘉瑞は村会議員も務めた。 (明治37年)入学。 中央幼年学校を経て、(明治44年)卒業(23期)。 席次は509人中13番で、同期にら。 酒好きで豪快な人柄だったとされる。 (大正11年)卒業(34期)。 席次は60人中9番。 (大正13年)、郵便局長の娘・錫(すず)と結婚し、夫妻の間には四男二女が誕生する。 少壮将校時代 [ ] 陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。 南京附として南京に駐在していた 3月に遭遇、領事館を襲撃してきた軍暴兵に素手で立ち向かったものので刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。 自分が死ぬことで、の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。 帰国後、6月に起きたを皮切りに、などの解決のために国策を研究する目的で、、、、ら陸士21期生から27期生の少壮を中心に、同年11月に9名で結成された(別名・木曜会)に参画する。 続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、、、、、、、ら陸士15期から18期生を中心に結成された、に吸収される形で成立したに加わった。 (昭和5年)8月、中佐として参謀本部支那班長となる。 この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時の根本班長の思い出を戦後回顧している。 (昭和6年)12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を、「昼行灯」と称して、忠臣蔵の大石良雄に擬していたという。 9月、国家改造を掲げる結社にも参加するようになり、翌年には陸軍のクーデター事件であるに連座するも、中心人物であるら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。 にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。 中堅将校時代 [ ] (昭和10年)8月12日に起きた時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行されるに駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。 1936年(昭和11年)2月26日〜2月29日におけるの際は、新聞班長として部下に、有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。 既にの御命令が発せられたのである。 お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。 根本は決起将校らがに宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍權を私したる中心人物として、武藤章中佐、少佐と共に即時罷免を求められている。 また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。 二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。 駐蒙軍司令官として [ ] (昭和19年)11月、駐蒙軍司令官に就任。 翌(昭和20年)8月のは、の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人住民4万人の命が危機に晒されていた。 ソビエト軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、を信仰していた根本は『』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。 これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。 途中幾度と停戦交渉を試みるが攻撃を止まないソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじいを繰り広げた。 更に(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。 一方、根本は軍のと連絡をとっていた。 8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソビエト軍が戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日にへ帰着した。 出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。 一方、20日にを脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けてへ脱出した。 その後も船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した。 引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。 8月17日頃から、軍の倉庫にあった米やを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。 一方の満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰もに現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。 これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。 またでは一部の日本軍と在留邦人が残留し戦後問題となった() 尚、前任のが最後のになった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任する。 1946年(昭和21年)8月、根本は最高責任者として、在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵のを終わらせ、最後の船で帰国した。 終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたが、は日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てた。 日本軍の降伏調印式と武装解除に中国側は数名の将官が来ただけという珍事もあった。 ソビエト軍の占領下になった満州や、山西省でのケースを除くと、日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げは10ヶ月で完了した。 衆議院議員のは引揚の受け入れ港の視察で南方や満州、朝鮮からの引揚者が裸同然だったのに対して中国本土からの引揚者はそのようなことがなく、手荷物を持っていたことに驚いている。 中華民国統治下の台湾へ [ ] 「密航」 [ ] 復員後、東京の 現在の の自宅へ戻る。 における国民党の敗北が決定的となり、(昭和24年)1月にがを辞任すると、蒋介石に対する恩義(4万人の在留邦人と35万将兵の帰還への便宜供与、国体護持)から、根本は私財を売却して渡航費用を工面しようとする。 そこに、元上海の貿易商であった 及び「」からの要請があり、密航を決意する。 同年6月26日、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、通訳のとともにの沿岸から台湾へ密航。 7月10日にに到着するが、密航者として投獄される。 しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部(中将、中将)に伝わるや否や待遇が一変し、に台北へ移動する。 での静養を経て、8月中旬、の仲介で蒋介石と面会する。 同時期8月5日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明しており、孤立無援の状態にあった蒋介石は根本の協力を受け入れた。 金門島決戦 [ ] 詳細は「」を参照 根本らは8月18日に台湾からへ渡る。 中国名「 林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。 湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び礼遇した。 根本は湯恩伯に対し、厦門を放棄し、を拠点とすることを提案する。 これを基に防衛計画が立案され、根本は直接指導に当たった。 同年、では中国共産党によるが成立。 ほどなく国府軍は厦門を失陥。 金門島での決戦が迫る中、根本は塹壕戦の指導を行う。 そして10月24日、金門島におけるを指揮、上陸してきたを破り、同島を死守した。 10月30日、湯恩伯は「林保源」を含む部下たちとともに台北に凱旋する。 根本らの帰国後も、この島を巡って激戦()が展開されたが、台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在に至る台湾の存立が確定した。 その後、根本の帰国に先立ち、蒋介石は感謝の品として、イギリス王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を根本に渡している。 本来一対であるべき花瓶の片方は今日もに展示されている。 スキャンダルとして [ ] 当時、国府軍が日本の旧軍人らを義勇兵として募兵しているといった噂から「台湾募兵問題」がスキャンダルとして世間の注目を集めていた。 根本らの台湾密航は国会でも追及され、昭和24年(1949年)11月12日、第6回国会参議院本会議 において、()から台湾における日本人義勇軍に対する所見を問われると、首相は「噂は聞いておりますが、従つて政府としてはその噂が事実なりや否や嚴重に今取調中」とし、は「少数の者が台湾へ行つたらしい形跡がある」として大規模な地下組織の存在を否定しつつ、いずれも答弁を濁している。 その後、11月15日付で吉田首相は、日本人義勇軍の組織化は否定しつつも、根本らの密航を認める答弁書を提出している。 白団との関係 [ ] 根本は元率いる軍事顧問団「」には加わらなかった。 根本は上述の通り、マスコミに名を知られていたため、「台湾募兵問題」のスキャンダルは根本とその周辺に注目されるようになった。 このことはアメリカとの関係上、白団の存在を内密にしておきたい中華民国側や白団にとって助かったという。 晩年 [ ] 1952年(昭和27年)6月25日、(CAT)機により日本へ帰国。 3年前の密出国については不起訴処分となった。 日本バナナ輸入協会会長を務める。 晩年は鶴川の自宅で過ごしていたが、1966年(41年)5月5日、孫の初節句の後に体調を崩して入院。 同月21日に一度退院するも、24日に急死した。 享年74。 没後 [ ] 当時より根本の渡台は台湾でも極秘であり、その後の台湾(中華民国)における政治情勢(国民党政府(=)による台湾統治の正当化)もあって、根本ら日本人の協力は現地でも忘れ去られていた。 また、古寧頭戦役そのものの歴史的意義の認知も低かった。 古寧頭戦役60周年式典 [ ] 2009年(平成21年)に行われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭 に根本の出国に尽力した明石元長の息子・明石元紹や、根本の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が中華民国(台湾)政府に招待され、・(当時)と会見した。 彼ら日本人の出席が認められたのは、式典の1週間前だった。 また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、常務次長の中将は報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。 」とした感謝の言葉を述べた。 年譜 [ ]• 1891年6月6日 出生(福島県岩瀬郡仁井田村)• 1904年9月 仙台陸軍地方幼年学校入学• 1907年9月 陸軍中央幼年学校入学• 1909年• 5月 陸軍中央幼年学校卒業• 5月 士官候補生• 12月1日 入校• 1911年• 5月27日 陸軍士官学校卒業• 6月 見習仕官旭川附• 12月26日 陸軍・旭川歩兵第27聯隊附• 1914年12月 陸軍歩兵• 1917年12月1日 陸軍大学校入校• 1921年4月 陸軍歩兵• 1922年11月29日 陸軍大学校卒業• 1923年• 5月 旭川歩兵第27聯隊第一長• 12月 課支那班• 1924年8月 参謀本部部員• 1926年• 3月 参謀本部附(支那研究員)• 5月1日 参謀本部附• 8月 陸軍歩兵• 1927年• 3月 で負傷• 9月9日 課員(支那班長)• 1929年• 3月 参謀本部附(出張)• 12月 参謀本部支那課支那班員• 1930年8月1日 陸軍歩兵参謀本部支那課支那班長• 1932年• 5月 参謀本部部員• 8月8日 参謀本部附(駐在武官)• 1933年7月4日 兼参謀本部附• 1934年• 3月5日 附(陸軍省新聞班長)• 8月1日 陸軍歩兵• 1936年• 2月26日 戒厳司令部第四課長• 3月7日 旭川歩兵第27聯隊長• 1937年9月4日 司令部附• 1938年• 5月14日 北支那方面軍特務部長• 7月15日 陸軍• 1939年• 3月10日 興亜院華北連絡部次長• 8月1日 参謀本部附• 12月1日• 1940年2月10日 参謀長• 1941年3月1日 陸軍長• 1944年• 2月7日 司令官• 11月23日 駐蒙軍司令官• 1945年8月19日 北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官• 1946年8月 復員• 1949年5月 台湾政府の対作戦に協力(〜1952年6月帰国)• 1966年5月24日 死去 栄典 [ ]• (昭和17年) - 関連資料 [ ] 書籍 [ ]• 今井武夫・寺崎隆治 他 『日本軍の研究 指揮官 (下)』原書房、1980年に「根本博中将の思い出」• 小松茂朗 『戦略将軍根本博 ある軍司令官の深謀』(、1987年)• 『救国論 相反する二つの正義から見える人類史の課題と希望』メディアポート、2015年)。 中村祐悦『新版 白団 - 台湾軍をつくった日本軍将校たち』芙蓉選書ピクシス、芙蓉書房出版、2006年。 『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』、2010年。 『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』〈〉、2013年10月。 TV番組 [ ]• 『』 「台湾に消えた父の秘密」(/2010年8月15日放送) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2009年10月27日. の2010年8月18日時点におけるアーカイブ。 2011年11月25日閲覧。 274-275• 275• 256-261• 262• 『』28号、1963年• 286• 286-287• 「日軍事顧問貢獻入史? 國防部未評論」台湾自由時報 2011年5月30日の記事から "... 國防部在二〇〇九年十月曾舉辦古寧頭大捷紀念大會,日本軍事顧問後代吉村勝行等人應邀參與大會,馬英九總統也向吉村勝行等人握手致意,時任國防部常務次長的黃奕炳中將也以古寧頭戰役相關書籍贈送吉村勝行等。 347• 366• 『官報』 1942年07月17日 叙任及辞令 関連項目 [ ]•

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