おはようございます。 今日はこのブログ初めてのブラジルの曲、映画「オルフェ」で使われていた 「君がすべて」です。 の英訳をまた訳したので、いつも以上に自信がないです、、、) この曲は1999年の映画(日本は2000年公開)「オルフェ」で使われていたものです。 映画の原作は「」をはじめとするの名曲の多くの作詞を手がけたヴィニシウス・ヂ・モライスが、を題材にした書き下ろした戯曲 『オルフェ・ダ・コンセイサゥン 』で、1959年にフランスの監督の手によって「」として映画化されています。 「」はでを受賞するなど、古い映画ファンにはお馴染みの作品ですが、ブラジル人にしてみるとフランス人が撮ったせいかまったくリアルに描かれていないということで評判は良くなかったようです。 そこで、積年の不満を解消すべく、ブラジル人自らの手で作ったのがこの「オルフェ」だったのです。 映画の内容はともかく、「」は有名な曲を生み出しました。 「カーニバルの朝」 「フェリシターヂ」 こうした「」で有名になった曲は「オルフェ」でも使われています。 その「オルフェ」の音楽を監修したのが。 優しくやわらかいトーンでありながら、愛の喜びと悲しみの両方を突き詰めたとても深いところまで達している、他に類を見ない曲だと僕は思います。 彼はシダーヂ・ネグラという今も現役のバンドのボーで、日本に来日したこともあります。 声質がこの曲にとても合っていると思います。 作者のが自ら歌っている動画もありましたので、そちらもぜひご覧になってください。
次のどうだっただろうか? この先を読み進める前に注意していただきたいことがひとつある。 ここから先は作詞作曲したn-bunaさんの手から離れた言葉がぼくの心にどう響いているかを書いただけである。 ただ、僕が一番好きな曲への感情を爆発させるだけなので「ふーん」くらいの気持ちで読み流して欲しい。 夜に浮かんでいた 海月のような月が爆ぜた バス停の背を覗けば あの夏の君が頭にいる だけ 全体を通して言えるのは歌詞がとても文学的であること。 この 「夜」は主人公である 「僕」の精神世界な気がする。 その世界は悲しさか切なさの帳に覆われていて深い闇を湛えている。 そして、「海月」のような月が浮かんでいることで、その世界は神秘を纏う。 夜の中に浮かんでいた唯一の月が「爆ぜる」ことで光が降り注ぐ、ここから思い出の回想が始まる。 ふとした瞬間に昔の大切な記憶が思い起こされることは誰しもあるだろう。 その瞬間を表現しているように感じられる。 そして、その記憶の中では昔のようにバス停の裏には「君」がいる。 その先を思い出そうとはするが、心の防衛本能だろうか、詰まって何も出てこない。 色んな感情の続きがあったはずなのに出てこない、思い出したいのか、それとも断ち切りたいのか、それさえも自分では分からない。 その結果、間に合わせの 「だけ」が出てくる。 鳥居 乾いた雲 夏の匂いが頬を撫でる 大人になるまでほら、 背伸びしたままで 遊び疲れたらバス停裏で空でも見よう じきに夏が暮れても きっときっと覚えてるから 親しかった「君」との記憶が描写される。 「鳥居」と「乾いた雲」の2つの単語だけで田舎の自然溢れる情景が展開される。 子供の2人は知識や勇気や走る速さなんかの比べ合いをしながら、どちらがより大人かなんて無邪気に競い合ったのだろう。 そして遊び疲れたらバス停の裏に座り込んで空を見上げるのがお決まりだった。 「君」と「僕」が一緒に過ごす時間は、いつまでも2人の間の約束事として心に刻み込まれる。 追いつけないまま大人になって 君のポケットに夜が咲く 口に出せないなら僕は一人だ それでいいからもう諦めてる だけ このサビが一番心を抉られる。 僕にはもうこの歌詞の「君」が死んでしまったようにしか感じられなかった。 ここで、自分の中の記憶が共鳴し始める。 中高の頃、僕の色んな話を聞いてくれて、何歩も先を行っていた僕にとっての「君」がこの世界にもう居ない現実がどうしようもなく痛かった。 この歌の「君」は、僕にとっての「君」にも重なる。 僕の年齢は「君」をもう超えたし、たくさんの経験をして価値観も変わってきたけれど、「君」はもう居ない。 あの頃の「君」には背伸び競争で勝てる気がする。 けれど、もし「君」が今も居たら、「君」はまた僕の先を行っていたのだろうか?その答えなんてもう分かりはしない。 僕たちの関係はあの夏のままで凍りついてしまった。 もう追いつけない。 僕だけが歳を取る。 こうやって悲しみや切なさが「君」との記憶を蝕んでくる。 この感情を誰にも言うことが出来ない。 この世界を見ているのは自分しか居ないから。 この感情も孤独ももう全部ぼくのものだ。 それで良いんだと頭では分かって居ても心が納得しない。 そんな葛藤は言葉にもならないから、 「だけ」の前の余韻に隠すしかない。 夏日 乾いた雲 山桜桃梅 錆びた標識 記憶の中はいつも夏の匂いがする 写真なんて紙切れだ 思い出なんてただの塵だ それがわからないから、 口を噤んだまま 気づけばまた記憶の中にいる。 外の世界の季節がいつだろうと、「君」との時間が凍りついてしまっているせいで夏の匂いしかしない。 湿った匂い。 夏草の青臭さが見え隠れする。 でも、写真や思い出なんて、何の役にも立たない。 痛みを和らげてなんてくれない。 それが分からないですがりついて、さらに心を痛めて言葉を失ってしまう。 絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ 「絶えず人いこふ夏野の石一つ」 という正岡子規の俳句のオマージュ。 夏の野原の中に変哲のない石が一つある。 ただの石でしかないが、絶えずそこを通る人がそこに腰を下ろして憩いを取ることで、憩いという特別な意味を持つ存在になる。 そしていつの間にかその石に愛情が湧く。 記憶の中にあるただの塵でしかない写真や思い出も、 「君」とのものであることで愛着が湧いてしまう。 救われないと知りながらもすがってしまう。 俯いたまま大人になって 追いつけない ただ君に晴れ 口に出せないまま坂を上った 僕らの影に夜が咲いていく 「君」を失ってしまった事に打ちひしがれて前向きになりきれないまま歳を重ねる。 「君」にはもう追いつけない。 記憶も底に近づきつつあり、悲しみと切なさがまた忍び寄ってくる。 俯いたまま大人になった 君が思うまま手を叩け 陽の落ちる坂道を上って 僕らの影は 追いつけないまま大人になって 君のポケットに夜が咲く 口に出せなくても僕ら一つだ それでいいだろ、もう 君の想い出を噛み締めてる だけ 記憶の中での「君」はいつも同じだ。 お願いだから「君」の思うまま動いて欲しい。 そんな叶わないことを何度も願う。 記憶ももう終わりが近い。 この感情も記憶の世界も誰にも言うことは出来ないけれど、もうそれで良い。 「君」と「僕」のものだ。 そういうことにしてしまおう。 「僕」はこの先の人生において何度もこの世界に戻ってくるだろう。 悲しみも切なさも現実ももう知らない。 「僕」はもう淡々と生きていく。 決意を頭がする。 心はついてこない。 だから、 「だけ」を直ぐに言いきれない。 そんな弱い決意の話。 -------------------- この歌の歌詞は深い世界を作り出していて、初めは歌詞の解釈を書くつもりが、気づけば途中でその世界観に引きずり込まれて感情が泡立ってしまった。 途中から僕の精神世界が共鳴し始めてしまい、歌中の「僕」と僕自身の区別がつかなくなった。 今でもこうなるのだから、親友が亡くなった時期にこの曲を聴いていたのは今思えば危険だった。 しかし、この深い世界に何日も何ヶ月も浸り続けたことで、僕は今まで当たり前とみなしていた「人生」の中に情景を見出すようになった。 見える世界の色と温度が一変した。
次のおはようございます。 今日はこのブログ初めてのブラジルの曲、映画「オルフェ」で使われていた 「君がすべて」です。 の英訳をまた訳したので、いつも以上に自信がないです、、、) この曲は1999年の映画(日本は2000年公開)「オルフェ」で使われていたものです。 映画の原作は「」をはじめとするの名曲の多くの作詞を手がけたヴィニシウス・ヂ・モライスが、を題材にした書き下ろした戯曲 『オルフェ・ダ・コンセイサゥン 』で、1959年にフランスの監督の手によって「」として映画化されています。 「」はでを受賞するなど、古い映画ファンにはお馴染みの作品ですが、ブラジル人にしてみるとフランス人が撮ったせいかまったくリアルに描かれていないということで評判は良くなかったようです。 そこで、積年の不満を解消すべく、ブラジル人自らの手で作ったのがこの「オルフェ」だったのです。 映画の内容はともかく、「」は有名な曲を生み出しました。 「カーニバルの朝」 「フェリシターヂ」 こうした「」で有名になった曲は「オルフェ」でも使われています。 その「オルフェ」の音楽を監修したのが。 優しくやわらかいトーンでありながら、愛の喜びと悲しみの両方を突き詰めたとても深いところまで達している、他に類を見ない曲だと僕は思います。 彼はシダーヂ・ネグラという今も現役のバンドのボーで、日本に来日したこともあります。 声質がこの曲にとても合っていると思います。 作者のが自ら歌っている動画もありましたので、そちらもぜひご覧になってください。
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