そう良く分かったわね。 後で役に立つように内容のあるノートができて、かっこいいノートだと思うわ。 「山高きが故に貴からず」の例文• 新社屋(しんしゃおく)は完成しましたがこれはまだ始まりです。 山高きが故に貴からずといいます、これからが正念場です。 立派な人には見えるが、話を伺(うかが)うと 山高きが故に貴からず、どうも違和感があります。 書かれている趣旨は正論だと思います。 しかしながら、 山高きが故に貴からずともいいますのでこれからの活動に注目してまいります。 山高きが故に貴からずです。 しっかりと精進(しょうじん)してご期待に沿うよう頑張ります。 まとめ 頭では分かっていても立派な体格、服装が決まっていて、その時の立ち居振る舞いが良ければ、それでその人のことを判断してしまいます。 少なくとも第一印象はそれが大きく影響するのは間違いありません。 実語教につづく句を読むと、 山高きが故に貴からずではここでいう一時的な外見ではなく、また、知恵のみならずその人の人間性も指し示しているのだと感じました。
次の「先生、さようなら。 みなさん、さようなら」 子どもの頃、帰りのあいさつで元気よく言っていた言葉です。 小学生に上がると日常生活で「さようなら」を使う頻度はぐっと減り、私が今、目にしたり耳にするのは、本のタイトルや歌、少し古い作品の登場人物のセリフにとどまります。 個人的に「さようなら」は 「二度と会えない」感じを覚えるのですが、いかがでしょうか? 今回は、「さようなら」の語源と由来をご紹介します。 さようならの語源 まずは、「さようなら」を辞書で引いてみましょう。 さようなら【左様なら】さヤウ- 一、 (接)それなら。 それでは。 二、 (感)別れのあいさつに用いる語。 さよなら。 大辞泉より さよう-なら サヤウ- (感)別れるときのあいさつのことば。 さよなら。 [語源]「然様(さよう)ならば(=それでは)これにて御免」のような言い方から。 明鏡国語辞典より 「別れるときのあいさつことば」という意味と共に、語源まで載っています。 接続語である「さようならば」の「ば」が略されてあいさつ言葉になったのですね。 大辞泉にあるように「さようなら」の接続語の意味は「それなら」「それでは」です。 「それなら、また明日」「それでは、お元気で」など、本来であれば、後に続く言葉が肝心の別れの言葉であるはずなのに、そちらを省略するのが日本語らしいといいますか……。 同一コミュニティにおける共通認識の上に成り立つ文化、空気を読む文化が色濃く出ている気がします。 しかも、類語例解辞典を紐解くと、「さようなら」の使い分けにこんな説明が載っています。 「さようなら」は、別れの挨拶として相手の身分や地位、年齢にかかわりなく一般的に広く使われる。 「さよなら」ともいうが、この場合は目上には使わない。 また、「ここでさようならしましょう」「いよいよ今日で独身生活ともさようならだ」のように、別れることの意でも用いる。 相手の身分や地位、年齢にかかわりなく広く使われる別れの挨拶の代表が「さようなら」なのです。 ワタシ、「さようなら」! 出身、接続語。 後に続く言葉は空気を読んでね! そういえば、こんな話を聞いたことがあります。 今から挙げるシチュエーションは絶対にあり得ないことですが、もし万が一、我々が天皇陛下とお食事を共にする機会があった場合。 目の前のお料理に、私はどうしてもお醤油がかけたい。 でも、そのお醤油は陛下のごく近くにある。 陛下にお取りいただくなんてあり得ない。 そもそもなんとお声掛けして頼めばよいのか。 正解は、ごく小声で 「お醤油……」とつぶやくこと。 そして、自発的に気付いていただくこと。 空気を読んでいただくこと。 敬語とはなんなのか考えさせられます。 さようなら、ごきげんよう 「さようなら」の元の形について、『日本のこころの教育』(境野勝悟著)には、 「こんにちは、お元気ですか?」 「はい、おかげさまで元気です」 「さようなら、ごきげんよう」 これが日本人のあいさつの基本なのである。 と、あります。 なんでも、江戸時代までは「さらば、ごきげんよろしう」や「さようなら、ごきげんよう」と全部を言っていたものが、明治以降、男性が「さようなら」、女性が「ごきげんよう」と言いわけるようになり、ついに昭和には、女性のほとんども「ごきげんよう」は言わないで、「さようなら」を言って別れるようになってしまったとか。 時代を経るごとに、一つのあいさつの言葉が分かれ、独立した言葉として使われるようになり、平成の今はその頻度が減っていってしまっている「さようなら」。 冒頭に私が挙げた「二度と会えない」感じは、もしかしたら 繰り返し聞いた歌や、物語の中で使われるシチュエーションによって植え付けられてしまった印象なのかもしれません。 また、身分や地位、年齢に関係なく使える言葉だからこそ、敬語を使う際に似た心の距離感を覚えてしまい使い辛いのかなあ、とも。 「さよなら、またね!」など、後に言葉を付け加えると「会えない」感はぐっと和らぐので、これをきっかけに色々な言葉と組み合わせて使ってみたいと思います。 おまけのお話 別れの挨拶は「さようなら」だけではありませんよね? 個人的に気になった「さらば」と「あばよ」の由来もついでに調べてみました。 さらばの語源 「さらば」は「さようなら」よりも古い言葉です。 現在では 「さらば、友よ!」など、たまにふざけて使うことがあったり、なかったり。 「さらば」の「さら」は、そのようだの意の動詞「さり(然り)」の未然形で、「ば」は仮定を表す接続助詞。 元は、「そうであるならば」という意味なので、「さようなら」と同じ由来を持つ言葉です。 あばよの語源 「あばよ」は別れ言葉の中でもかなり使う頻度が低い言葉です。 私はこの言葉に、負け犬感というか、小物感がただよう捨て台詞な印象を受けます。 なんででしょう? 笑 「あばよ」の語源は諸説あって、そのいくつかをご紹介。 「さらばよ」の略。 「また逢はばや(またあはばや)」が転じたもの。 「按配よう(あんばいよう)」の略。 一番有力なのは3. の「按配よう」の略という説で、そもそも「按配」が「体調」の意味で使われ出したのが近世で、「あばよ」も近世から使われているからだとか。 個人的には「また逢はばや(またあはばや)」説を押したいです。
次の>表現として「槍玉に挙げられている」というのは正しいのでしょうか? : 正しいです。 この場合の「(て)いる」は補助動詞で多様な用法を持っています。 大辞林の内容を簡潔に示すと以下のようになる。 という用法。 ㋐ 進行形。 「空を飛んでいる鳥」 「現在、各メディアから槍玉に挙げられている最中」 ㋑ 結果の持続。 「この川はしばしば氾濫をおこしている」 「事あるごとに度々、各メディアから槍玉に挙げられている」 ㋔ 過去完了(あるいは経験)。 「少年使節一行はローマ教皇にも会っている」 「以前、何回か各メディアから槍玉に挙げられるという経験をしている」 A ベストアンサー #6です。 誠に申し訳ありません。 辞書記述をすっかり読んでいなかったため、誤った回答をしてしまいました。 (大辞林でも、「歌わない です」の形を認めています) お詫び申し上げると共に、全面的に訂正させていただきます。 ただ、「です」が丁寧語であることから、「ません」よりも丁寧な表現になると思われ、特に若者の話し言葉として浸透していったとのこと。 2008年には、「ないです」の使用が「ません」の使用を約 3 倍も上回る結果が出たという研究結果もあります。 lang. nagoya-u. pdf 因みに、わたしは(若くはありませんが)書き言葉でも使っています。 とはいえ、子供の頃は使っていなかったように記憶している。 #6です。 誠に申し訳ありません。 辞書記述をすっかり読んでいなかったため、誤った回答をしてしまいました。 (大辞林でも、「歌わない です」の形を認めています) お詫び申し上げると共に、全面的に訂正させていただきます。 A ベストアンサー 専門用語としての「遊び」は、自由に動く余地・隙間(があること)。 反対の意味の熟語は聞きませんが、ふつうはたんに「遊びがない」と言いますね。 「タイトな」といえるかもしれません。 機械・器具などの「遊び」は、英語でも「play」と言うようです。 JIS B 6190-1 「工作機械試験方法通則-第1部:幾何精度試験」 3. 3 遊び(play) 構造ループ内の要素間の隙間に限定した変位分だけ発生する,剛性がゼロの状態。 JIS B 0102-1 「歯車用語-第1部:幾何形状に関する定義」 3. 8 半径方向の遊び(radial play) 作用及び非作用両歯面を接触させたときの中心距離の,所定の中心距離からの減少量。 Q 「歌わないです」について、間違った文だという質問が出ています。 (回答しようとしたらこの人からブロックされています。 どうしてブロックされたか全く心当たりがありません。 仕方なく、質問の形で話に加わります) 形容詞「素晴らしい」に「です」をつける言い方は、一部の人にあり得ないと判断されています。 これは本来、「素晴らしゅうございました」といったものです。 ところが「ございます」を使う人があまりいなくなって、「形容詞」を丁寧形で表現することが出来なくなりました。 そこで登場したのが「素晴らしいです」です。 ところがこれに対する賛成者は<少ないです>。 そして、それに加えて「過去形」までもが加わってきました。 「素晴らしっかったです」「よかったです」「楽しかったです」。 否定的な人々には、一層違和感が加わりました。 ではどう言えばいいのか。 「素晴らしゅうございました」「楽しゅうございました」 いくら何でも、そんな古めかしい言い方に戻れるものかという否定派は今もあります。 ところがここでまた、「素晴らしかったです」「よかったです」を、「素晴らしかったでしょう」「良かったでしょう」と、「う」をつければスラスラ通じてしまいます。 こんな話がこのサイトでも続けられてきました。 さて、今度の質問は「歌わないです」が間違っているという話。 これが、「美しくないです」だったらどうなるのでしょう。 「歌わない」の「ない」は打消の助動詞。 「美しくない」の「ない」は形容詞。 「形容詞」+「です」は間違いという人がいても不思議ではありませんが、「助動詞(ない)」+「です」はあっても、また不思議ではない。 (「ません」が普通ですが) 皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。 「歌わないです」について、間違った文だという質問が出ています。 (回答しようとしたらこの人からブロックされています。 どうしてブロックされたか全く心当たりがありません。 仕方なく、質問の形で話に加わります) 形容詞「素晴らしい」に「です」をつける言い方は、一部の人にあり得ないと判断されています。 これは本来、「素晴らしゅうございました」といったものです。 ところが「ございます」を使う人があまりいなくなって、「形容詞」を丁寧形で表現することが出来なくなりました。 そこで登場したの... A ベストアンサー こんにちは。 「形容詞+です」この問題は古くて新しい問題ですね。 私の思うに、はっきりした解決、というか、こうなれば落ち着く、ということの言い難い問題です。 文法の体系性という点で、小さな矛盾を含んでいると思うからです。 「用言+ないです」のほうでは、「ない」が2種、あるいは3種に分けられるということは、異論の少ない(いろいろ言う人はいますが)ところだと思います。 「形容詞」「助動詞」と、「補助形容詞」。 この点については、1311tobiさんが紹介された chiebukuro の解説がわかりやすく、私も勉強になりました。 (私は、意味がほぼ同じで活用などが同じなら、品詞をごちゃごちゃ議論することもないだろう、という怠惰な考えだったので、あまりまじめに考えたことがありませんでした。 要は、同じ語形が「多少」違った使い方をされるだけで、「基本的な」ところは一緒だろう、と思っているのです。 ) 皆さんが触れられていない点で、私が重要だと思うのは、「です」にも2種類ある、という考え方です。 これは、たぶん私の学生時代(ン十年前です)から言語学のほうではそうだったと思うのですが、確証はありません。 私はずっとそう考えてきました。 今回、改めて国語辞書の記述を見、辞書の付録の「助動詞活用表」などを見て、「です」が一つしかない(「丁寧な断定」という用法)ことにちょっと驚いたくらいです。 まあ、国文法の分析が言語学(少し前の「日本語学」)と違うのはよくあることですが。 かんたんに言えば、「名詞/形容動詞+だ/です」の「です 1 」と、「形容詞+です」の「です 2 」は違うものだ、という分析です。 (「形容動詞」を「ナ形容詞」と言い換えるのは、今回はやめておきます。 ) 上に書いたとおり、「です 1 」のほうは、「だ」の丁寧な形、です。 「断定」(この用語は好きではありませんが)の助動詞で、丁寧さによって形が分化します。 学生 だ/です まじめ だ/です それに対して、「です 2 」のほうは、「だ」とは対立しません。 つまり、「断定」の助動詞ではなく、「丁寧」の助動詞です。 (動詞文の「ます」に対応します) また、「です 1 」は活用を持ち、「でした/でしたら」という形になります。 学生でした 紅葉の名所でしたら、例えば、、、 (「でしょう」を活用形とは考えません。 「だろう/でしょう」は一語の助動詞と考えます。 ) それに対して、「です 2 」は活用を持ちません。 私は、「だ」と「なら」は、少なくとも現代語では、別物と考えます。 ) ということで、多少の言い訳を必要としながらも、形容詞文の丁寧体として、「美しいです」は一つの位置を与えられるわけですが、さて、それがなぜ「不自然/不安定」に感じられるのか、1131tobiさんによれば「厳密には誤用」と言われてしまうのか、です。 ちょっと話の流れを変えます。 日本語の文の分析法として、文を「命題+モダリティ」という形で考えるということがあり、かなり一般的になっています。 (国語学では「叙述+陳述」という、似た考え方が昔からあります。 ) これによれば、文の終わりには、話者(書き手)の、その文の内容に対する「断定」や「推量」など、話者の「意志」、あるいは聞き手に対する「命令」や「勧誘」、「確認」「質問」などの、ある種の「態度」が現れる、とされます。 これは、用言のいわゆる「活用形」や助動詞によって表されるわけです。 「ね」や「よ」などの終助詞もモダリティを表すとされます。 ここで問題になるのは、「丁寧さ」というのはモダリティなのか、ということで、どうも文法の中の位置づけが微妙なものです。 前からの呼び方では「文体」の一つの要素なのでしょうが、それは文を文として成り立たせる必須の要素、つまり「文法」の一部なのか。 で、私の考えでは、「形容詞+です」の不安定さは、この、「丁寧さ」が文を終結させるためのモダリティとしては不十分だ、というところにあるのではないか、となります。 「名詞/形容動詞+だ/です」の「です 1 」は、「断定の助動詞」に丁寧さが加わったもので、立派な(文を終結させる「力」を持った)モダリティですが、 学生/まじめ です(断定+丁寧) 「形容詞+です」の「です 2 」のほうは、「丁寧さ」だけの機能しかないので、 美しい(断定?)+です(丁寧) という形が、文の終わり方としてどうも安定しない、と感じられるのではないか。 「美しいです」が不自然だという人も、「美しいですか/ね/よ」などにすると安定するように感じる、というのはなぜか。 これに対するうまい説明は今のところないように思うのですが、どうでしょうか。 (単に私が知らないだけかも) 終助詞「か/ね/よ」が文終結のモダリティとしての機能を持つからだ、と考えるとうまく説明できます。 美しい+です(丁寧)+ね/よ/か(確認/主張/質問など) もちろん、「でしょう」をつけても、「でしょう」の持つ「推量(あるいは確認)」というモダリティによって文として安定します。 (たぶん)美しいでしょう。 (どうですか?)美しいでしょう? これは、世代が違ってもあまり変わらないようで、今の若い人も「形容詞+です」には何らかの不安定さを感じるようですが、どうでしょうか。 「「ね」や「よ」をつければ自然だから、変じゃないよ」というのは、上に述べたように「形容詞+です」の弁護にはなりません。 以上、私の考えをざっと述べてきましたが、ただ、「モダリティ」という概念は、研究者によってかなり幅があって、不用意に使われすぎている感があります。 この概念そのものの検討が必要であり、いろいろ行われているようですが、私は不勉強でよく知りません。 (さらに、「文が終わる」とはどういうことなのか、「文成立の要件」となると、もう、根本的な議論になり、わけがわからなくなります。 「文とは何か」ですから。 ) この「形容詞+です」の不安定さ加減は、話し言葉では語調によって文の自然さが変わってくるので、微妙です。 「どうですか?」「いやあ、なかなかがんばってますねえ。 面白いです!」 などと、ある種の強調を込めた言い方をすると、それなりに自然な文として成り立つように(私には)思われます。 (語調が(文終結の)モダリティの機能を肩代わりする? 語調が文の意味を変えることは、「ある。 」「ある?」など、ごくふつうのことです。 単に「歩く。 」と言うと描写あるいは意志に過ぎませんが、「(さっさと)歩く!」とある語調で言うと「命令」になります。 ) なお、「話しことば」と「書きことば」で、後者のほうが「正式な」ことば、「正しい文法」の基準になるようなものと考えることは、私はしません。 言語学の考え方では、話しことばのほうが言語として自然な形であって、書きことばはそれに何らかの人為的な手が加わっているものだと考えます。 (明治期の「言文一致運動」などを考えればよくわかることだと思います。 ) 言語の音韻や文法は、人間の意図とは別に、それこそ「自然言語」であって、自ずから文法の体系ができあがっていき、また変化をするものだと考えます。 「書きことばの文法」というのは、「規範文法」への傾斜を持ちやすく、「素晴らしい言語文化・言語芸術」がその後ろ盾になります。 そうすると、言語としての本来の自由さ・内発的なエネルギーが失われてしまいます。 それでも、話しことばはそんなことにかまわず、本来、内部にあった動きがどんどん現れてくるのだろうと思います。 それに対して、より以前の文法を持った世代がいろいろ抵抗感を持つことは、当然のことですが、それはまあ、時代の流れということで。 上に述べた私の考えは、「形容詞+です」に関しては、「単に新たな変化の一つで、そちらへ(いやでもおうでも)動いていかざるをえないもの」というのではなくて、文の作り方として少し無理があり、世代が変われば移っていくものとはかんたんに言えない、という見方です。 あと50年もしたら、どうなっているのでしょうか。 あまり変わらず、「ね」や「か」をつけて使われ続けているのでしょうか。 (「動詞+ないです」のほうも、興味深い現象ですが、これはまた別の話だと思います。 ) もう一つ、「国語審議会」が認めた、という話ですが、「これからの敬語」自体が国語審議会の答申の一つ、ということなのではありませんか?(今、「これからの敬語」のアドレスをコピーしようとしたのですが、なんと「メンテナンス中」だそうです!) 長くなりました。 最後まで読んでくださった方に感謝します。 saburoo こんにちは。 「形容詞+です」この問題は古くて新しい問題ですね。 私の思うに、はっきりした解決、というか、こうなれば落ち着く、ということの言い難い問題です。 文法の体系性という点で、小さな矛盾を含んでいると思うからです。 「用言+ないです」のほうでは、「ない」が2種、あるいは3種に分けられるということは、異論の少ない(いろいろ言う人はいますが)ところだと思います。 「形容詞」「助動詞」と、「補助形容詞」。 この点については、1311tobiさんが紹介された chiebukuro の解説がわかりやす... A ベストアンサー 一部のかたのコメントに勘違いがある気がします。 一般に「デアル体」といえば、「〜だ。 」という文末を含みます。 どちらも「デアル体」です。 「~と考える」という文末も「デアル体」です。 詳しくは下記のリンク先の表をご参照ください。 レポートは「デス・マス体」で書くべきか「デアル体」で書くべきか。 とくに指定がないのなら、どちらでも書いても構いません。 ただし、いくつかの理由があって「デス・マス体」で書くのはむずかしいので、おすすめできません。 質問者は、〈普通のレポートの場合、「である調」なのはわかっている〉のなら、なぜ〈自分の考えを論じる場合「である調」「ですます調」どちらが適切〉なのかと考えるのでしょうか。 答えは同じです。 とくに指定がないのなら、どちらでも書いても構いません。 ただし、いくつかの理由があって「デス・マス体」で書くのはむずかしいので、おすすめできません。 「デス・マス体」と「デアル体」の違い、「デス・マス体」で書くのはむずかしい理由に関して、詳しくは下記をご参照ください。 blog75. fc2. html 以下は一部の抜粋(重言)。 ===========引用開始 一般に、デス・マス体とデアル体には次のような違いがあるといわれます。 デス・マス体 デアル体 ていねい やや乱暴 説明調 論説調 冗漫 簡潔 ===========引用終了 どちらを選ぶのかは趣味の問題です。 一部のかたのコメントに勘違いがある気がします。 一般に「デアル体」といえば、「〜だ。 」という文末を含みます。 どちらも「デアル体」です。 「~と考える」という文末も「デアル体」です。 詳しくは下記のリンク先の表をご参照ください。 レポートは「デス・マス体」で書くべきか「デアル体」で書くべきか。 とくに指定がないのなら、どちらでも書いても構いません。 ただし、いくつかの理由があって「デス・マス体」で書くのはむずかしいので、おすすめできません。 質問者は、〈普通のレポート...
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