00 ID:Ep4uR5uh0. 47 ID:bZLty2uv0. 20 ID:sfyM06Aq0. 14 ID:r6W0Uz1J0. 55 ID:nZZXri460. 80 ID:eRHOI1LJH. 54 ID:nZZXri460. 39 ID:LKnCcbmr0. 94 ID:ZRrOPSIC0. 50 ID:xEijkOmLd. 60 ID:woyzRc2bH. 77 ID:pBKKq7vWd. 01 ID:OdhuAFin0. 97 ID:ZU3gb7h80. 38 ID:BSbHLKc60. 12 ID:DVjjWeIId. 73 ID:ac8McNe5M. 02 ID:LtaPd6tT0. 69 ID:vS1z5hj50. 46 ID:MmvYOR0cd. 16 ID:xEijkOmLd. 41 ID:8XMaPfPW0. 56 ID:0a9T522M0. 22 ID:qzsiH4hR0. 85 ID:i4gyoleQ0. 47 ID:xEijkOmLd. 05 ID:BJRsB8E9d. 90 ID:qj903JKta. 61 ID:hKvltCGG0. 77 ID:FXCG1z4La. 56 ID:sngGvHyU0. 79 ID:pfu9fgEl0. 43 ID:YakjWc6p0. 50 ID:yCVwbixB0. 91 ID:0a9T522M0. 88 ID:nPA0zPJI0. 63 ID:PbNakmyA0. 90 ID:NtXCtTuR0. 85 ID:9OICRttU0. 39 ID:vrRQjfZP0. 45 ID:35fADXBI0. 80 ID:woyzRc2bH. 07 ID:XC9RDMG1d. 28 ID:jWz87siS0. 71 ID:Gj8Qy6nup. 75 ID:nZZXri460. 80 ID:yehRdEjNM. 06 ID:hVWzusPaa. 72 ID:vHQXIGCo0. 09 ID:awi075b30. net ,. ::::i : ::! ::::::::::::::::::::: :: ヽ ,イ ::::::::::::::::::: ::l、 ヽ. ::i. ::::::::: :::::::::. ::::;;;:: :::::::::::.... ,ヽ l' 'l ノ,、,. 05 ID:I98Otpf20. 64 ID:BhDlkUN70. 33 ID:qds1d35FM. 03 ID:weSdKkv60. 25 ID:HgQQKGg70. 96 ID:p7DdzG5Rr. 88 ID:UBcjcqzOx. 52 ID:k7aCC4vn0. 98 ID:Ep4uR5uh0. 26 ID:vHQXIGCo0. 91 ID:weSdKkv60. 94 ID:qj903JKta. 13 ID:HgQQKGg70. 94 ID:LDtpgJv70. net 確かアフリカマイマイは、腹足綱柄眼目アフリカマイマイ科に分類される巻貝。 近縁種とともに世界最大の陸産巻貝の一種である。 本種を中間宿主とする寄生虫は、人間に寄生した場合、好酸球性髄膜脳炎を引き起こす危険があり、場合によっては死に至る。 触る、這った跡に触れる等してもこの寄生虫に寄生される危険がある。 25 ID:9OICRttU0. net だってこんなん輸入した奴がそこら辺を理解してるとは思えへんし... 02 ID:cjVr8lxhr. 69 ID:0a9T522M0. 74 ID:g4LEYRMaM. 25 ID:qeyUOM1yd. 99 ID:jWz87siS0. 54 ID:EBFVZqZp0. 75 ID:7ZA1CokA0. net 日本における本種が分布するいずれの島においても、食用目的で人為的に移植された経緯がある。 食用として1932年(あるい1933年)に、台北帝国大学の教授下條久馬一より、シンガポールから台湾への最初の流入が行われたんやで なお、本種を中間宿主とする寄生虫(広東住血線虫)は、人間に寄生した場合、好酸球性髄膜脳炎を引き起こす危険があり、場合によっては死に至る。 触る、這った跡に触れる等してもこの寄生虫に寄生される危険がある。 日本では植物防疫法により有害動物指定を受けており、分布地からの生体の持ち込みは原則禁止されており、世界各国でも本種の生体の持ち込みは禁止されている。 一方で外来生物法においても生態系被害防止外来種に指定されており、世界の侵略的外来種ワースト100 IUCN, 2000 選定種にもなっている。 34 ID:rikZ41Asp. 46 ID:0cxufxVCr. 47 ID:nZZXri460. 91 ID:HgQQKGg70. 83 ID:cjVr8lxhr. 59 ID:8i9N1bzBp. 30 ID:1hrx2VEX0. 48 ID:9yyisD94E. 33 ID:eRHOI1LJH. 44 ID:rvU2tBkw0. 63 ID:MWPHMVgl0. 74 ID:gFbp2Ieva. 76 ID:3c9dW1N7M. 45 ID:9OICRttU0. net とうもろこしばっか食ってる話は聞いたけどかこれは流石に嘘やろ... 31 ID:tSZ1EY3y0. 45 ID:R2X0hvNE0. 98 ID:rXAQdYqs0. 47 ID:Skrrx83Q0. 26 ID:8m1GCfVcd. 34 ID:pfu9fgEl0. 41 ID:7ZA1CokA0. net 沖縄県には1932年(昭和7年)以降に台湾経由で移入され、当初は養殖動物として厳重に隔離され、飼育されていたが、沖縄戦を機にこれらの飼育個体が野外に逸出した。 なお、台湾ではいまでも本種を養殖しており、一部ではあるが食用にしている人々もいる。 奄美大島へも、やはり食用として陸軍が持ち込んだ。 小笠原へはジャワ島から持ち込まれた。 沖縄県では逸出時期がちょうど敗戦直後の食糧難の時代であり、途方もなく大きな本種は当時県民の格好のたんぱく源になった。 しかしほどなく食糧事情は好転し、日本にもとより陸産巻貝を食べる習慣がなかったことや、外観が敬遠されるようになり、放置された個体が旺盛な繁殖力で爆発的に増加した。 28 ID:eEVHm4K60. 58 ID:nZZXri460. 05 ID:rXAQdYqs0. 65 ID:rZtCVT5u0. 04 ID:Mxrn7BaKd. 73 ID:50VMdnkY0. 48 ID:BqsI0V6Z0. 06 ID:eRHOI1LJH. 94 ID:Pme5fzyx0. 50 ID:eEVHm4K60. 36 ID:AiTxqWvE0. 34 ID:ShgNSI1la. 35 ID:TcIq7jTkd. 05 ID:yrQD6OMa0. 22 ID:rZtCVT5u0. 63 ID:9OICRttU0. 03 ID:UBcjcqzOx. 54 ID:lr2hsd6ga. 73 ID:xU8hbFrG0. 92 ID:3a3x2QuB0. net このEの反対のってどうやって出すん? 総レス数 141 23 KB.
次の生態 [ ] 一般に寄生虫というのは、にこっそり隠れており、がこれを気付かず食べることが多い。 しかしロイコクロリディウムは最終宿主に食べられるよう、積極的に中間宿主をに似せるところに特徴がある。 このの卵は鳥の糞の中にあり、カタツムリが鳥の糞を食べることでカタツムリの内に入り込む。 カタツムリの消化器内でして、となる。 さらに中に10から100ほどのを含んだ色鮮やかな細長いチューブ形状の( ブラッドサック broodsac と呼ばれる)へと成長し、カタツムリの触角に移動する。 なお、ブラッドサックは1つの寄生虫ではなく、動かない粒状のセルカリア(幼虫)を多数内包した筋肉の袋にしか過ぎない。 また、この芋虫状のブラッドサックは宿主が死ななければ、多数(10前後)見つかる場合がある。 袋であるブラッドサックは激しく脈動するが、その運動方法や制御方法はまだ分かっていない。 ブラッドサックが触角に達すると、異物を感じたカタツムリは触角を回転させて、その触角が、あたかも脈動するのように見える。 このような動きを見せるのは主として明るい時であり、暗いときの動きは少ない。 また、一般のカタツムリは鳥に食べられるのを防ぐために暗い場所を好むが、この寄生虫に感染したカタツムリは、おそらくが遮られることが影響して 、明るいところを好むようになる。 これをイモムシと間違えて鳥が捕食し、鳥の消化器内で、ブラッドサックからが放出され、成虫であるへと成長する。 つまり、カタツムリは中間宿主であり、鳥が最終宿主である。 ジストマはらしく長く扁平な体をしており、腹にがある。 鳥のに吸着して暮らし、体表から鳥の消化物を吸収してとしている。 が可能だが、でもできる。 鳥の直腸で卵を産み、その卵は糞と共に排出され、またカタツムリに食べられる。 では、の研究によりから L. perturbatum と L. paradoxum が、そしてから未記載種( L. passeri の可能性がある)が発見されている。 種 [ ] ブラッドサックの色彩・模様から種の区別が可能だが、ジストマはほとんど区別がつかないためによる同定が必要である。 ロイコクロリディウムに属する種は次の通り:• caryocatactis Zeder,• fuscostriatum ,• holostomum ,• melospizae• passeri• perturbatum Pojmanska,• vogtianum Baudon,• McIntosh, Urogonimus macrostomus , が L. macrostomumとされることがある。 Leucochloridium paradoxum [ ] ロイコクロリディウム・パラドクサムは19世紀初めにドイツで見つかった。 その後、ノルウェー 、 など各地で見つかっている。 中間宿主はの近縁種。 最終宿主は鳥一般であり、 Taeniopygia guttata から見つかった例がある。 Leucochloridium variae [ ] ロイコクロリディウム・ヴァリアエは北アメリカに住む。 、 、 などで見つかっている。 中間宿主は である。 最終宿主は 、 、 など。 画像 [ ]• Edwin J. Robinson, Jr. December 1947. provis. The Journal of Parasitology 33 6 : 467—475. Wesoowska, T. Wesoowiski,Journal of Zoology October 2013. Journal of Zoology. Issue 292, 2014: 151-5. Animal Diversity Web• 2019 , Volume 72, October 2019• Casey, T. Bakke, P. Cable November 2004. Systematic Parasitology. Volume 56, Number 3: 163-168. Bakke April 1980. Systematic Parasitology, Volume 1, Numbers 3-4. 189-202. Lewis, Jr. and Kelly Beers 1995. Journal of Parasitology, volume 81 1 : 112-114. Michael A. Hnida. 2008. Comparative Parasitology 75 2 :308-314. doi: 10. Bakke, Tor A. 1982. Zoologica Scripta 11 2 :87—100 doi:10. 1463-6409. 1982. tb00521. Hornbach. 1979. Journal of Parasitology 65 3 : 371-374• Fried B. , Beers K. , Lewis PD Jr. 1993 February. Int. Parasitol. 23 1 :129-131. 2010年7月4日, at the.. accessed 12 February 2009. 関連項目 [ ] 宿主の行動を操り、感染を拡大させる細菌など• () - アリに寄生し体を蝕みながら体を操縦し、植物の葉の裏側の太い葉脈に噛り付かせて固定。 頭から後ろに子実体を成長させ、そこから地上にいる他のアリに胞子を付ける菌類• - カマキリやバッタなどに寄生し、体の動きを制御する寄生虫• () - テントウムシをボディーガードとして操作する• - 全ての哺乳類に感染し、罹患することで攻撃性が増す場合があり、その動物が噛んだり舐めたりすることで感染を拡大する。 ・ - くしゃみ・咳を誘発し、飛沫感染によって感染を拡大する。 外部リンク [ ]• Paul D. Lewis, Jr. - The Journal of Parasitology, Vol. 60, No. 2 Apr. , 1974 , pp. 251-255• - の記事•
次のアンタル・ドラティの芸術 75CD 屈指の「オーケストラ・ビルダー」として知られたアンタル・ドラティは、どんなオーケストラが相手でも、楽員の実力を着実に引き出し、アンサンブルを的確に仕上げる見事な手腕の持ち主でした。 韓国のヒストリカル系レーベル、ARTISから登場するこのセットには、SP録音からステレオ録音まで大量に集められており、ドラティが巨匠風スタイルに落ち着く前の、エネルギッシュで推進力に富む演奏を中心に楽しむことができます。 このようなキャリアの流れは、実際の演奏時のトラブルへの対応力、財政面まで含む運営問題の解決力、レコード会社との交渉力などの向上にも結び付き、さらに数多くの客演や臨時編成アンサンブルとの付き合いによって育まれた強力な指導力によって、「オーケストラ・ビルダー」とも称えられる独自の個性を獲得することに繋がって行きます。 【オーケストラ遍歴】 コンサート・オーケストラの分野に本格進出したドラティは、下記、9つのオーケストラと特に深く関わって楽団の再建や演奏水準の向上に貢献し、レコーディング契約も獲得して多くの録音資産を遺してもくれました。 このセットでは、そのうちのミネアポリス響、ロンドン響、フィルハーモニア・フンガリカ、BBC響、ストックホルム・フィルの音源を聴けるほか、客演先との録音ということで、コンセルトヘボウ管、シカゴ響、フィラデルフィア管、ニュー・フィルハーモニア管、コヴェントガーデン王立歌劇場管、ハーグ・レジデンティ管、ウィーン響、コンセール・ラムルー管との演奏を聴くことができます。 ダラス交響楽団 音楽監督[1945-1949] 楽団再建、RCAと契約。 ミネアポリス交響楽団 音楽監督[1949-1960] 演奏水準向上、RCAの後、マーキュリーで数多くのアルバムを制作。 ロンドン交響楽団 客演指揮者[1956-1965] 演奏水準向上、マーキュリーで数多くのアルバムを制作。 フィルハーモニア・フンガリカ 名誉会長[1958-1988] 演奏水準向上、マーキュリーとデッカで数多くのアルバムを制作。 BBC交響楽団 首席指揮者[1962-1966] 演奏水準向上、コンサート・ホールでの公演数を増大。 ストックホルム・フィルハーモニー[1966-1974] 演奏水準向上、大規模なツアーを数多く実施。 RCAとデッカでアルバム制作。 ワシントン・ナショナル交響楽団 音楽監督[1970-1977] 楽団再建、デッカと契約して20世紀大作も含むアルバムを制作。 ロイヤル・フィルハーモニー[1975-1979] 楽団再建、デッカ、英ポリドール、ASVなどでアルバム制作。 デトロイト交響楽団 音楽監督[1977-1981] 楽団再建、デッカでアルバムを多数制作。 とはいえハンガリーの反ユダヤ法はドイツに較べればかなり緩やかなもので、たとえば音楽院のユダヤ系の学生数を、人口比に合わせた約6%に制限するという法律に対し、実際には約41%も在籍していたというような感じだったので、ユダヤ教徒ではなかったドラティは、姓の変更まではおこないませんでした。 しかし職場をドイツの公立歌劇場に移し、1933年にナチ政権が成立すると、姓の「ドイチュ」をハンガリー語の「ドラティ」に変更、以後は「アンタル・ドラティ」という名で過ごすこととなります。 ハンガリーは、「オーストリア=ハンガリー帝国」として長く親ユダヤ政策をとっていたこともあってか、ユダヤ系の優れた指揮者を数多く輩出しており、名前の問題はほかでも見受けられました。 たとえばショルティの元の姓はドイツ語の「シュテルン」、オーマンディの元の姓はドイツ語の「ブラウ」という具合で、世界各国で目立つようになってきた反ユダヤ主義勢力の攻撃を少しでもかわす狙いがあったようです。 ちなみに、祖国をあとにしたユダヤ系ハンガリー人指揮者たちは、ファースト・ネームを他国語仕様に変更する場合が多いのですが、ドラティは、フェレンツ・フリッチャイ[1914-1963]、イシュトヴァーン・ケルテス[1929-1973]らと同じくハンガリー語のままで、逆に、ハンス・スワロフスキー[1899-1975]はドイツ語のままでした。 有名どころでファースト・ネームを変えた人は以下の通りです。 父親のアレクサンダー(のちにシャーンドルに変更)・ドイチュ[1872-1949]はブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニストでユダヤ系、母親のマルギト・クンヴァルト[1877-1968]はピアノ教師で、ドイツ、オーストリア、フランスの血を受け継いでいました。 また、子供のころからチェロとピアノを学んでもいました。 オーストリア=ハンガリー帝国崩壊により、350年以上に及んだハプスブルク家によるハンガリー統治も終わりをつげ、「アスター革命」へ発展。 大統領はミハーイ・カーロイ[1875-1955 下の写真の左の人物]。 約3カ月の短命国家。 5カ月の短命国家。 「ハンガリー共和国臨時政府」誕生。 リスト音楽院、フランツ・リスト音楽院とも)に入学。 作曲、指揮、ピアノを、ゾルタン・コダーイ[1882-1967]、レオ・ヴェイネル、ベラ・バルトーク[1881-1945]、アルノルド・セーケイ[1874-1958]ほかに師事。 王位は空位。 国家元首として、国民議会が帝国海軍総司令官だったミクローシュ・ホルティ[1868-1957 下の写真の左の人物]を選出、24年7カ月に及ぶ緩やかな独裁政権を維持。 1944年10月にはハンガリーはナチ政権の支配下となり、ドイツ敗戦の1945年5月まで、「矢十字党」が傀儡ファシズム政権を運営、ホロコーストにも積極的に加担します。 オペラ指揮者 1924年から1933年までの9年間は、ドラティが歌劇場でコレペティトア(コレペティートア)としてオペラの修業を積み、主にオペラ指揮者として活躍した時期となります。 ドラティはまず地元ブダペストのハンガリー国立歌劇場でコレペティトアとして契約。 オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ一世が建設したハンガリー国立歌劇場は、かつてマーラーが音楽監督を務めたほか、のちにはフリッチャイやクレンペラーも音楽監督を務めた有名な歌劇場です。 ドラティはここで3年後には指揮者に昇格、翌1928年にはドレスデン国立歌劇場でフリッツ・ブッシュの助手を経験する機会にも恵まれ、その翌年にはハンガリー国立歌劇場をあとにして、ドイツのミュンスター歌劇場の第1楽長となり、ナチ政権樹立までの4年間をドイツのオペラ指揮者として過ごしています。 また、1941年にはニューヨークのオペラ団体「ニュー・オペラ・カンパニー」の音楽監督に就任。 オッフェンバックの『パリの生活』などを指揮しますが、翌年には「ニュー・オペラ・カンパニー」は解散したため、ドラティは同時期に契約していた同じニューヨークのバレエ団体「バレエ・シアター」に専念することになります。 ちなみに「ニュー・オペラ・カンパニー」のメンバーの多くは、1943年設立の「ニューヨーク・シティ・オペラ」に移ったので、「ニュー・オペラ・カンパニー」はその前身ともいえる存在になるかと思います。 なお、「バレエ・シアター」の方はのちに「アメリカン・バレエ・シアター」になっているので、ドラティは同じ時期に、のちに有名になるオペラとバレエの組織に関わっていたということになります。 歌劇場のコレペティトアからキャリアをスタートした指揮者は、作品の微細な部分から出演者と密接に関わったり、上演に際しての大小さまざまな問題に直面した経験から、人心掌握術と問題解決力に秀でた人物が多く、また、オペラの総譜をピアノに移す読み替え能力や、数多い出演者の歌唱スタイルをコーチして調整することで、大規模な作品でも常に隅々まで具体的に踏み込んでおり、そうした能力は、交響曲など声部の多い器楽作品でも十分に生かされることになると考えられます。 作曲家志望でもあったドラティは、指揮者としてはトスカニーニやフリッツ・ブッシュのようになるべく楽譜に忠実なスタイルを目指していたということで、実際に遺されたオペラ録音、たとえばバルトークの『青ひげ公の城』や、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』などを聴いても、無用な感情移入は見受けられませんし、ドラティならではの無駄なく引き締まった強靭なフォルムが何よりも見事な仕上がりとなっています。 また、楽譜に忠実なスタイルは、あまり知られていない作品の紹介にも最適で、ハイドンのオペラへの体系的な取り組みや、R. シュトラウスの『エジプトのヘレナ』の第2稿での録音といったプロジェクトに大きな説得力を持たせてもいました。 1929年まで在任。 ドラティはブッシュと良好な関係を構築、多くのことを学び、大きな影響を受けたと語っています。 ブッシュはこの7年後にはグラインドボーンでライトナーを助手に起用し、やはり多大な影響を与えていました。 のちに娘アントニアをもうけています。 ナチ政権誕生の1933年までの4年間指揮したほか、ドイツ、ハンガリー、チェコスロヴァキアの各地の歌劇場やオーケストラに客演しています。 舞台音楽の編曲・作曲と指揮を任されます。 1937年まで在任。 バレエ指揮者 1933年、ドイツを後にしたドラティは、隣国フランスでバレエ団の音楽担当という職を得ます。 大物ディアギレフが1929年に亡くなったあと、「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」が分裂して大小いくつかの団体を結成していましたが、ドラティはその中で最も規模の大きかった「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」と契約。 内外公演でのバレエ音楽を指揮したほか、新たに考案されたバレエの題材に合わせて既存曲を編曲・編集した作品をつくるなど、作曲・編曲も得意だったドラティの能力が役に立つことになります。 また、バレエ団では長期のツアーをおこなうことが多く、その場合、現地の楽団や音楽家と契約しての演奏となるため、指揮者には短期間で効率よく音楽を仕上げる手腕が要求されることが少なくありませんでした。 特に「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」の1936年から1937年にかけてのコヴェントガーデン王立歌劇場での成功は、ドラティがロンドン・フィルを指揮した音楽の方も評判となり、英HMVによってドラティ指揮ロンドン・フィルの演奏する一連のバレエ音楽のSPレコード制作がおこなわれることとなります。 「バレエ・リュス」の看板作品でもあった『シェエラザード』や『白鳥の湖』のほか、ストラヴィンスキーの『妖精の口づけ』、デランジェの『100回のキス』、ダルゴムイシスキーの『奴隷とジプシーの踊り』、ビゼーの『子供の遊び』、チャイコフスキーの『ハムレット』、そしてドラティがまとめた『美しき青きドナウ』など、どれも実際のバレエ上演の成功によって実現したレコーディングでした。 1938年になるとドラティは、「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」から分裂した団体「オリジナル・バレエ・リュス」と契約し、ワシリー・ド・バジル大佐[1888-1951]のもとオーストラリアなど海外ツアーにも同行して評価を高めます。 しかし1940年にドイツ軍がフランスに侵攻を始めると、ドラティは戦火を避けてアメリカに移住する道を選びます。 1941年、バレエ指揮者の実績を生かして、「バレエ・リュス」つながりの「バレエ・シアター」と契約。 これまでと同じく、音楽の指揮と編曲などを任され、オッフェンバックによる『青ひげ』や『トロイのヘレナ』、ムソルグスキーのオペラによる『ソロチンスクの市』といったバレエ音楽を編んだりもしていました。 1944年まで在任。 ちなみにこの「バレエ・シアター」は、ディアギレフの「バレエ・リュス」で踊っていたミハイル・モルドキン[1880-1944]がアメリカに移住して結成した「ニュー・モードキン・バレエ」のメンバーが脱退してつくった団体で、その後、次第に規模を拡大、やがて「アメリカン・バレエ・シアター」と名称を変更し、現在では世界有数のバレエ団として知られています。 なお、ドラティがバレエ専業指揮者を務めたのはこの「バレエ・シアター」が最後で、以後はコンサート指揮者としてバレエ音楽を取り上げることとなります。 オーケストラはロンドン・フィルで、公演の成功を機に、HMVがロンドン・フィルとバレエ音楽のSPレコードをいくつも制作することになります。 舞台音楽の編曲・作曲と指揮を任されます。 オーストラリア・ツアーにも同行。 1940年まで在任。 オッフェンバックの『パリの生活』などを指揮。 翌年まで在任。 舞台音楽の編曲・作曲と指揮を任されます。 1944年まで在任。 1949年まで在任。 ダラス交響楽団 1945年から1949年まで在任。 1937年、ドラティのアメリカ・デビュー公演に注目した音楽マネージャーのアーサー・ゲインズは、音楽監督を探していたダラス交響楽団にドラティを推薦しますが、楽団側は、有名人ストコフスキー[1882-1977]が推してきた彼の弟子でフィラデルフィア・ユース・オーケストラの指揮を始めたばかりだった27歳のジャック・シンガー[1910-1980]を音楽監督として採用します。 シンガーは地元ダラスの評論家ローゼンフィールドに叩かれたりしていたものの、ほどなく第2次世界大戦にアメリカが参戦して1942年には楽団の活動は終息、レコーディングもありませんでした。 1940年にアメリカに移住し、翌年からオペラとバレエの指揮に携わり、「バレエ・シアター」については1944年まで指揮をしていたドラティは、戦争が終わるとダラス交響楽団の音楽監督に晴れて就任。 楽員のほとんどが兵役に就き、人数不足とブランクによって楽団の演奏水準が低下しているなか、ドラティはきびしくトレーニングして楽団を立て直すことに成功。 しかし、ダラス交響楽団は当時無名、ドラティの知名度もまだまだ低く、しかもSPレコードの時期ということもあってかレコーディングは少なく、ルービンシュタインとのリストのピアノ協奏曲第1番 1947 に、カペルとのプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番 1949 、そしてバレエ指揮者時代のヒット作『卒業』 1948 、グラズノフの『四季』くらいしかありませんでした(すべてRCA)。 シュトラウス作品で編んだバレエ音楽『卒業』はドラティのお気に入りでもあったようで、その後、ミネアポリス交響楽団、ウィーン・フィルとも再録音しています。 また、演奏会動員数アップのため、バッハのカンタータの名旋律を管弦楽組曲にアレンジした編曲作品を2つ作ったほか、『ばらの騎士』の組曲ヴァージョンを自分で作ってとりあげてもいました。 この『ばらの騎士』組曲は自信作だったようで、1950年にフィラデルフィア管弦楽団とRCAにレコーディングしていたほか 発売当時はロビンフッド・デル管弦楽団という別名を使用 、1955年にはミネアポリス交響楽団とマーキュリーに録音、1983年にはデトロイト交響楽団とデッカに録音していました。 1960年まで在任。 ミネアポリス交響楽団 1949年から1960年まで在任。 ダラス交響楽団でオーケストラ・ビルダーとしての手腕を発揮したドラティは、今度はミトロプーロス[1896-1960]の後任としてミネアポリス響音楽監督に就任。 戦争によるダメージや、ミトロプーロスのロマンティックで自由な芸風もあって、合奏精度がいまひとつだったオーケストラを、ドラティはここでも鍛え上げ、短期間に演奏水準を向上させています。 その厳しい練習ぶりはかなりのものだったようで、トランペットのハッセルマンは、自宅の地下にサンドバッグを設置してストレス解消を図っていたと語っています。 演奏水準の上がったミネアポリス響にとって幸運だったのは、ドラティがRCAから乗り換えて契約を交わしたレーベルが、1945年に発足したばかりの新興レーベル「マーキュリー」だったことです。 このレーベルは当初から音質が良く、モノラル録音でも情報量が多いため、それまでのミネアポリス響の録音(米COLUMBIA等)とはまったく性格の異なるアンサンブル、作品情報の正確な表出を狙った解釈・演奏が聴けることとなり、レパートリーも拡大されて行きました。 このマーキュリー・サウンドは、設置方法にこだわったワンポイント方式のマイクロフォンからテープに記録されることで築かれたもので、それまでのドラティの録音が、HMVへのロンドン・フィルとのバレエ作品、RCAへのダラス響とのバレエ作品・協奏曲ともにSP盤への録音だったことから、ディテール情報が大幅に増しているのが大きな特徴ともなっています。 特に、クラシック界屈指のベストセラー盤である『1812年』によって知名度が大幅に向上してからは好調な売上が続き、ドラティの客演先も増えて、ミネアポリス響のほか、ロンドン響、フィルハーモニア・フンガリカともマーキュリーにセッション録音を実施、数多くの人気アルバムが制作されることになります。 以下、長期に渡ってマーキュリーに録音。 ベルワルド:交響曲第1番ほか。 シュトラウス II:春の声 ミネアポリス響 Disc24 ロンドン交響楽団 オーケストラの運営方法や助成金を巡るトラブルで、1954年にヨーゼフ・クリップス[1902-1974]が首席指揮者を辞任した後、1961年にモントゥー[1875-1964]が首席指揮者に就任するまでの6年間、ロンドン交響楽団の指揮は客演でまかなわれており、辞めたクリップスも1956・1957・1958・1960年に登場してレコーディングをおこなっていました。 ドラティは1956・1957・1959・1960・1961・1962・1963・1964・1965年に登場してマーキュリーへのレコーディングを指揮しており、クリップスのもとで良い状態になっていたロンドン交響楽団の精度をさらに向上させて、仕上げのかっちりとした演奏を聴かせていました(1958年の録音が無いのはフィルハーモニア・フンガリカに注力したため)。 なお、1963年4月にはロンドン交響楽団の来日公演に同行、ピエール・モントゥー、ゲオルク・ショルティと共に指揮にあたりました。 ドラティの指揮した曲目は、ヘンデルの『水上の音楽』、モーツァルト:交響曲第40番、チャイコフスキー:交響曲第4番というものでした。 ポール・クローデル[1868-1955]の詩による演奏時間95分の大作。 ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。 難民で指揮者のゾルタン・ロズニャイ[1926-1990]は、そうした音楽家たちの中から選りすぐってオーケストラ「フィルハーモニア・フンガリカ」を結成、ウィーン市は楽器と衣装を用意したほか、バーデン・バイ・ウィーンの「ホテル・エスプラナーデ」を練習会場として提供します。 若手ながらハンガリーでは歌劇場の音楽監督とコンサート・オーケストラの指揮者としてすでにキャリアを積んでいたロズニャイは、初代首席指揮者として「フィルハーモニア・フンガリカ」を短期間で鍛え、1957年5月28日、ソリストとしてヤーノシュ・シュタルケルを迎えてウィーン・コンツェルトハウスで第1回演奏会を実施しています。 その後、ロックフェラー財団とフォード財団などの支援を受けながらアメリカ・ツアーをはじめとして世界各地で演奏会をおこない、翌年には名誉会長にアンタル・ドラティを迎えてレコーディングも実施するなど(Disc34・38・40・44・63・67)、活動もさらに注目を集めることとなります。 1960年にはドイツ、ヴェストファーレン州の人口7万人の小都市マールがオーケストラを受け入れることとなり、西ドイツ政府から冷戦対策費の一環として補助金を支給されながら活動を継続、コンサートのほか、ハイドンの交響曲全集をメジャー・レーベルで初めてレコーディングするなどして知名度を高めて行きます(マイナーではエルンスト・メルツェンドルファー&ウィーン室内管がありました)。 しかし冷戦が終わると、西ドイツは東ドイツを抱えて国庫がひっ迫、冷戦も終わったことで助成金もすべて打ち切りとなり、演奏会収入の減少もあって、オーケストラの経営状態は悪化、結成から44年目の2001年に活動を終えています。 1966年まで在任。 1950年から1957年まで首席指揮者を務めたマルコム・サージェント[1895-1967]は、プロムスで優秀な興行成績をあげながらも、楽員と対立したため契約が更新されませんでした。 後任で1957年から1962年まで指揮したオーストリア生まれのルドルフ・シュヴァルツ[1905-1994]は、興行成績を3割近く落としてしまい、さらに1959年に着任したBBC幹部で音楽部門責任者のウィリアム・グロック[1908-2000]と衝突して契約の更新はおこなわれませんでした。 楽団の水準が戦前の状態に戻っていないことを危惧したグロックは、新しい首席指揮者としてオーケストラ・ビルダーと評判のドラティと契約。 ドラティは楽団を鍛えるだけでなく、放送番組とプロムスに偏っていた活動内容を、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでの演奏会を増やすことで士気を高め、また、グロックは経営陣を説得して予算を拡大、クラリネットのジャック・ブライマーやオーボエのテレンス・マクドナーといった優秀な首席奏者を確保するなどの対策も打ち出し、ドラティ/グロック体制は軌道に乗り、1965年にはアメリカ・ツアーもおこなって成功を収めていました。 任期中の最後の演奏会では、ドラティ自作の『5楽章の交響曲』と『マドリガル組曲』もとりあげています。 パーセル:弦楽の為の組曲、ヘンデル『水上の音楽』組曲、ボイス:交響曲第5番、モーツァルト:交響曲第40番、ベートーヴェン:交響曲第3番、第5番、ブラームス:交響曲第2番、チャイコフスキー:交響曲第4番、バルトーク:管弦楽のための協奏曲を演奏。 CD化済み。 就任から間もなく、ヨーロッパ・ツアーをおこないます。 ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 1966年から1974年まで在任。 ハンス・シュミット=イッセルシュテット[1900-1973]の後任。 ドラティが最初にストックホルム・フィルを指揮したのは1953年のベルワルドの交響曲第1番などをとりあげていました。 シュミット=イッセルシュテットのもとで、楽団の水準が良い状態に保たれていたこともあり、就任から間もなく、ドラティは楽団とパリやリューベックを回るヨーロッパ・ツアーをおこないます。 1968年にはストックホルム・フィル初となるアメリカ・ツアーも実施。 翌1969年には、プラハ、東ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒなどを回る東ヨーロッパツアーを実施。 翌1970年には、第2回アメリカ・ツアーを実施。 同年にはエディンバラ音楽祭にも出演し、合唱団も同行させてドヴォルザークのレクィエムを演奏しています。 1973年にはハンブルクやウィーンを回るツアーを実施、シベリウスの交響曲第2番や、ルーマンのドロットニングホルムの音楽、バルトークの管弦楽のための協奏曲などを披露しています。 ドラティのストックホルム・フィルでの活躍は目覚ましく、アラン・ペッテションの交響曲第7番と第8番やヘルマンソンの交響曲第1番の初演をはじめ、自作も含む20世紀作品を数多く取り上げたほか、ルーマンなどスウェーデンのバロック作品までカヴァー、8年間で約250回の演奏会を指揮しており、退任後も客演を繰り返して、生涯の共演回数は計320回に及んでいました。 また、亡くなる直前にもアラン・ペッテションとブラームスの交響曲を録音する計画がありましたが、体調の悪化により実現していません。 1972年まで。 膨大なハイドンの交響曲を、比較的短期間のうちに全集にまとめあげた歴史的力作。 収録時期が近いため、作風の時系列的変遷や、グループ別の比較など容易に行なえるのが特徴で、全曲揃って高水準な演奏もあって、その資料的・音楽的価値はまさに絶大。 指揮者のアンタル・ドラティ[1906-1988]は、ハンガリーの生んだ名指揮者で、2006年に生誕100周年を迎えたということで記念盤もリリース、再び注目を集めています。 そのオーケストラ・ビルダーとしての実力はいまだに評価が高く、このハイドン全集はじめ、師のバルトークやコダーイの作品のほか、ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、ワーグナーからペッテションにいたるまで、多くの作品で辣腕ぶりを発揮していました。 ハイドンでは交響曲の成功を受けて、CD20枚 Vol. 1、Vol. 2 に及ぶオペラの大量録音もおこなっており、この作曲家の権威としての存在感を強く示して圧倒的です。 1977年まで在任。 CD化済み。 ワシントン・ナショナル交響楽団 1970年から1977年まで在任。 ハワード・ミッチェル[1911-1988 在任:1949-1970]の後任。 ワシントン・ナショナル交響楽団は、大恐慌時代の1931年に設立。 当時、アメリカの主要都市にはそれぞれ立派なオーケストラがあったにも関わらず、首都ワシントンはまだだったというところに着目した元フィラデルフィア管弦楽団のチェロ奏者で、たまに指揮もしていたオランダ人のハンス・キンドラー[1892-1949 在任:1931-1949]が設立を呼びかけて結成。 戦前・戦中の愛国ムードの中、数々の国家行事などでの演奏も任されるようになって、順調なスタートでしたが、戦後、平時になるとキンドラーの健康状態の悪化と共にオーケストラの運営状態も悪化、キンドラーが亡くなると同楽団でチェロを弾いていたミッチェルが指揮者となり、なんとか演奏活動を継続という状態でした。 ドラティが音楽監督に就任した時には、運営状態は悪く破産の可能性も孕んでおり、賃金の支払いを巡って楽員のストライキなども発生しているという状態でした。 ドラティはまずオーケストラを鍛え上げて、通常のコンサートの水準を大幅に引き揚げ、さらに当時すでに懇意だったデッカと契約してレコーディングも開始、合唱を含む20世紀音楽の大作も含めたリリースを重ね、レコーディング収入も獲得、演奏会収入も上向きとなり、オーケストラの財政的な危機は回避されます。 しかし1975年3月、前年にソ連から亡命してきたチェロ奏者のロストロポーヴィチが指揮者として客演、冷戦時代の首都での演奏会ということもあって大きな話題となり成功を収めると、楽団側は3週間後にはロストロポーヴィチを次期音楽監督にすることに決定。 ドラティの契約任期は1980年まででしたが、1974年にドラティがロイヤル・フィルの音楽監督を兼務し始めたことや、デトロイト交響楽団、クリーヴランド管弦楽団、ローザンヌ室内管など客演が増えたこともあってか、楽団側はドラティの退任時期を3年間早めることとし、ロストロポーヴィチの着任を1977年としています。 ハイドン作品のエキスパートで、ドラティとはたびたび共演していました。 CD化済み。 作風はメシアン最大規模の作品にふさわしい凝ったもので、「鳥の声」の概念が多面的に取り込まれるほか、ギリシャやインドといった異国趣味、複雑極まりないリズム、対位法、過激なまでの大音響、美しいチェロのソロや、合唱による崇高なコラールなど、数多くの要素がモザイク的にせめぎあって、圧倒的な感銘を与えてくれます。 カミュの『ペスト』をもとにした合唱を伴う音楽劇的作品で、死神的な世界を展開。 シェーンベルクの薫陶を受けながらも、カタルーニャの音楽を常に意識し続けた作曲家で、ここでもおそろしい音楽描写にぞっとさせられます。 ヴェルディの『ドン・カルロ』でもおなじみのスペイン国王フェリペによるプロテスタントなどの弾圧を描いた作品。 ダラピッコラはオペラ『囚われ人』に、自身で体験した第2次世界大戦時のファシズムとその横暴を重ねて描いているとも言われており、大規模なオーケストラ、オルガン、合唱、舞台裏で鳴らされる鐘のグループなどと独唱者たちが織り成す音響には凄みがあり、特にこのドラティ指揮によるデッカ録音の音質の良さは、作品の魅力を初めて明らかにしたと絶賛されたものでした。 独奏は1971年に結婚したイルゼ・アルペンハイム。 1979年まで在任。 プロデュースはブライアン・カルヴァーハウス。 同じくポリグラム傘下のドイツ・グラモフォンやコントゥアー、メトロノーム、マーキュリーなどからも廉価発売。 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1975年から1979年まで在任。 ルドルフ・ケンペ[1910-1976]の後任として、1975年に4年契約で音楽監督に就任。 ビーチャム[1879-1961]が創設した「ロイヤル・フィル」は、ビーチャム亡きあと、ケンペの時代に財政難に陥り、主要な奏者が退団するなどして演奏水準が低下、ケンペも1963年に解任されていますが、1966年には財政のめどが立ち、再びケンペを首席指揮者として契約。 しかし、ケンペは、1965年にチューリッヒ・トーンハレ管と首席指揮者契約を結び 1972年まで 、1967年にはミュンヘン・フィルとも首席指揮者契約を結んでおり 1976年に死去するまで継続 、ロイヤル・フィル首席指揮者とはいえ全力投球というわけにはいかない事情もありました。 ということで、その間にオーケストラの実力はさらに落ちてしまい、ドラティが首席指揮者を引き継いだ時には士気もかなり低い状態にありました。 しかしドラティは諦めず、厳しい指導によって楽員のスキルを高めて合奏精度も上げ、レコーディングの仕事ももたらしました。 ロイヤル・フィルとは、英ポリドールにベートーヴェンの交響曲全集、英ASVにストラヴィンスキー『火の鳥』、英デッカにオルフのカルミナ・ブラーナ、ハイドン:オラトリオ『天地創造』『四季』『トビアの帰還』、プロコフィエフ『ピーターと狼』を録音しています。 なお、音楽監督は1979年までの契約でしたが、ドラティはその後も客演を続け、1988年、亡くなる半年前にも『ミサ・ソレムニス』を指揮するなど関係は良好でした。 1981年まで在任。 デトロイト交響楽団 1977年から1981年まで在任。 デトロイト交響楽団は、ポール・パレー[1886-1979、在任期間:1951-1962]の築いた黄金時代のあと、シクステン・エールリング[1918-2005、在任期間:1963-1973]、アルド・チェッカート[1934- 在任期間:1973-1977]の時代は、デトロイトの街の衰退に合わせるかのようにチケット売上も減少し、レコーディングの機会も無くなるなど低迷が続いていました。 しかしドラティはいつものように厳しいトレーニングで演奏水準を全盛期のレヴェルにまで回復すると、オーケストラの起死回生のプランとして、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏の様子を撮影して、アメリカの公共放送ネットワークであるPBSチャンネルで放映する計画を立てます。 そのために、フォード自動車から325,000ドルの助成金を獲得することにも成功し、1978年に順調なスタートを切ることになります。 当時ハイドン・シリーズの好調なセールスなどで親しい関係にあったデッカは、デトロイト交響楽団とのレコーディングにも乗り出し、1978年4月には、ドラティの名を一躍有名にした縁起の良い作品『1812年』を録音します。 エンディングにはフィラデルフィアの自由の鐘と、ワシントンの国立大聖堂の鐘、および南北戦争で使われたカノン砲が用いられるなど話題性も抜群の録音でした。 もっとも、ドラティの指揮そのものは20年を経たこともあってか、巨匠風な落ち着いたものとなっており、ヨーロピアンな洗練と重厚さといったサウンドで、ミネアポリス盤とは別な境地を描き出しています。 ドラティは以後もデトロイト交響楽団とデッカへの録音を続け、シマノフスキ、ドヴォルザーク、コープランド、ストラヴィンスキー、バルトーク、リヒャルト・シュトラウス、グローフェ、リスト、ラヴェル等々、落ち着いた演奏スタイルによって数多くの優秀録音盤を生み出しています。 マーラー:交響曲第1番、バルトーク:『中国の不思議な役人』組曲、ハイドン:交響曲第104番、『無人島』序曲、夫人アルペンハイムのソロによるハイドン:ピアノ協奏曲、ブラームスのハイドン変奏曲を演奏。 ハイドン変奏曲はマーキュリーのロンドン響盤は17分36秒でしたが、ここでは19分55秒かけてじっくりやっています。 ただしイギリス人ではないので、使用する場合は「サー・アンタル・ドラティ」ではなく「アンタル・ドラティKBE」という形になります。 1987年まで在任。 17の演奏会を指揮しています。 マーラーの交響曲第9番を指揮。 CD化済み。 スミソニアン・コンチェルト・グロッソほかとの演奏。 CD化済み。 初演は翌年4月24日にギュンター・ヘルビヒ指揮デトロイト交響楽団によっておこなわれています。 ドラティ80歳記念バースデイ・コンサート。 ブライトン・フェスティヴァルでのドーム・コンサート。 ベルリン公演CD化&ドレスデン公演DVD化済み。 14 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 9 ミネアポリス交響楽団 録音: Jan. シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 Op. シュトラウス:『ばらの騎士』組曲 Op. 59, TrV 227 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』 Op. シュトラウス:交響詩『死と変容』 Op. 24, TrV 158 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 20 全曲 ラファエル・ドルイアン ソロ・ヴァイオリン ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 71 全曲 University of Minnesota Chamber Singers ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. Paul Ian Morton director ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 4 Sz. 34 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 97 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 72b ミネアポリス交響楽団 録音: Feb. 93 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 100 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. シュトラウスII:春の声 Op. シュトラウスII:ウィーンのボンボン Op. シュトラウスII:シャンパン・ポルカ Op. シュトラウスII:芸術家の生活 Op. シュトラウスII:南国のバラ Op. 388 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』, Op. 40 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 45 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 49 Bronze Cannon 1761 , Starsbourg, France, courtesy of U. Military Academy, West Point, N. Bells of Harkness Memorial Tower, Yale University ミネソタ大学ブラス・バンド ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. シュトラウス II:バレエ組曲『卒業記念舞踏会』 編曲. シュトラウス II:春の声 Op. 410 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 35 ラファエル・ドルイアン ソロ・ヴァイオリン ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 34 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 79 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 73 ミネアポリス交響楽団 録音: Dec. 90 ミネアポリス交響楽団 録音: Oct. 80 ミネアポリス交響楽団 録音: Nov. 73 シカゴ交響楽団 録音: Jan.
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