ベンガル料理に興味のある人以外には、まったく馴染みの無い言葉だと思いますが・・ パンチフォロンって知ってますか? パンチフォロンは、ベンガル料理で使われるマサラ(スパイス)の事で、主に東インドやバングラディッシュ、ネパール南部で使われているスパイスです。 ベンガル料理だけでなく、一部ネパール料理や、オリヤ料理、マイティリー料理、アッサム料理などでも使われてるようです。 (オ・・オリヤ?マイティリー??と思ったのは、あなただけではありません) このパンチフォロンが使われている地域って・・完全に私の好きなカレーのあたりなんすよね。 特に山の方。 パンチフォロンとは パンチフォロン(panch phoron)の、パンチはマイティリー語で5の意味で、フォロンはスパイスの意味です。 つまり5つのスパイスと言う意味。 (マイティリー語ってどこの言葉だよって思ったので、調べてみたら「インドビハール州のほか、ネパール南部で話されている」らしいです。 ) パンチフォロンに使われるスパイスは、通常「フェヌグリーク・ニゲラ・クミン・マスタード・フェンネル」のいずれも種を丸ごと使います。 丸ごとと言うのが特徴で、パンチフォロンは砕いたりせず、 必ずホールのまま使います。 基本はこれらの5つのスパイスを同量混ぜて使うんだけど、人によっては軽度の苦みのあるフェヌグリークだけ少なめに配合したりするそうです。 また、マスタードの代わりに、radhuni(アジョワンの近類、セロリの種に似ている)というスパイスを使う事もあるらしい。 パンチフォロンは、主に野菜料理や豆料理に使われるって書いてあるサイトがあったので、ヒング的な感じなのかな??とも思ったけど、英語版のWikipediaには「野菜・鶏肉・牛・魚・レンズ豆・ピクルスなどで使用されています。 」って書いてあって、それってどんな料理にも使いますって事じゃないの??って思うのですが、どうなのでしょうか・・。 で、パンチフォロンは、マスタードオイルかギー(バターの一種)に投入して使います。 sponsored link パンチフォロン〜それぞれのスパイス〜 パンチフォロンに含まれる基本の5スパイスについて。 フェヌグリークシード(メティ) は、アーユルヴェーダにも出て来る重要なスパイスで、漢方としても使われています。 抗炎症作用や鎮痛作用があるとされる。 メープルシロップの様な甘い香りが特徴って言われているけど、メープルシロップかなぁ?? とにかく美味しそうな香りがするんだけど、実際に食べてみるとちょっと苦くて、生の豆を食べるような味。 ニゲラシード(カロンジ) は、ほとんど知られていないスパイスで、ブラッククミンと呼ばれる事もあるけど、クミンとは全くの別物。 消化促進や抗菌作用がある。 見た目は真っ黒なごまみたいなやつで、若干苦みがあるスパイス。 クミンシード(ジーラ) は、インドカレーの必須スパイスで、油に香りを移してから使う事が多い。 食欲増進効果や消化促進効果がある。 マスタードシード は、おでんのカラシとか、ホットドックにつけるマスタードとかの、アレです。 ホワイト・イエロー・ブラウン・ブラックなどの種類があって、色が濃い程辛いらしい。 通常パンチフォロンには「ブラックマスタードシードを使う」と書かれたサイトと、「ブラウンを使う」と書かれたサイトがんだけど、見た目はブラウンぽいので、私はブラウンを使用中。 (てゆうかブラウンをブラックって呼ぶ事もあるっぽい。 ) フェンネルシード は、魚料理によく使われる爽やかでスーッとする様な香りのスパイス。 口臭予防や、消化促進効果があります。 インドカレー屋のレジ脇には、砂糖をコーティングしたフェンネルシードが置いてある事が多い。 パンチフォロンの作り方 作り方は・・5つのスパイスを同量ずつ混ぜるだけです。 簡単に作れるけど、スパイスを揃えるのがちょっと大変。
次の風狂の歌びと バウルがベンガル社会にあたえているイメージは、わざと社会の規範からはずれようとする狂人のイメージである。 バウルはカーストやカースト制度をいっさいみとめない。 またバウルは、偶像崇拝や寺院礼拝をいっさいおこなわない。 彼らの自由奔放で神秘主義的な思想は、世間の常識や社会通念からはずれることがあり、人びとからは常軌を逸した集団とみなされることがおおいのである。 実際に、ベンガル語の「バウル」という語は、もともと「狂気」という意味である。 バウルの歴史がどこまでさかのぼれるかは不明である。 しかし中世のベンガル語の文献では、バウルという語は、牛飼い女のゴーピーがクリシュナに恋をしたように、「(神に恋をして)狂気になった人」という意味でつかわれはじめている。 たとえば、16世紀のベンガルの熱狂的な宗教運動の指導者チャイタニヤ(Caitanya 1485-1533)の伝記には、「我、クリシュナのはてしなき甘露の海にさまよい、狂気(バウル)となれり」といったような文脈でしばしばでてくる。 しかしバウルという語が、そのころに狂人のような宗教的態度の「個人」をさしていたのか、あるいは「宗派」としての意味をもちはじめていたのかどうかは、まったくあきらかでない。 現代のベンガルでは、バウルという語にはまだ「狂気」というふかい意味がひそんでいるが、その語はもっぱら「バウルの歌と音楽を伝承する一群の人びと」、あるいは「バウルの歌と宗教を伝承する一群の人びと」をさす、といってさしつかえない。 このような、バウルという語の語源や中世の文献での使われ方、そして現代での意味合いやイメージを考慮して、ベンガルのバウルのことを、「風狂の歌びと」とでも名づけておこう。 マドゥコリの生活 さて、そのバウルとよばれる「一群の人びと」が、いったい何人いるのかあきらかではない。 インド政府が10年に一度おこなう国勢調査の数字にあらわれてこないほど、バウルは少数である。 それにもかかわらず、バウルはベンガル社会で、はっきりと目立つ存在なのである。 バウルがベンガル社会で目立つのは、彼らのライフスタイルが、一般のベンガル人のそれとは根本的に異なっているからである。 そのちがいは、「生活費の稼ぎ方」である。 バウルは、世俗的な意味で非生産的である。 彼らは農業労働や工業生産、手工芸作業、商業活動などに、いっさい従事していない。 バウルは、一般のベンガル人に経済的に依存し「マドゥコリ」をして生活費を稼いでいるのである。 ベンガル語の辞書は、「マドゥコリ」という語を、「蜂が花から花へと蜜を集めるように、一軒一軒物乞いをして歩くこと」と説明している。 すなわち、ベンガルのバウルとは、「みずからバウルと名のり、バウルの衣装を身にまとい、門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことである。 バウルは、世捨て人のようなゲルア色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼いでいるのである。 バウルの道 マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、また「バウルである」ためにも不可欠の要件である。 これは彼らが選んだライフスタイルである。 そしてこのライフスタイルそのものが、彼らが主張する「バウルの道」(バウル・ポト)の基本なのである。 バウルの道とは、「マドゥコリの生活にはじまり、神との合一という究極の目標にいたる道」である。 それは「人間の肉体は、真理の容器」という彼らの信仰に基づいている。 この信仰をもうすこし整理すると、ふたつの原理に分解できる。 (1)人間の肉体は、宇宙にあるひとつの「もの」であるだけでなく、宇宙の「縮図」である。 (2)人間の肉体は、神の「住処」であるばかりでなく、神を実感するための唯一の「媒介物」である。 つまりバウルは、人間の肉体を小宇宙とみなし、みずからの肉体に宿る神と合一するために、みずからの肉体を駆使して「サドナ」(成就法)とよばれる宗教儀礼を実践するのである。 このサドナには、ヨーガの呼吸法や坐法を通じておこなわれる性的儀礼や、宇宙を構成する五粗大元素(すなわち「地」、「水」、「火」、「風」、「空」)を、人間の器官や分泌物にたとえておこなわれる儀礼などをともなう。 そして、サドナに関することがらは、もっぱらグル(師)から弟子へ、こっそりと伝えられるのである。 バウルの歌 バウルの宗教はバウルの歌に表現されている。 しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいので、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」(サンダー・バーシャー)が使用されている。 つまりバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかくに隠された「真の意味」を表現するために、暗号のような語句や表現が意図的に使用されているのである。 このためバウルの歌は部外者にとっては難解で、いくつもの解釈が可能であったり、あるいは意味不明のことが多い。 その反面、部内者には「なぞ解き」をするようなおもしろさがあるといわれる。 ときどき夕方などに、グルのアーシュラム(庵)に弟子たちが集まってくることがある。 そこでもサドナについて議論されることがあるが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてである。 彼らはバウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのである。 しかし、歌の「真の意味」は秘密とされ、議論はグルとその弟子たちのあいだにかぎられるのである。 【次ページに続く】.
次のベンガルの宗教文化の歴史とその遺産 バングラデシュは、ポッダ川(ガンジス川)やジョムナ川(ブラフマプトラ川)、メグナ川が織りなす肥沃なデルタ地帯の下流域、歴史的にはベンガル地方と呼ばれるインド亜大陸の東部地域に位置する。 本稿では、今日のバングラデシュの社会・文化が形づくられる背景としての、ベンガル地方の宗教文化の歴史を概観する。 人々の間で育まれてきた多様な宗教文化の伝承を、ベンガル地方の地域社会の歴史に位置付けて、現代のバングラデシュに受け継がれる豊かな知的遺産の系譜を見てゆきたい。 1.古代仏教が栄えたベンガル 紀元前6世紀から繁栄するマガダ王国は、今日のインド・ビハール州南部からベンガル地方に展開し、仏教の開祖ゴータマ・ブッダや、ジャイナ教(「勝利者の教え」という意味)の開祖マハーヴィーラが活躍した古代王国として知られる。 やがて、パータリプトラ(現インド・ビハール州都パトナ)を王都とする古代帝国マウリヤ朝(前4-前2世紀)が興り、チャンドラグプタ王(在位、前317-前293年頃)によって、アフガニスタンの東部を含む北西インドからデカン高原まで、インド亜大陸のほぼ全域をカヴァーする古代帝国を打ち立てる。 政治論の古典として名高い『実利論』(アルタシャーストラ)の作者とされるカウティリヤは、チャンドラグプタ王の宰相であった。 チャンドラグプタ王の孫アショーカ王(在位、前268-前232年頃)の時代にマウリヤ朝は、現在のインド・オリッサ地方のカリンガ王国を征服し、最大版図を獲得する。 この戦争で、アショーカ王は殺生の無益さを自覚し、その政治理念を仏教のダルマ(法)に求めて法勅として発布し、各地の摩崖や石柱に刻んだ。 次のグプタ朝(320-550年頃)は、やはりパータリプトラを王都とし、北インド一帯から南インドまでを統一する大帝国を建設する。 官僚制度を整備し、徴税機構を再編し、貨幣経済の発達を促すことで、北インドの諸都市は繁栄する。 歴代の王はヴェーダ祭式を行い、バラモン司祭を重用したが、工芸や建築に優れたグプタ様式は、特にアジャンター・エローラ石窟の仏教美術で知られる。 8世紀中頃から12世紀には、ベンガル地方からビハール州にかけて、パーラ朝が興る。 パーラ朝の王家は仏教に帰依し、ダルマパーラ王(在位、770-810頃)の治世にインド最大の勢力となる。 パーラ朝のもとでタントラ仏教と呼ばれる後期大乗教、あるいは密教が発展し、パーラ朝様式と呼ばれる仏教美術を生み出す。 王家が寄進を行ったナーランダーやヴィクラマシラー(ともに現ビハール州内)、またバングラデシュ領内のパハルプル(ソーマプラ僧院)などの僧院遺跡から、当時の仏教文化の繁栄がうかがえる。 中国の玄奘三蔵(602-664)や義浄(635-715)もこれらの僧院を訪れ、ネパール、チベット、東南アジアからも多様な留学僧が集まり、学芸の交流が深まった。 2.ヒンドゥー教とベンガル 11世紀末から13世紀中頃には、ノボディープ(現インド西ベンガル州ノディア県)を王都とするセーナ朝が興る。 ヒンドゥー教を庇護したセーナ朝は、12世紀半ばにはベンガル全域を版図におさめる。 しかし、第五代ラクシュマナ・セーナ王(ロッコン・シェン、在位1178-1205年頃)の末期に、バクティヤール・キルジーがノボディープに侵攻し、現在のバングラデシュ・ダッカ近郊のビクラムプル(現ムンシゴンジ県)に拠点を移す。 セーナ朝のもとでは、ヴィシュヌ派のサンスクリット宗教詩『ギータ・ゴーヴィンダ』(牛飼いの歌)の作者で知られるジャヤデーヴァが活躍するなど、ヒンドゥー教にちなんだ文学や芸術が発展する。 他方、王権の庇護を失った仏教は徐々に衰退するが、民衆レベルでは仏教の密教化やヒンドゥー教との習合が進み、10~12世紀の密教行者の伝承を集めたベンガル語の宗教詩『チョルジャ・ギティ』が生まれる。 これは、ベンガルの最古の宗教文学としてベンガル語の源流とされるとともに、バングラデシュの無形文化遺産として知られる今日のバウルの歌謡伝承にもその影響を見ることができる。 3.イスラームとベンガル バクティヤール・キルジーの登場で、ベンガルにはイスラーム王権の支配が及び、新たな時代がはじまる。 1576年にベンガルはムガル帝国(16世紀中-1858)の版図に入り、ベンガルに派遣された太守(ナワーブ)のもとで、地方のヒンドゥー勢力は在地領主として統治に組み込まれる。 イスラーム建築や北インド様式の宮廷音楽が発達し、民衆宗教の世界では、土着のヒンドゥー文化と習合したスーフィー聖者への信仰が広まる。 スーフィーはアラビア語の「スーフ」(羊毛)に由来し、元来は粗衣粗食で遍歴する修行者を意味し、イスラーム世界では広くみられる多様な聖者信仰の伝統である。 スーフィー聖者は固有の儀礼体系や思想を通してイスラームの教えを実践し、それを地域社会の人々に広めた。 特に、ベンガル地方でのスーフィー聖者の活躍は、偶像崇拝を否定するイスラームと、多神教的世界のヒンドゥー教という両極の世界を媒介する存在として、人々へのイスラームの布教に大きな役割を果した。 たとえば、仏教とヒンドゥー教に、イスラームのスーフィー思想が習合したバウルの伝承や、現世利益を求める庶民信仰の受け皿として機能してきた各地の聖者廟など、現代バングラデシュの民衆信仰の世界でも、今も様々に見ることができる。 他方、ベンガルのヒンドゥー社会では、バクティ信仰と呼ばれるクリシュナ神への帰依と献身を説くヒンドゥー教ヴィシュヌ派の聖者チャイタニヤ(1486-1533)が活躍する。 賑やかな楽曲とともにクリシュナ神の御名を唱えて行列を組むキールタン(キットン)などの民衆的なヒンドゥー教を実践し、それはインド全域のヒンドゥー社会に広く影響を与えた。 仏教を庇護したパーラ朝や、ヒンドゥー教を庇護したセーナ朝など、ベンガルは歴史的に多様な宗教文化が栄えたが、13世紀に開始されるイスラーム化は、イスラーム王権の成立やスーフィー聖者を媒介とした多様なイスラーム文化を地域社会に浸透させた。 イギリスの植民地統治が本格化する頃には、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)の人口はほぼ拮抗し、特に東ベンガル地方は、英領インドでも最もムスリム人口が集住する地域となっていた。 4.植民地支配とベンガル ムガル帝国時代のベンガルは、インドの肥沃な穀倉地帯と呼ばれ、その富を求めてインド西部のマラータ軍が侵入を繰り返し、17世紀以降はヨーロッパ勢力の進出が顕著になる。 ポルトガル人、オランダ人、フランス人が、ベンガル湾岸沿いの各地に商館を築いて覇を競うが、1757年のプラッシーの戦いや1764年のブクサールの戦いでイギリス東インド会社が勝利し、最終的にイギリス人の覇権が確立する。 やがてベンガルは、英領インドの首都カルカッタ(コルカタ)を擁する植民地統治の要として発展する。 ロンドンに次ぐ、大英帝国の第二の都市となったカルカッタは、政治、経済、芸術・文化の中心地として繁栄し、西洋世界との窓口としてインドの近代化をリードする。 諸宗教の理念を統合して社会改革運動を主導した近代インドの父ラム・モホン・ラエ(1774-1833)や、シカゴ宗教会議でキリスト教文明に比肩するインド文明の精神性の高さを体現したスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(ビベカノンド、1863-1902)、西洋の近代文学とベンガルの宗教文学の伝統を華麗な詩文学に融合させたノーベル賞作家タゴール(1861-1943)、統一インドの独立を夢見て、インパール作戦では日本軍と協力してインド国民軍を指揮したネタジー・スバス・チャンドラ・ボース(シュバシュ・チョンドロ・ボシュ、1897-1945)など、南アジアの近代史に名前をとどめる多彩な人材を輩出する。 5.ベンガルの知的遺産の伝統 しかし、1905年のベンガル分割令とその後のムスリム連盟の創設、宗派別選挙制度の導入などの植民地政府の分割統治策によって、本来はバウルなどの習合文化を通して共生していたヒンドゥー教徒とムスリムは対立を深めるようになり、最終的に、1947年にインドとパキスタンは分離独立を選択する。 ヒンドゥー人口の多い西ベンガル地方はインドの一部として今日のインド西ベンガル州となり、ムスリム人口の多い東ベンガル地方は、東パキスタンとして独立する。 しかし、その後の西パキスタン政府の圧政に対するベンガルの人々の闘いによって、建国の父シェイク・ムジブル・ラフマン(シェイク・ムジブル・ロホマン、1920-1975)のもと、1971年に現在のバングラデシュが誕生する。 このように、ベンガル地方はイギリス植民地支配の様々な矛盾が集約され、独立後もそれに伴う多大な犠牲を背負わされることで、政治的には苦難の道を歩むことになる。 しかし、長い歴史の中で培われてきた豊かな文化伝承を背景として、植民地期のベンガルの人々が残した多様な知的遺産の伝統は、たとえば、ベンガル飢饉の人的要因を解明した厚生経済学でノーベル経済学賞を受賞したアマーティア・セーン(オモルット・シェン、1933-)や、「死を待つ人の家」をコルカタに建てたマザー・テレサ(1910-97)、「貧者の銀行」として知られるグラミン銀行を創設してノーベル平和賞を受賞したムハンマド・ユヌス(1940-)など、東西ベンガル社会の多彩な人々の活躍を通して、今も受け継がれていると言えるだろう。 (文責:外川昌彦).
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