出自と名前 [ ] 父はの国人・滝川一勝もしくはといわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。 また、兄としてが挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。 また、と同族(従兄弟)とされる場合もある。 更にはの一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。 また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。 甲賀郡に対する文書で「大原」同名中の「滝川氏」として動いているものがある。 甲賀出身という説の他に、の国人・がに仕官する際に一益が仲介したこと、婿のはの一族の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。 なお、は一般には「かずます」と読まれるが、『』および『』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。 このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては音読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。 なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である。 生涯 [ ] 織田家仕官と伊勢攻略 [ ] 5年()、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたが、のに仕えるまでの半生は不明である。 父が甲賀出身であるとする立場からはのに仕えていたとされることもある。 『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。 河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり 、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。 なお、後年にのからに送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益はを好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。 信長に仕えた時期は不明であるが『』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり 、また親族とされるが、弘治年間(~)に生まれたの乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。 3年()、一益は、北伊勢の桑名はとの境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、やに対し備えることを信長に進言した。 まずは尾張国荷ノ上の土豪で主・の資金によってを構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。 永禄6年()には(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う()。 永禄10年()と11年()の2度に渡る伊勢攻略(を中心とする諸家を滅ぼした)際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の)を通じの弟・を調略し、具教がを明け渡した際にはと共に城の受け取りを任され、戦後は・・の三城を守備することを命じられた()。 永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。 津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。 長島一向一揆と石山合戦 [ ] 元年()9月のの反信長蜂起に伴うの開始でも一斉に蜂起し、11月には信長の弟・がで討ちとられ、一益もに篭っている。 その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。 元年()のに参戦。 天正2年()、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際してはらと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。 この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。 天正3年()、に参陣し、鉄砲隊の総指揮を執る。 また同年にはを攻略。 天正4年()の、同5年()のに参陣。 天正6年()のでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、建造に関わっている。 天正7年()11月まで続いたでは上﨟塚砦の守将を調略し、の守備を崩壊させた。 この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・は信長に降伏することとなる。 天正8年()、主・が信長に使者を送った際には・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。 この年にが追放されたことから、関東衆、特にの申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。 天正9年()にはに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。 また、同年、京都内に自らの子・を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵はの死後に、長興院と改名された)。 武田討伐と関東鎮定 [ ] 天正10年()、信長がを企図し、嫡男のに軍を与えてへ攻め込ませた。 この際に一益は2月12日に出陣し、家老・と共に軍監となり、らと合わせて攻略戦の主力となっている。 一益はこの甲州征伐においてを追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。 また、で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。 戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は一国と隣接する信濃・を与えられ「関東御取次役」を命じられる。 なお、『』『』など後代のによれば一益の地位は「」であったとされるが、関東管領は室町幕府体制において設置された役職であり、信長がを追放していることと矛盾する(室町幕府や関東公方の役職を認める事になる)。 さらに、同時代史料において一益が「関東管領」であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する説もある。 しかし一益は領地よりもの「」を所望したが叶わなかったと言い、三国一太郎五郎 への手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が残っている。 信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し 『信長公記』 『関八州古戦録』 、引き続き一益を関東統治の取次役にした。 3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山氏支配の河内領除く)と諏訪郡、森長可が信濃川中島4郡、が伊奈郡を与えられ、が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。 以後、一益は上野、次にに入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。 またにはが入り、のには、佐久郡のにはが入った。 一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(の項参照)。 この時、とは側近とされ、関東の北条氏政父子、、だけでなく、の、とも連絡をとっており、北条氏政にを元城主・に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。 また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた、父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している。 但し、、は出仕を拒否し、とその家臣・には一益からの連絡自体が行われていない。 一益も室町幕府の役職であるへの対応に苦慮したものと考えられる。 同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催。 嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。 更に23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・に破れたと伝わる(『北国太平記』)。 本能寺の変 [ ] 6月2日、信長が によってすると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷のから本能寺の情報を得た事を一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている。 しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた。 一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。 6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。 この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。 それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。 6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。 一方、一益は付けの書状で 、信長の安否を聞いてきた(東毛)の(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」 と書状を送っている。 一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、などの主要な武将のみであったとも考えられる。 また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた、等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。 本能寺の変の報に際し、主(北毛)のが反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した ()。 旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こりに北信の森長可が海津城を捨て美濃国へ去り 、同様に南信濃の毛利長秀も伊那を放棄し、甲斐国の河尻秀隆は同日に武田遺臣により殺害された。 神流川の戦いと伊勢帰還 [ ] 、信長の死に乗じ、小田原城の(氏政の嫡男)、主・(氏政の弟)、北条氏政、、ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。 一益は、厩橋城に、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、6月18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌の合戦 では北条勢が勝利した。 この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し 、上州衆では木部貞朝 、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した()。 同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った(『依田記』『上野古戦録』)。 一益は人質であった北条高広の次男を返し 、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。 一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。 一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、を越え、に道家正栄の守る小諸城に入った。 この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中にはやの老母・が加わっていたという。 一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。 一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。 一益は、に小諸城をに引き渡して旅立ち、に義昌の居城・で人質を引き渡し 、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。 一益は清洲にて三法師()に拝礼後 、伊勢に帰ったという。 なお、この途上にあったにはが開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。 (一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌からに引き渡されている。 ) 賤ヶ岳の戦いと出家 [ ] 清洲会議後、信長の嫡孫・三法師がの後継者となったが、これに信長の三男・は不満を持っていた為、三法師を擁立したと、信孝を後援するの対立に発展した。 天正11年()正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。 一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後もとの兵2万近くの兵をに釘付けにしたが、勝家が で敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。 残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。 これにより一益は所領を全て没収され、京都で剃髪、の絵を秀吉に進上し、を頼り越前にて蟄居した。 その後、伊勢の所領は信長の次男・のものとなった。 小牧・長久手の戦いと晩年 [ ] 天正12年()、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた( )。 一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。 この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆とを調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。 先に没収された蟹江城から信雄方のを追放し、更に、、を占拠した。 当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康のの中間に位置する重要拠点であった。 しかし、の守るの攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。 一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽きに開城した。 しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている()。 羽柴秀吉は、伊勢に、、ら6万2千の兵を集めて、に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった(『浅野家文書』)。 7月12日、以前からの約定により秀吉から次男のに1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男のは敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。 同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。 一益は、等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(に参戦中)への返書の添状、天正13年()11月、梶原政景への書状にて、秀吉によるを予告している。 彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。 天正14年(1586年)9月9日に死去。 は62と云われる。 子孫 [ ] 子には長男の、次男で嫡子となったがいる他、・知ト斎、婿養子にがいる。 他に、一族には・がおり、益氏または益重の子とされるも親族となるが、いずれもは不明である。 長男の一忠は父と行動を共にしていたが、天正12年()のに関するでの不手際を秀吉に責められ、追放処分となる。 以降生涯、仕官せずに暮らしたと伝わる。 但し、一忠の孫のは後述のようにとして再興された。 次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、の家臣として1万2千石を与えられていたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名であった。 しかし、一時は8年()に35歳で死去した際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされた上で、嫡男・は幼年であった為、一忠の子で主に仕えていたが呼び戻され名代となった。 その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続した。 一積はの後、の娘のを正妻に迎えていた。 前述の名代相続後、幕府のとしてで戦功を挙げたが、前述の一乗から家督返還の申し入れがあり、幕府の裁定により一乗には750石が返却され、一積は別家を立て1千石の旗本となり、変わらず使番を務めた。 のちに、の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・に嫁がせたことを咎められ 、改易となった。 後に一積の子の一明が幕府に300俵で召しだされ、旗本として再興した。 三男の辰政は滝川丹波、ないしは滝川出雲の通称で知られ、当初に仕えたが、その後、、、と渡り歩いたのち、主のに2千石で仕官し、で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となった。 子孫は池田氏の移封に伴い、士となった。 四男の知ト斎は池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えた。 近世大名池田氏の祖ともいえる池田輝政の祖父()は滝川家から養子入りしており、輝政の父で一益と同時代に活躍したは一益の従兄弟にあたる。 初代岡山藩主・の娘・の夫・は辰政の孫で、後に医療に携わり医家として存続したは知ト斎の子孫である。 婿の滝川雄利は主となっているが、雄利の子・(母:一益の娘?)の代に減封(病弱であった為石高を返上した)され、旗本となっている。 この系譜からは幕末にになり、の先鋒を務めた、に入隊しを通して活躍したが出ている。 弟に(規矩次郎、海軍少将、具綏の養子)。 具和の系統は「瀧川」と姓を改めて現在も存続している。 同じく婿にがいる。 秀政は織田一族で一益の寄騎として活躍し、子孫は江戸幕府の大身旗本となった。 秀政の室は一益の養女であるが、実父は雄利とする説がある。 他に家老・の子で一益が滝川姓を与えたとも、養子にしたとも言われるの子孫がで6,000石を食む大身となっている。 人物・逸話 [ ] 織田家仕官前の逸話• 若年の頃に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ 、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、におけると共通点がある。 滝川左近将監一益肖像(、江戸後期の絵師の作) 織田家臣時代の逸話• 伊勢水軍を率いる水軍の将でもあり、九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしている。 第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦しているが 、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かは定かではない。 武田氏追討の恩賞として、信長より拝領して佩刀していたと伝わる刀が現代に伝えられている(高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)()。 鎌倉時代初期に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品である。 現在は美術館に所蔵されている。 晩年の逸話• 失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。 ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。 遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。 一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点までの話と酷似しており、混同も推測される。 下総国・の観音堂の境内にある「の墓」と呼ばれた古碑は、昭和初期までは滝川一益の墳墓と思われていた。 家臣・与力 [ ] 織田直参• 『信長公記』巻二「七、大河内国司退城の事」の陣立において、滝川左近と滝川彦右衛門は別人として記載されている。 この記事は年次不明だが、1555~1558年前後と推測されている。 京都の茶人。 妙心寺での出家は蟹江城合戦の後との説もあるが、朝山日乗の絵を秀吉に進上したおりに「滝川入道」と記され「入庵」と号しており(『宋及記』)、蟹江城合戦前に既に剃髪している。 義理の兄弟に相当するため、姪を養女として嫁入りさせた形だが、真田信繁は大坂の陣の豊臣方であり、徳川氏体制から見た場合、いわゆる戦犯に相当する。 ただしこの改易には他に要因があるともされる。 詳しくはの項目参照。 出典 [ ]• 『池田氏家譜集成』巻28『信輝本系傳聞記』に載る一説によると、一益の祖父の貞勝(元はの出)が同じから分かれた滝川氏を継ぎと名乗った。 父のには範勝という兄弟がおり、これがのちのの父である。 範勝は滝恒元(室が一勝の姉妹)の養子となって一時滝恒利と名乗ったが、恒元に実子ができたため流浪し尾張に閑居した。 そこでの娘(のちの)と結婚したためと名乗ったという。 木村至宏監修 『図説・近江の街道』郷土出版社、1994年7月26日、195頁。 『寛永諸家系図伝』第十二、続群書類従完成会、1988年、219頁。 戦国史研究会編 『織田権力の領域支配』 岩田書院、2011年、163-164頁。 『信長公記』巻十三「播州三木城落居の事」• 222. , p. , p. 平山優『織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館、2007年、増訂。 『越佐史料巻 6』 P. 209-211• 『戦国遺文後北条氏編』文書2348号• その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』• 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」• (訳) 群馬県史編さん委員会編 『群馬県史 通史編3』 群馬県、1989年、674-675頁。 『赤羽記』(保科記)• 『管窺武鑑』• 新町町誌編纂委員会編 『新町町誌』 新町教育委員会、1989年、133頁。 『滝川一益事書』• 『依田記』『北条五代記』• 信濃資料15巻261p• 『寛政重修諸家譜』• 武田茂敬『蟹江城合戦物語』• 『寛永諸家系図伝』• 『信長公記』• 文港堂編 『極東の美銚子』、1926年、7頁。 参考文献 [ ] 書籍• 千木良英一『神流川合戦記 -郷土史蹟 史記による関東最大の戦-』新町商工会、1982年。 『戦国武将と茶の湯』淡交社、1986年。 千木良英一『戦国武将と神流川合戦』新町商工会、1989年。 『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一』中央公論新社、2005年。 武田茂敬『蟹江城合戦物語』、2008年。 『『信長記』と信長・秀吉の時代』勉誠出版社、2012年。 『天正壬午の乱-本能寺の変と東国戦国史-』戎光祥出版、2015年(原著2011年)、増補改定版。 『第九十五回企画展 織田信長と上野国』群馬県立歴史博物館、2018年。 柴裕之監修「滝川一益受発給文書集成」pp. 118-137(一益およびその家臣が受発給した文書113点を活字化し、各文書が掲載されている主な刊本・写本の名称を記載している) 論文• 伊藤一美「上野国における滝川一益の立場」『戦国史研究』20号、1990年。 柴裕之「織田政権の関東仕置-滝川一益の政治的役割を通じて-」『白山史学』37号、2001年。 『上州治乱記』 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• - (2019年1月1日アーカイブ分)• - 2019年3月31日時点のウェブアーカイブ.
次の出自と名前 [ ] 父はの国人・滝川一勝もしくはといわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。 また、兄としてが挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。 また、と同族(従兄弟)とされる場合もある。 更にはの一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。 また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。 甲賀郡に対する文書で「大原」同名中の「滝川氏」として動いているものがある。 甲賀出身という説の他に、の国人・がに仕官する際に一益が仲介したこと、婿のはの一族の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。 なお、は一般には「かずます」と読まれるが、『』および『』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。 このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては音読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。 なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である。 生涯 [ ] 織田家仕官と伊勢攻略 [ ] 5年()、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたが、のに仕えるまでの半生は不明である。 父が甲賀出身であるとする立場からはのに仕えていたとされることもある。 『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。 河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり 、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。 なお、後年にのからに送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益はを好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。 信長に仕えた時期は不明であるが『』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり 、また親族とされるが、弘治年間(~)に生まれたの乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。 3年()、一益は、北伊勢の桑名はとの境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、やに対し備えることを信長に進言した。 まずは尾張国荷ノ上の土豪で主・の資金によってを構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。 永禄6年()には(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う()。 永禄10年()と11年()の2度に渡る伊勢攻略(を中心とする諸家を滅ぼした)際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の)を通じの弟・を調略し、具教がを明け渡した際にはと共に城の受け取りを任され、戦後は・・の三城を守備することを命じられた()。 永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。 津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。 長島一向一揆と石山合戦 [ ] 元年()9月のの反信長蜂起に伴うの開始でも一斉に蜂起し、11月には信長の弟・がで討ちとられ、一益もに篭っている。 その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。 元年()のに参戦。 天正2年()、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際してはらと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。 この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。 天正3年()、に参陣し、鉄砲隊の総指揮を執る。 また同年にはを攻略。 天正4年()の、同5年()のに参陣。 天正6年()のでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、建造に関わっている。 天正7年()11月まで続いたでは上﨟塚砦の守将を調略し、の守備を崩壊させた。 この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・は信長に降伏することとなる。 天正8年()、主・が信長に使者を送った際には・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。 この年にが追放されたことから、関東衆、特にの申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。 天正9年()にはに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。 また、同年、京都内に自らの子・を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵はの死後に、長興院と改名された)。 武田討伐と関東鎮定 [ ] 天正10年()、信長がを企図し、嫡男のに軍を与えてへ攻め込ませた。 この際に一益は2月12日に出陣し、家老・と共に軍監となり、らと合わせて攻略戦の主力となっている。 一益はこの甲州征伐においてを追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。 また、で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。 戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は一国と隣接する信濃・を与えられ「関東御取次役」を命じられる。 なお、『』『』など後代のによれば一益の地位は「」であったとされるが、関東管領は室町幕府体制において設置された役職であり、信長がを追放していることと矛盾する(室町幕府や関東公方の役職を認める事になる)。 さらに、同時代史料において一益が「関東管領」であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する説もある。 しかし一益は領地よりもの「」を所望したが叶わなかったと言い、三国一太郎五郎 への手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が残っている。 信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し 『信長公記』 『関八州古戦録』 、引き続き一益を関東統治の取次役にした。 3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山氏支配の河内領除く)と諏訪郡、森長可が信濃川中島4郡、が伊奈郡を与えられ、が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。 以後、一益は上野、次にに入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。 またにはが入り、のには、佐久郡のにはが入った。 一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(の項参照)。 この時、とは側近とされ、関東の北条氏政父子、、だけでなく、の、とも連絡をとっており、北条氏政にを元城主・に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。 また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた、父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している。 但し、、は出仕を拒否し、とその家臣・には一益からの連絡自体が行われていない。 一益も室町幕府の役職であるへの対応に苦慮したものと考えられる。 同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催。 嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。 更に23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・に破れたと伝わる(『北国太平記』)。 本能寺の変 [ ] 6月2日、信長が によってすると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷のから本能寺の情報を得た事を一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている。 しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた。 一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。 6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。 この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。 それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。 6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。 一方、一益は付けの書状で 、信長の安否を聞いてきた(東毛)の(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」 と書状を送っている。 一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、などの主要な武将のみであったとも考えられる。 また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた、等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。 本能寺の変の報に際し、主(北毛)のが反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した ()。 旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こりに北信の森長可が海津城を捨て美濃国へ去り 、同様に南信濃の毛利長秀も伊那を放棄し、甲斐国の河尻秀隆は同日に武田遺臣により殺害された。 神流川の戦いと伊勢帰還 [ ] 、信長の死に乗じ、小田原城の(氏政の嫡男)、主・(氏政の弟)、北条氏政、、ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。 一益は、厩橋城に、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、6月18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌の合戦 では北条勢が勝利した。 この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し 、上州衆では木部貞朝 、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した()。 同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った(『依田記』『上野古戦録』)。 一益は人質であった北条高広の次男を返し 、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。 一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。 一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、を越え、に道家正栄の守る小諸城に入った。 この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中にはやの老母・が加わっていたという。 一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。 一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。 一益は、に小諸城をに引き渡して旅立ち、に義昌の居城・で人質を引き渡し 、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。 一益は清洲にて三法師()に拝礼後 、伊勢に帰ったという。 なお、この途上にあったにはが開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。 (一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌からに引き渡されている。 ) 賤ヶ岳の戦いと出家 [ ] 清洲会議後、信長の嫡孫・三法師がの後継者となったが、これに信長の三男・は不満を持っていた為、三法師を擁立したと、信孝を後援するの対立に発展した。 天正11年()正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。 一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後もとの兵2万近くの兵をに釘付けにしたが、勝家が で敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。 残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。 これにより一益は所領を全て没収され、京都で剃髪、の絵を秀吉に進上し、を頼り越前にて蟄居した。 その後、伊勢の所領は信長の次男・のものとなった。 小牧・長久手の戦いと晩年 [ ] 天正12年()、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた( )。 一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。 この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆とを調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。 先に没収された蟹江城から信雄方のを追放し、更に、、を占拠した。 当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康のの中間に位置する重要拠点であった。 しかし、の守るの攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。 一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽きに開城した。 しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている()。 羽柴秀吉は、伊勢に、、ら6万2千の兵を集めて、に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった(『浅野家文書』)。 7月12日、以前からの約定により秀吉から次男のに1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男のは敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。 同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。 一益は、等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(に参戦中)への返書の添状、天正13年()11月、梶原政景への書状にて、秀吉によるを予告している。 彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。 天正14年(1586年)9月9日に死去。 は62と云われる。 子孫 [ ] 子には長男の、次男で嫡子となったがいる他、・知ト斎、婿養子にがいる。 他に、一族には・がおり、益氏または益重の子とされるも親族となるが、いずれもは不明である。 長男の一忠は父と行動を共にしていたが、天正12年()のに関するでの不手際を秀吉に責められ、追放処分となる。 以降生涯、仕官せずに暮らしたと伝わる。 但し、一忠の孫のは後述のようにとして再興された。 次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、の家臣として1万2千石を与えられていたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名であった。 しかし、一時は8年()に35歳で死去した際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされた上で、嫡男・は幼年であった為、一忠の子で主に仕えていたが呼び戻され名代となった。 その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続した。 一積はの後、の娘のを正妻に迎えていた。 前述の名代相続後、幕府のとしてで戦功を挙げたが、前述の一乗から家督返還の申し入れがあり、幕府の裁定により一乗には750石が返却され、一積は別家を立て1千石の旗本となり、変わらず使番を務めた。 のちに、の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・に嫁がせたことを咎められ 、改易となった。 後に一積の子の一明が幕府に300俵で召しだされ、旗本として再興した。 三男の辰政は滝川丹波、ないしは滝川出雲の通称で知られ、当初に仕えたが、その後、、、と渡り歩いたのち、主のに2千石で仕官し、で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となった。 子孫は池田氏の移封に伴い、士となった。 四男の知ト斎は池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えた。 近世大名池田氏の祖ともいえる池田輝政の祖父()は滝川家から養子入りしており、輝政の父で一益と同時代に活躍したは一益の従兄弟にあたる。 初代岡山藩主・の娘・の夫・は辰政の孫で、後に医療に携わり医家として存続したは知ト斎の子孫である。 婿の滝川雄利は主となっているが、雄利の子・(母:一益の娘?)の代に減封(病弱であった為石高を返上した)され、旗本となっている。 この系譜からは幕末にになり、の先鋒を務めた、に入隊しを通して活躍したが出ている。 弟に(規矩次郎、海軍少将、具綏の養子)。 具和の系統は「瀧川」と姓を改めて現在も存続している。 同じく婿にがいる。 秀政は織田一族で一益の寄騎として活躍し、子孫は江戸幕府の大身旗本となった。 秀政の室は一益の養女であるが、実父は雄利とする説がある。 他に家老・の子で一益が滝川姓を与えたとも、養子にしたとも言われるの子孫がで6,000石を食む大身となっている。 人物・逸話 [ ] 織田家仕官前の逸話• 若年の頃に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ 、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、におけると共通点がある。 滝川左近将監一益肖像(、江戸後期の絵師の作) 織田家臣時代の逸話• 伊勢水軍を率いる水軍の将でもあり、九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしている。 第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦しているが 、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かは定かではない。 武田氏追討の恩賞として、信長より拝領して佩刀していたと伝わる刀が現代に伝えられている(高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)()。 鎌倉時代初期に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品である。 現在は美術館に所蔵されている。 晩年の逸話• 失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。 ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。 遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。 一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点までの話と酷似しており、混同も推測される。 下総国・の観音堂の境内にある「の墓」と呼ばれた古碑は、昭和初期までは滝川一益の墳墓と思われていた。 家臣・与力 [ ] 織田直参• 『信長公記』巻二「七、大河内国司退城の事」の陣立において、滝川左近と滝川彦右衛門は別人として記載されている。 この記事は年次不明だが、1555~1558年前後と推測されている。 京都の茶人。 妙心寺での出家は蟹江城合戦の後との説もあるが、朝山日乗の絵を秀吉に進上したおりに「滝川入道」と記され「入庵」と号しており(『宋及記』)、蟹江城合戦前に既に剃髪している。 義理の兄弟に相当するため、姪を養女として嫁入りさせた形だが、真田信繁は大坂の陣の豊臣方であり、徳川氏体制から見た場合、いわゆる戦犯に相当する。 ただしこの改易には他に要因があるともされる。 詳しくはの項目参照。 出典 [ ]• 『池田氏家譜集成』巻28『信輝本系傳聞記』に載る一説によると、一益の祖父の貞勝(元はの出)が同じから分かれた滝川氏を継ぎと名乗った。 父のには範勝という兄弟がおり、これがのちのの父である。 範勝は滝恒元(室が一勝の姉妹)の養子となって一時滝恒利と名乗ったが、恒元に実子ができたため流浪し尾張に閑居した。 そこでの娘(のちの)と結婚したためと名乗ったという。 木村至宏監修 『図説・近江の街道』郷土出版社、1994年7月26日、195頁。 『寛永諸家系図伝』第十二、続群書類従完成会、1988年、219頁。 戦国史研究会編 『織田権力の領域支配』 岩田書院、2011年、163-164頁。 『信長公記』巻十三「播州三木城落居の事」• 222. , p. , p. 平山優『織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館、2007年、増訂。 『越佐史料巻 6』 P. 209-211• 『戦国遺文後北条氏編』文書2348号• その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』• 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」• (訳) 群馬県史編さん委員会編 『群馬県史 通史編3』 群馬県、1989年、674-675頁。 『赤羽記』(保科記)• 『管窺武鑑』• 新町町誌編纂委員会編 『新町町誌』 新町教育委員会、1989年、133頁。 『滝川一益事書』• 『依田記』『北条五代記』• 信濃資料15巻261p• 『寛政重修諸家譜』• 武田茂敬『蟹江城合戦物語』• 『寛永諸家系図伝』• 『信長公記』• 文港堂編 『極東の美銚子』、1926年、7頁。 参考文献 [ ] 書籍• 千木良英一『神流川合戦記 -郷土史蹟 史記による関東最大の戦-』新町商工会、1982年。 『戦国武将と茶の湯』淡交社、1986年。 千木良英一『戦国武将と神流川合戦』新町商工会、1989年。 『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一』中央公論新社、2005年。 武田茂敬『蟹江城合戦物語』、2008年。 『『信長記』と信長・秀吉の時代』勉誠出版社、2012年。 『天正壬午の乱-本能寺の変と東国戦国史-』戎光祥出版、2015年(原著2011年)、増補改定版。 『第九十五回企画展 織田信長と上野国』群馬県立歴史博物館、2018年。 柴裕之監修「滝川一益受発給文書集成」pp. 118-137(一益およびその家臣が受発給した文書113点を活字化し、各文書が掲載されている主な刊本・写本の名称を記載している) 論文• 伊藤一美「上野国における滝川一益の立場」『戦国史研究』20号、1990年。 柴裕之「織田政権の関東仕置-滝川一益の政治的役割を通じて-」『白山史学』37号、2001年。 『上州治乱記』 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• - (2019年1月1日アーカイブ分)• - 2019年3月31日時点のウェブアーカイブ.
次の出自と名前 [ ] 父はの国人・滝川一勝もしくはといわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。 また、兄としてが挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。 また、と同族(従兄弟)とされる場合もある。 更にはの一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。 また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。 甲賀郡に対する文書で「大原」同名中の「滝川氏」として動いているものがある。 甲賀出身という説の他に、の国人・がに仕官する際に一益が仲介したこと、婿のはの一族の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。 なお、は一般には「かずます」と読まれるが、『』および『』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。 このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては音読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。 なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である。 生涯 [ ] 織田家仕官と伊勢攻略 [ ] 5年()、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたが、のに仕えるまでの半生は不明である。 父が甲賀出身であるとする立場からはのに仕えていたとされることもある。 『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。 河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり 、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。 なお、後年にのからに送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益はを好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。 信長に仕えた時期は不明であるが『』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり 、また親族とされるが、弘治年間(~)に生まれたの乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。 3年()、一益は、北伊勢の桑名はとの境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、やに対し備えることを信長に進言した。 まずは尾張国荷ノ上の土豪で主・の資金によってを構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。 永禄6年()には(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う()。 永禄10年()と11年()の2度に渡る伊勢攻略(を中心とする諸家を滅ぼした)際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の)を通じの弟・を調略し、具教がを明け渡した際にはと共に城の受け取りを任され、戦後は・・の三城を守備することを命じられた()。 永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。 津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。 長島一向一揆と石山合戦 [ ] 元年()9月のの反信長蜂起に伴うの開始でも一斉に蜂起し、11月には信長の弟・がで討ちとられ、一益もに篭っている。 その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。 元年()のに参戦。 天正2年()、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際してはらと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。 この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。 天正3年()、に参陣し、鉄砲隊の総指揮を執る。 また同年にはを攻略。 天正4年()の、同5年()のに参陣。 天正6年()のでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、建造に関わっている。 天正7年()11月まで続いたでは上﨟塚砦の守将を調略し、の守備を崩壊させた。 この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・は信長に降伏することとなる。 天正8年()、主・が信長に使者を送った際には・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。 この年にが追放されたことから、関東衆、特にの申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。 天正9年()にはに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。 また、同年、京都内に自らの子・を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵はの死後に、長興院と改名された)。 武田討伐と関東鎮定 [ ] 天正10年()、信長がを企図し、嫡男のに軍を与えてへ攻め込ませた。 この際に一益は2月12日に出陣し、家老・と共に軍監となり、らと合わせて攻略戦の主力となっている。 一益はこの甲州征伐においてを追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。 また、で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。 戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は一国と隣接する信濃・を与えられ「関東御取次役」を命じられる。 なお、『』『』など後代のによれば一益の地位は「」であったとされるが、関東管領は室町幕府体制において設置された役職であり、信長がを追放していることと矛盾する(室町幕府や関東公方の役職を認める事になる)。 さらに、同時代史料において一益が「関東管領」であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する説もある。 しかし一益は領地よりもの「」を所望したが叶わなかったと言い、三国一太郎五郎 への手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が残っている。 信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し 『信長公記』 『関八州古戦録』 、引き続き一益を関東統治の取次役にした。 3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山氏支配の河内領除く)と諏訪郡、森長可が信濃川中島4郡、が伊奈郡を与えられ、が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。 以後、一益は上野、次にに入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。 またにはが入り、のには、佐久郡のにはが入った。 一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(の項参照)。 この時、とは側近とされ、関東の北条氏政父子、、だけでなく、の、とも連絡をとっており、北条氏政にを元城主・に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。 また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた、父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している。 但し、、は出仕を拒否し、とその家臣・には一益からの連絡自体が行われていない。 一益も室町幕府の役職であるへの対応に苦慮したものと考えられる。 同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催。 嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。 更に23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・に破れたと伝わる(『北国太平記』)。 本能寺の変 [ ] 6月2日、信長が によってすると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷のから本能寺の情報を得た事を一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている。 しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた。 一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。 6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。 この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。 それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。 6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。 一方、一益は付けの書状で 、信長の安否を聞いてきた(東毛)の(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」 と書状を送っている。 一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、などの主要な武将のみであったとも考えられる。 また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた、等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。 本能寺の変の報に際し、主(北毛)のが反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した ()。 旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こりに北信の森長可が海津城を捨て美濃国へ去り 、同様に南信濃の毛利長秀も伊那を放棄し、甲斐国の河尻秀隆は同日に武田遺臣により殺害された。 神流川の戦いと伊勢帰還 [ ] 、信長の死に乗じ、小田原城の(氏政の嫡男)、主・(氏政の弟)、北条氏政、、ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。 一益は、厩橋城に、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、6月18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌の合戦 では北条勢が勝利した。 この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し 、上州衆では木部貞朝 、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した()。 同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った(『依田記』『上野古戦録』)。 一益は人質であった北条高広の次男を返し 、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。 一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。 一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、を越え、に道家正栄の守る小諸城に入った。 この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中にはやの老母・が加わっていたという。 一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。 一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。 一益は、に小諸城をに引き渡して旅立ち、に義昌の居城・で人質を引き渡し 、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。 一益は清洲にて三法師()に拝礼後 、伊勢に帰ったという。 なお、この途上にあったにはが開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。 (一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌からに引き渡されている。 ) 賤ヶ岳の戦いと出家 [ ] 清洲会議後、信長の嫡孫・三法師がの後継者となったが、これに信長の三男・は不満を持っていた為、三法師を擁立したと、信孝を後援するの対立に発展した。 天正11年()正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。 一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後もとの兵2万近くの兵をに釘付けにしたが、勝家が で敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。 残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。 これにより一益は所領を全て没収され、京都で剃髪、の絵を秀吉に進上し、を頼り越前にて蟄居した。 その後、伊勢の所領は信長の次男・のものとなった。 小牧・長久手の戦いと晩年 [ ] 天正12年()、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた( )。 一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。 この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆とを調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。 先に没収された蟹江城から信雄方のを追放し、更に、、を占拠した。 当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康のの中間に位置する重要拠点であった。 しかし、の守るの攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。 一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽きに開城した。 しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている()。 羽柴秀吉は、伊勢に、、ら6万2千の兵を集めて、に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった(『浅野家文書』)。 7月12日、以前からの約定により秀吉から次男のに1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男のは敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。 同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。 一益は、等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(に参戦中)への返書の添状、天正13年()11月、梶原政景への書状にて、秀吉によるを予告している。 彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。 天正14年(1586年)9月9日に死去。 は62と云われる。 子孫 [ ] 子には長男の、次男で嫡子となったがいる他、・知ト斎、婿養子にがいる。 他に、一族には・がおり、益氏または益重の子とされるも親族となるが、いずれもは不明である。 長男の一忠は父と行動を共にしていたが、天正12年()のに関するでの不手際を秀吉に責められ、追放処分となる。 以降生涯、仕官せずに暮らしたと伝わる。 但し、一忠の孫のは後述のようにとして再興された。 次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、の家臣として1万2千石を与えられていたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名であった。 しかし、一時は8年()に35歳で死去した際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされた上で、嫡男・は幼年であった為、一忠の子で主に仕えていたが呼び戻され名代となった。 その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続した。 一積はの後、の娘のを正妻に迎えていた。 前述の名代相続後、幕府のとしてで戦功を挙げたが、前述の一乗から家督返還の申し入れがあり、幕府の裁定により一乗には750石が返却され、一積は別家を立て1千石の旗本となり、変わらず使番を務めた。 のちに、の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・に嫁がせたことを咎められ 、改易となった。 後に一積の子の一明が幕府に300俵で召しだされ、旗本として再興した。 三男の辰政は滝川丹波、ないしは滝川出雲の通称で知られ、当初に仕えたが、その後、、、と渡り歩いたのち、主のに2千石で仕官し、で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となった。 子孫は池田氏の移封に伴い、士となった。 四男の知ト斎は池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えた。 近世大名池田氏の祖ともいえる池田輝政の祖父()は滝川家から養子入りしており、輝政の父で一益と同時代に活躍したは一益の従兄弟にあたる。 初代岡山藩主・の娘・の夫・は辰政の孫で、後に医療に携わり医家として存続したは知ト斎の子孫である。 婿の滝川雄利は主となっているが、雄利の子・(母:一益の娘?)の代に減封(病弱であった為石高を返上した)され、旗本となっている。 この系譜からは幕末にになり、の先鋒を務めた、に入隊しを通して活躍したが出ている。 弟に(規矩次郎、海軍少将、具綏の養子)。 具和の系統は「瀧川」と姓を改めて現在も存続している。 同じく婿にがいる。 秀政は織田一族で一益の寄騎として活躍し、子孫は江戸幕府の大身旗本となった。 秀政の室は一益の養女であるが、実父は雄利とする説がある。 他に家老・の子で一益が滝川姓を与えたとも、養子にしたとも言われるの子孫がで6,000石を食む大身となっている。 人物・逸話 [ ] 織田家仕官前の逸話• 若年の頃に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ 、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、におけると共通点がある。 滝川左近将監一益肖像(、江戸後期の絵師の作) 織田家臣時代の逸話• 伊勢水軍を率いる水軍の将でもあり、九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしている。 第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦しているが 、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かは定かではない。 武田氏追討の恩賞として、信長より拝領して佩刀していたと伝わる刀が現代に伝えられている(高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)()。 鎌倉時代初期に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品である。 現在は美術館に所蔵されている。 晩年の逸話• 失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。 ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。 遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。 一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点までの話と酷似しており、混同も推測される。 下総国・の観音堂の境内にある「の墓」と呼ばれた古碑は、昭和初期までは滝川一益の墳墓と思われていた。 家臣・与力 [ ] 織田直参• 『信長公記』巻二「七、大河内国司退城の事」の陣立において、滝川左近と滝川彦右衛門は別人として記載されている。 この記事は年次不明だが、1555~1558年前後と推測されている。 京都の茶人。 妙心寺での出家は蟹江城合戦の後との説もあるが、朝山日乗の絵を秀吉に進上したおりに「滝川入道」と記され「入庵」と号しており(『宋及記』)、蟹江城合戦前に既に剃髪している。 義理の兄弟に相当するため、姪を養女として嫁入りさせた形だが、真田信繁は大坂の陣の豊臣方であり、徳川氏体制から見た場合、いわゆる戦犯に相当する。 ただしこの改易には他に要因があるともされる。 詳しくはの項目参照。 出典 [ ]• 『池田氏家譜集成』巻28『信輝本系傳聞記』に載る一説によると、一益の祖父の貞勝(元はの出)が同じから分かれた滝川氏を継ぎと名乗った。 父のには範勝という兄弟がおり、これがのちのの父である。 範勝は滝恒元(室が一勝の姉妹)の養子となって一時滝恒利と名乗ったが、恒元に実子ができたため流浪し尾張に閑居した。 そこでの娘(のちの)と結婚したためと名乗ったという。 木村至宏監修 『図説・近江の街道』郷土出版社、1994年7月26日、195頁。 『寛永諸家系図伝』第十二、続群書類従完成会、1988年、219頁。 戦国史研究会編 『織田権力の領域支配』 岩田書院、2011年、163-164頁。 『信長公記』巻十三「播州三木城落居の事」• 222. , p. , p. 平山優『織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館、2007年、増訂。 『越佐史料巻 6』 P. 209-211• 『戦国遺文後北条氏編』文書2348号• その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』• 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」• (訳) 群馬県史編さん委員会編 『群馬県史 通史編3』 群馬県、1989年、674-675頁。 『赤羽記』(保科記)• 『管窺武鑑』• 新町町誌編纂委員会編 『新町町誌』 新町教育委員会、1989年、133頁。 『滝川一益事書』• 『依田記』『北条五代記』• 信濃資料15巻261p• 『寛政重修諸家譜』• 武田茂敬『蟹江城合戦物語』• 『寛永諸家系図伝』• 『信長公記』• 文港堂編 『極東の美銚子』、1926年、7頁。 参考文献 [ ] 書籍• 千木良英一『神流川合戦記 -郷土史蹟 史記による関東最大の戦-』新町商工会、1982年。 『戦国武将と茶の湯』淡交社、1986年。 千木良英一『戦国武将と神流川合戦』新町商工会、1989年。 『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一』中央公論新社、2005年。 武田茂敬『蟹江城合戦物語』、2008年。 『『信長記』と信長・秀吉の時代』勉誠出版社、2012年。 『天正壬午の乱-本能寺の変と東国戦国史-』戎光祥出版、2015年(原著2011年)、増補改定版。 『第九十五回企画展 織田信長と上野国』群馬県立歴史博物館、2018年。 柴裕之監修「滝川一益受発給文書集成」pp. 118-137(一益およびその家臣が受発給した文書113点を活字化し、各文書が掲載されている主な刊本・写本の名称を記載している) 論文• 伊藤一美「上野国における滝川一益の立場」『戦国史研究』20号、1990年。 柴裕之「織田政権の関東仕置-滝川一益の政治的役割を通じて-」『白山史学』37号、2001年。 『上州治乱記』 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• - (2019年1月1日アーカイブ分)• - 2019年3月31日時点のウェブアーカイブ.
次の