当クラブは、アカデミー組織のアルビレックス新潟U-18吉永一明監督がアカデミーダイレクターに就任し、同U-18監督と兼務することとなりましたので、お知らせいたします。 なお、森亮太アカデミーダイレクターは、アルビレックス新潟U-18コーチに就任することとなりました。 また、本日付(4月22日)でアルビレックス新潟U-18佐枝篤コーチが、アルビレックス新潟U-15監督に就任し、 同U-15内田潤監督が退任することとなりましたので、あわせてお知らせいたします。 albirex. ただ内田潤の善意ある言動があったことと、それが全てかは置いておいて契約違反で解雇のような形になったのは間違ってはないと思う。 内田潤さんが選手のことを考え、保護者のことを考えた結果だよ。 この時期に監督交代もアカデミーの選手にとったら大事。 良いですか?みなさん よく考えてください 普段ならなかなかない21時頃にホームページを更新するなんて、クラブにとって都合の悪いなにかがあるからでしょう。 3 女性 u15の子達は4月の時にコロナで全く練習をしなかったにもかかわらず、アルビが月会費を徴収しようとしたから、内田潤さんはそれに反対した。 best-hit. コロナ期間中の支払いについては、飲食店や各ショップの家賃、大学など学校の授業料も問題になっていますね。 あまり大きな話題になると、悪い意味で注目されてしまうので、今はそっとしておいたほうがいいかも。
次のチーム名の由来となった。 オレンジの星と青の星からなる。 1955年、OBが中心となって創部した新潟イレブンサッカークラブが前身。 1995年、にあるに由来する『 アルビレオ新潟FC』に改称したが、1997年、問題からクラブ名の改称を決定し、県民投票の結果"アルビレオ"とで「王」を意味する"レックス"を掛け合わせた造語である『 アルビレックス新潟』に改称した。 なお、他の候補名はで「俺たちの」を意味する『オラッタ新潟』と「白鳥の騎士」を意味する『シスネーテス新潟』があった。 1999年にへ加盟。 はホームスタジアム・があるとクラブハウスのあるのみだったが、2019年7月30日より新潟県内の全市町村に拡大した。 はをモチーフに2000年に登場した『』。 近隣にライバルクラブは存在していないが、2007年頃から企画先行ながらとの対戦を 、との対戦をと呼ぶようになった。 総合型地域スポーツクラブ 詳細は「」を参照 前史 1955年、新潟イレブンサッカークラブとして創部。 には社会優良団体(優良スポーツクラブ)として賞を受賞した。 1991年、新潟県サッカー協会はの開催地に立候補することを決定(翌1992年に新潟県議会でも可決 )。 ワールドカップ招致活動の一環として掲げられたプロサッカークラブの創設と短期間での加盟を実現するため、からのスタートとなるクラブの新設ではなく、、などの全国大会への出場経験を持つの新潟イレブンSCを強化することになり、1995年、県サッカー協会の強化指定を受けた新潟イレブンSCを母体にの主力選手を加えてチーム名を アルビレオ新潟FCに改称した。 新監督に県の外国人スポーツ指導者招聘事業により来県していたが就任し、新潟イレブンSCの監督を務めていたは総監督に就任した。 1996年、チーム母体を法人組織として株式会社を設立しプロ化、日本初の地域リーグでのプロサッカークラブとなった。 1997年、クラブ名を アルビレックス新潟に改称して臨んだシーズンは北信越リーグ連覇を果たし、及びJリーグより地域リーグ所属のクラブからは唯一となる1999年に開幕するへの参入を承認された。 1998年、を勝ち抜き、に昇格。 JFLは監督の下で臨んだが、順位は11位と低迷。 翌年からのJ2参入に向けてチームを強化するため、26名の選手のうち17名との契約を打ち切ることになった。 1999年 - 2003年 J2 J2昇格後はや、ら、各ポジションにJリーグ経験者を含む即戦力を補強した。 には新潟出身の元日本代表、が、には同じく代表経験のあるが加入した。 昇格初年度のはJ2開幕から7連勝を記録してリーグ中盤戦まで首位をキープするなど健闘し、最終順位は4位となった。 永井は2000年まで監督を務めたが、J1昇格はならなかった。 2001年、新監督にが就任。 の会場に選出されたを主な舞台に、元日本代表の、、、らが活躍し、に、とのし烈な昇格争いを制してJ2優勝・J1昇格を決めた。 優勝を決めた最終節戦には、ビッグスワンに42,223人のサポーターが詰めかけた。 詳細は「」を参照。 マルクスは2002年(19得点)、2003年(32得点)と、2年連続でJ2得点王となった。 2004年 - 2017年 J1 J1昇格後もまで反町が指揮を執った。 昇格1年目の2004年は、らブラジル人を中心としたカウンター戦術で、2ndステージで4連勝 をマークするなど一時上位争いを展開し、最終節を待たずに残留を決めた。 また、の影響(余震及びスタジアム駐車場がの前線基地となった)により、10月、11月に予定されていたでの2試合は、、で代替開催された。 代替開催も新潟サポーターは県内から多数駆け付け、手製の横断幕を持って応援した。 地震直後の試合となった戦では試合前に会場全体で黙とうが捧げられた。 からまでの4年間はが監督を務めた。 鈴木はやらを中心とした攻撃的なチームを作り上げ、にJ1昇格後最高順位となる6位の成績を残した。 また、この年には矢野がクラブ初の日本代表に選出され、3月24日に行われた戦で初キャップを記録した。 中心選手だったエジミウソン、らが移籍したは残留争いに巻き込まれるが 、には4-3-3の攻撃的なフォーメーションを敷いて上位争いに顔を出した。 鈴木の後任にはヘッドコーチからが昇格し、2シーズン連続でJ1残留に成功した。 は11試合連続無敗のクラブ記録を作り 、その間2004年以来6シーズンぶりに4連勝を記録した。 しかし黒崎の在任中、前述した矢野、に選出されたマルシオ をはじめ、代表経験のある、等、多くの主力選手が国内外へ流出し、終盤から得点力不足に悩まされた。 は開幕から3連敗を喫するなど降格圏内に沈み、黒崎は2012年5月に辞任した。 シーズン途中での監督交代はクラブ史上初のことだった。 黒崎の辞任後、2011年までの監督を務めていたが監督に就任し 、チームは薄氷のJ1残留に成功した。 残留争いは最終節までもつれ、新潟が勝利してもなお自力での残留は困難な状況の中、最終節で勝利。 残留を争うとが共に敗れ、逆転で15位に浮上してJ1残留を果たした。 最終節に至る経緯は「」が詳しい。 J1連続在籍10年目を迎えたはの活躍とともに夏場から調子を上げ、J1残留を決めた第30節から最終節までクラブ新記録となる5連勝を記録し、3年ぶりの1桁順位となる7位でシーズンを終えた。 翌28日にはも柳下が引き続き指揮を執ることが発表された。 2014年はの中断期間まで7位であったが、、の退団やけが人の影響もあり12位で終了。 11年振りに2ステージ制に戻されたは終盤まで残留争いに加わってしまうものの、最終的に年間15位で残留を決めた。 では、クラブ史上初の決勝トーナメントに進出し、ベスト4の成績を残した。 シーズン終了後に柳下が監督を辞任した。 は前年の監督だったが監督に就任した。 開幕戦となった戦は勝利を飾ったものの、次節で早くも守備の脆さが出て大敗。 それから成績が振るわず1stステージを13位で終える。 2ndステージも開幕4連敗を喫するなど波に乗れない(レンタルで3人放出したにも関わらず補強が無かった事による戦力不足に加え、怪我人が多発した事も響いた)。 残留争いの直近の相手である甲府・名古屋に敗戦し、降格圏内まで勝ち点差1に詰め寄られた事が決定打となり、9月27日に吉田監督以下コーチ陣は4試合を残しての解任となった。 後任はコーチを務めていたが就任した。 その後残留争いは最終節までもつれた。 勝てば残留という状況の中、広島戦も敗戦を喫し勝ち点で名古屋と並んだものの、得失点差で上回りかろうじて年間15位で残留を果たした。 年間勝ち点30での残留は現行の18チーム制になってからは史上最少の記録である。 は、前年の監督であったが新監督に就任 するも開幕からリーグ戦10試合で僅か1勝と低迷。 第10節の戦で敗れ、試合後に三浦が辞任。 後任にを招聘した。 呂比須の初陣となった第12節戦でリーグ2勝目を挙げたが、その後はリーグ戦16試合勝ち無しとクラブワースト記録を更新するなど低迷してしまった。 、第32節の戦には勝利したものの、他会場の結果により昇格14年目にして初のJ2降格が決定した。 最終的には第29節の戦から5勝1分と復調し17位で終了。 シーズン終了後、呂比須の退任と強化部長の退任が発表された。 監督の後任にはに内定した。 2018年 - J2 2018年は1年でのJ1復帰を目指したが、リーグ前半戦 第21節終了時 は7勝5分9敗と低迷。 特にホーム戦では第6節の徳島戦しか勝てなかった。 8月7日に鈴木政一監督が契約解除され、ヘッドコーチのが新監督に就任した。 以降はホーム戦でも勝てるようになったが順位は上がらず、上位争いに加わる事無く16位でシーズンを終えた。 ルヴァンカップも予選リーグ3位で終わった。 2019年は第9節を終えた時点で3勝3敗3分けの9位で昇格争いに出遅れていた。 4月14日、片渕が解任され、アカデミーダイレクターのが監督に就任した。 監督の途中解任は4シーズン連続となる。 また、7月30日からホームタウンを新潟県内の全市町村に拡大した。 記録と成績 詳細は「」を参照 タイトル• :1回• :3回• 1986年、1996年、1997年 表彰• 2010年• 2013年• 2014年• 2014年• 2002年• 2003年 マルクス• 2019年• フェアプレー賞• 2018年 その他• 2008年 、• 2017年• 2004年 アルビレックス新潟• 2005年 アルビレックス新潟• 2007年• 2009年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2012年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2013年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2015年 デンカビッグスワンスタジアム• 2016年 デンカビッグスワンスタジアム ユニフォーム ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング FP(1st) オレンジ オレンジ オレンジ FP(2nd) 白 白 白 GK(1st) 黒 黒 黒 GK(2nd) 黄 黄 黄 各年度別のスポンサー等の詳細は「」の年度別記事を参照 チームカラー チームカラーはオレンジと青、白。 オレンジと青はチーム名の由来となったの「アルビレオ」、日本海に沈む夕日、とに、白は白鳥と雪から採られた。 ユニフォームスポンサー 掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考 胸 亀田製菓 1999年 - 2016年 - 2018年は「ハッピーターン」表記 鎖骨 Denka 2018年 - 左側に表記 背中上部 コメリ 2011年 - 背中下部 NSG GROUP 2018年 - 2018年 - 2019年は鎖骨右側 袖 NAMiCS 2018年 - パンツ 2002年 - ユニフォームサプライの遍歴• 1999年 - 2002年:• J参入以前はがサプライヤーで、シャツ、パンツともにオレンジ、襟が青色のデザイン。 胸スポンサーは、袖は(蔦屋書店表記)で、1999年から毎年胸にスポンサーロゴを掲出しているは背スポンサーだった。 1997年からパンツが青になる。 1999年からJ2昇格と共にがサプライヤーとなると、シャツに青のストライプが加わった。 2003年からサプライヤーがに変更された。 2007年から上下ともオレンジがメインになった。 2009年は背スポンサーが見つからないままシーズンが開幕するが、アパレルブランド「」等を展開するが7月から半年間スポンサーロゴを掲出した。 2014年シーズンの新ユニフォームは「原点回帰」と銘打たれ、Jリーグ参入時の太いストライプ柄が復活した。 2015年にクラブ初のカップ戦専用ユニフォームとなる青をベースとした新ユニフォームを発表した。 2016年は2ndユニフォームが緑ベースとなり、シャツはボーダー柄となった。 さらにチーム創設時から胸スポンサーであった亀田製菓が掲出ロゴを「亀田製菓」から商品の「ハッピーターン」に変更した。 2017年は2ndユニフォームが再び白ベースとなり、胸スポンサーである亀田製菓の提出ロゴが1st・3rdが「ハッピーターン」、2ndが「亀田製菓」となった。 スタジアムと練習場 アルビレックス新潟、ゴール裏サポーター() ホームスタジアムはJFLに加盟した1998年から2000年まではのみだったが、2001年に(ビッグスワン。 の施設命名権購入により、2014年からデンカビッグスワンスタジアム)の完成後は2か所併用となる。 ただし登録上の本拠地は新潟陸のみのままで、新潟スは「準本拠地」の扱いだったが、ビッグスワンでの試合比率を増やし、過半数の試合を開催して事実上の移転となった。 2004年の昇格後のホームゲームはすべてビッグスワンで開催している(Jリーグへの登録上の本拠地は2004年から2012年まではこの2箇所を併記されていたが、2013年に新潟市陸上競技場の本拠登録を抹消した。 また、での掲載は2011年以後省略されている)。 なお、2004年により、リーグ戦との新潟主管(扱い)のそれぞれ1試合ずつは、関東地方の競技場に振り替えられ、2014年最終節は大雪の影響でで開催した。 (の項参照) スタジアム内の場内アナウンスは新潟お笑い集団から、、が歴任している。 練習場は主に聖籠町にあるを使用している。 以前は新潟市陸上競技場、、同市五十公野サンスポーツランドを使用する場合もあった。 短期合宿はの(クロアチアピッチ)で行うことが多い。 観客動員 Jリーグでも屈指の観客動員力を持ち、2003年度はJ2所属ながらJ1、J2を通して最多の観客動員数約66万人を記録した。 2004年度は、がJ2所属だった2000年(この年トップはの約26万人)を除き、1996年度から守り続けていたJ1年間観客動員トップの座を初めて奪取する約56万5000人(1試合あたり約37,700人)の動員を記録した。 2005年には年間68万人までに伸び、2003年から3年連続でJリーグ(J1・J2含む)1位の観客動員数を記録した。 この観客動員数が評価され、クラブは2003年、2004年と2年連続で・join賞 チェアマン特別賞 を受賞している。 しかし観客動員は2006年をピークに減少が続いており、2011年には平均3万人を割り込んだ。 同年7月13日の戦ではJ1昇格後最少となる13,644人を記録しており、クラブ側も観客動員数の回復を喫緊の課題と捉えている。 2013年に動員の下落は下げ止まりの感を見せたものの、長らく浦和に次ぐ2番手だった観客動員数はに抜かれて3位に転落した。 2014年は最終節の延期の影響もあり4位となった。 年度別観客動員記録 略記について• 新潟ス:(東北電ス:、デンカ:)新潟陸:、国立:、カシマ: 所属 年度 試合数 合計 平均 最多 最少 試合会場 備考 JFL 1998 - 40,447 2,696 - - - - J2 1999 18 75,798 4,211 9,327 2,045 -• J2加盟 2000 20 80,139 4,007 11,662 1,786 -• 5月18日 J2最少観客動員 対 1,853人 2001 22 366,500 16,659 42,011 2,373 -• 新潟スタジアム完成 2002 22 472,507 21,478 42,211 9,125 新潟ス11、新潟陸11 - 2003 22 667,447 30,339 42,223 8,644 新潟ス15、新潟陸7• 11月23日 J2最多観客動員 対 42,223人 J1 2004 15 565,336 37,689 41,955 11,150 新潟ス14、国立1• J1昇格• 正式に新潟スを本拠地登録化(新潟陸と併記だが実質移転) 2005 17 681,945 40,114 41,988 35,337 新潟ス17• J1最多観客動員数 当時• 9月10日 J1 対 J1通算観客動員 100万人 26試合目での達成 2006 17 658,050 38,709 42,056 33,993 新潟ス17• 5月6日 J1最多観客動員 対 42,056人 2007 17 650,698 38,276 42,015 31,500 東北電ス17• 4月14日 J1 対 J1通算観客動員 200万人• 11月10日 J1 対 J1通算観客動員 250万人 65試合目での達成 2008 17 586,325 34,490 40,359 22,740 東北電ス17• 10月4日 J1 対 J1通算観客動員 300万人 2009 17 568,582 33,446 40,268 24,392 東北電ス17 - 2010 17 519,221 30,542 41,002 19,152 東北電ス17 - 2011 17 442,836 26,049 37,830 13,644 東北電ス17 - 2012 17 425,309 25,018 35,506 15,854 東北電ス17 - 2013 17 443,906 26,112 33,378 18,919 東北電ス17 - 2014 17 390,648 22,979 35,533 2,104 デンカ16、カシマ1• カシマでの1試合はデンカが大雪で試合中止になったことによる代替開催 2015 17 372,908 21,936 31,324 16,068 デンカ17 - 2016 17 360,076 21,181 29,692 14,627 デンカ17 - 計 JFLは加算しない 選手・監督 2014年に選出されたJ1昇格10周年記念「俺たちの夢のイレブン」 アルビレオ新潟への改称以降、クラブには200人を超える選手が在籍した。 最長の在籍期間、最多の出場試合は共に新潟県内出身ので在籍15年半 、出場試合数は316試合である。 最多得点選手は国籍ので、116試合に出場して62得点を決めている。 エジミウソンをはじめとした外国籍選手の国籍は述べ8ヶ国を数え、最多は常駐のスカウトを派遣しているブラジル国籍選手である。 監督の交代はJリーグ昇格以前から少なかったが、2016年以降在任期間が1年未満での交代が続いている。 アルビレオ改称後、最長の在任期間はの5年、最短は2016年のの3ヶ月である。 J1での最高順位はが指揮を執った2007年の6位、最多勝ち点はが指揮を執った2013年の55点である。 夢のイレブン クラブのJ1昇格10周年を記念し、2013年11月から12月にかけ紙上で「俺たちの夢のイレブン」が募集された。 ファン投票の結果を受け、2014年1月4日の新潟日報紙上で発表された「夢のイレブン・監督」12人を以下に記す。 最多得票はの507票だった。 GK DF 、、、 MF 、、、 FW 、 監督 (並びは投票数順) 運営会社 株式会社アルビレックス新潟 Albirex Niigata Inc. 本社所在地 950-0954 2-1-10 設立 代表者 資本金 7億1,200万円 売上高 22億4700万円(2019年12月31日時点) 営業利益 0円(2019年12月31日時点) 経常利益 1億5400万円(2019年12月31日時点) 純利益 1億7000万円(2019年12月31日時点) 純資産 4億0900万円(2019年12月31日時点) 総資産 12億0400万円(2019年12月31日時点) 現在、新潟県内を中心に170の企業・団体から出資を受けているが、具体的な出資者名は明らかにされていない。 設立当初は県内に単独でJリーグクラブを支える体力がある企業が存在しないため、「広く薄く」の方針で多くの企業から出資を募った。 事業規模は毎年23-24億円程度で、30億円程度とされるJ1クラブの平均予算と比較しても貧弱な数字になっている。 現在の社長は5代目で、2008年からの代表取締役を務めていた。 後述する初代社長の、2代目社長のは、新潟社長退任後にいずれもJリーグ理事の役職に就いた。 1996年、アルビレオ新潟は県内企業30社が1000万円を出し合い、2億9500万円の資本金で設立された。 経営の中心には、県内で多数の専門学校を展開する理事長の池田弘が据えられた。 当初アルビレオのJリーグ挑戦はワールドカップ誘致活動の一環という性格が強く、経営状態も芳しくなかった為に誘致成功を手土産に解散の可能性もあったという。 池田は私財を投じて窮地をしのぐ一方で、後援会組織を立ち上げて小口の個人出資を募った。 さらにこの頃から「ばらまき作戦 」とも揶揄された採算を度外視した無料招待券の大量配布が始まり、観客動員数は飛躍的に増加。 収支は2000年に初めて黒字へ転換した。 しかし、J1昇格に伴う強化費の増加に加え、観客動員数の落ち込み等を要因とする営業収入の落ち込みもあり、2005年から公表されている収支報告では毎年営業赤字を計上した。 チケット売り上げ等の興業収入は最大時の2005年に約12億円を計上したが、2012年は最大時から5億円減となる約7億円、興業収入の柱となるシーズンチケットの売り上げは最盛期の2万枚からおおよそ半減している。 アカデミー アカデミーの年度別成績については「」を参照• ユース 1998年4月創設・活動開始。 本隊の他に過去には、提携チームとして中条ユース( - 2004年度)があった。 ジュニアユース 2004年4月創設・活動開始。 2004年4月、提携チームであった「アルビレックス新潟新潟ジュニアユース」を解消して新たに直属チームとして編成された。 本隊の他に、提携チームとして 柏崎ジュニアユースと 中条ジュニアユースがある。 過去には、提携チームとして新潟ジュニアユース( - 2004年度)と加茂ジュニアユース( - 2005年度)があった。 ジュニア 2007年4月創設・活動開始。 サッカースクール 東新潟校・美咲校・駅南校・寺尾校・白根校・亀田校・アルビレッジ校がある。 関連する組織 アルビレックス新潟シンガポール 詳細は「」を参照 JAPANサッカーカレッジ(JSC)はに加盟するチームで、アルビレックス新潟の運営母体である(新潟総合学院、国際総合学園)の傘下にある。 JSCに所属している選手は、アルビレックス新潟の練習へも参加でき、事実上のアマチュア組織のチームとなっている。 また、2005年にJSC高等部が設けられ、アルビレックス新潟ユースとともにユース部門を担っている。 JSC高等部はと教育連携しており、やに「開志学園JAPANサッカーカレッジ高等部」として出場している。 決算 アルビレックス新潟の決算は、つぎのとおり。 損益 年度 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益 2005 2,639 840 1,185 266 348 2,682 1,978 1,269 704 -43 -259 2006 2,793 960 994 241 598 2,857 2,169 1,248 688 -64 10 2007 2,661 977 906 277 501 2,953 2,272 1,374 681 -292 -202 2008 2,590 950 831 245 564 2,720 2,132 1,208 588 -130 -46 2009 2,418 853 822 229 514 2,470 1,975 1,038 495 -52 89 2010 2,216 843 770 224 379 2,341 1,850 910 491 -125 4 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 、 、 、 、 、 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 販売 利益 純利益 2011 2,227 919 701 219 118 270 2,270 809 276 256 117 26 786 -43 72 2012 2,405 941 661 220 137 446 2,450 940 281 282 122 34 791 -45 44 2013 2,548 963 674 215 143 553 2,636 1,077 283 277 128 39 832 -88 29 2014 2,748 1,013 650 210 165 710 2,853 1,085 267 377 144 48 932 -105 10 2015 2,510 1,038 711 206 176 379 2,795 1,138 285 267 147 51 907 -285 -120 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 、 、 、 、 金額の単位: 百万円 年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 物販 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 物販 販売 利益 純利益 2016 2,908 1,049 679 218 194 277 491 2,959 1,220 269 225 150 61 222 812 -51 97 2017 2,762 1,085 629 452 196 224 176 2,974 1,227 267 301 160 58 174 787 -212 -55 2018 2,493 1,127 507 281 191 200 187 2,728 1,108 267 268 137 65 166 717 -235 -149 2019 2,247 949 500 149 178 231 240 2,248 722 272 253 165 0 189 647 -1 170 資産 年度 総資産 総負債 純資産 資本金 2005 1,293 839 454 712 2006 1,304 839 464 712 2007 1,145 882 262 712 2008 1,043 827 216 712 2009 1,007 702 305 712 2010 897 587 309 712 2011 922 541 381 712 2012 970 545 425 712 2013 905 450 455 712 2014 1,121 656 465 712 2015 1,227 880 347 712 2016 1,403 959 444 712 2017 1,369 981 388 712 2018 1,228 989 239 712 2019 1,204 795 409 712• 新潟県サッカー協会理事長(当時)の澤村哲郎は、賛同を得るにあたって、新潟県がの開催都市に立候補できずにいたことが大きな要因になったと述べている。 この決定を下した代表取締役社長(当時)は「人切り池田」として大きな非難を浴びた が、その様子がの目に留まる。 このことがきっかけとなり、池田は後にJリーグ理事に就任した。 2004年9月23日 J1 2ndステージ・ 第6節 広島戦-2004年10月17日 J1 2ndステージ・第9節 鹿島戦• 2010年4月17日 J1・第7節 名古屋戦-2010年8月7日 J1・第17節 京都戦• 2010年5月1日 J1・第9節 神戸戦-2010年5月15日 J1・第12節 山形戦• 新潟に在籍した経験がある選手• 年間観客動員の新記録を達成したため。 1試合平均観客動員数を大幅に更新したため。 また、新潟県中越地震の復興支援に貢献したため。 選手の配置は実際のポジションと異なる選手もいるが、紙面に掲載された順に配置した。 への期限付き移籍期間を除く。 の、在籍時二重国籍の、を取得したを含める。 成績不振により解任されたの後任としてコーチから監督に昇格する形でシーズン終了まで指揮した。 片渕は翌年からコーチに復帰した後、暫定監督を含めて2度指揮している。 飯塚健司『アルビレックス新潟の奇跡』、2005年。 インタープライズ・コンサルティング• 元川悦子. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 川崎フロンターレ. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 前島芳雄. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 大中祐二. OCNスポーツ. 2013年1月22日閲覧。 佐藤円. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 新潟日報 2012年5月22日• FromOne co. ,Ltd. 2013年1月27日閲覧。 アルビレックス新潟公式サイト• 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月22日閲覧。 斎藤慎一郎 2013年10月27日. スポーツニッポン. 2013年10月29日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年10月29日閲覧。 アルビレックス新潟. 2015年12月4日閲覧。 アルビレックス新潟公式サイト• プレスリリース , アルビレックス新潟, 2019年7月30日 , 2019年8月2日閲覧。 プレスリリース , Jリーグ, 2019年7月30日 , 2019年8月2日閲覧。 アルビレックス新潟 公式サイト: 2009年07月11日• アルビレックス新潟. 2014年1月4日閲覧。 アルビレックス新潟. 2015年10月21日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2014年1月4日閲覧。 Jリーグ. 2014年12月10日閲覧。 最終節を除く16戦までの計算ではJ1で3位の水準であった• 新潟日報. 2014年1月4日閲覧。 新潟日報 2014年1月4日1版 17-18面 特集面• アルビレックス新潟公式ホームページ• Biz STYLE. 2013年2月5日閲覧。 アルビレックス新潟バルセロナ 2013年2月5日• アルビレックス新潟 2013年10月16日 関連項目• 外部リンク ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - チャンネル•
次のチーム名の由来となった。 オレンジの星と青の星からなる。 1955年、OBが中心となって創部した新潟イレブンサッカークラブが前身。 1995年、にあるに由来する『 アルビレオ新潟FC』に改称したが、1997年、問題からクラブ名の改称を決定し、県民投票の結果"アルビレオ"とで「王」を意味する"レックス"を掛け合わせた造語である『 アルビレックス新潟』に改称した。 なお、他の候補名はで「俺たちの」を意味する『オラッタ新潟』と「白鳥の騎士」を意味する『シスネーテス新潟』があった。 1999年にへ加盟。 はホームスタジアム・があるとクラブハウスのあるのみだったが、2019年7月30日より新潟県内の全市町村に拡大した。 はをモチーフに2000年に登場した『』。 近隣にライバルクラブは存在していないが、2007年頃から企画先行ながらとの対戦を 、との対戦をと呼ぶようになった。 総合型地域スポーツクラブ 詳細は「」を参照 前史 1955年、新潟イレブンサッカークラブとして創部。 には社会優良団体(優良スポーツクラブ)として賞を受賞した。 1991年、新潟県サッカー協会はの開催地に立候補することを決定(翌1992年に新潟県議会でも可決 )。 ワールドカップ招致活動の一環として掲げられたプロサッカークラブの創設と短期間での加盟を実現するため、からのスタートとなるクラブの新設ではなく、、などの全国大会への出場経験を持つの新潟イレブンSCを強化することになり、1995年、県サッカー協会の強化指定を受けた新潟イレブンSCを母体にの主力選手を加えてチーム名を アルビレオ新潟FCに改称した。 新監督に県の外国人スポーツ指導者招聘事業により来県していたが就任し、新潟イレブンSCの監督を務めていたは総監督に就任した。 1996年、チーム母体を法人組織として株式会社を設立しプロ化、日本初の地域リーグでのプロサッカークラブとなった。 1997年、クラブ名を アルビレックス新潟に改称して臨んだシーズンは北信越リーグ連覇を果たし、及びJリーグより地域リーグ所属のクラブからは唯一となる1999年に開幕するへの参入を承認された。 1998年、を勝ち抜き、に昇格。 JFLは監督の下で臨んだが、順位は11位と低迷。 翌年からのJ2参入に向けてチームを強化するため、26名の選手のうち17名との契約を打ち切ることになった。 1999年 - 2003年 J2 J2昇格後はや、ら、各ポジションにJリーグ経験者を含む即戦力を補強した。 には新潟出身の元日本代表、が、には同じく代表経験のあるが加入した。 昇格初年度のはJ2開幕から7連勝を記録してリーグ中盤戦まで首位をキープするなど健闘し、最終順位は4位となった。 永井は2000年まで監督を務めたが、J1昇格はならなかった。 2001年、新監督にが就任。 の会場に選出されたを主な舞台に、元日本代表の、、、らが活躍し、に、とのし烈な昇格争いを制してJ2優勝・J1昇格を決めた。 優勝を決めた最終節戦には、ビッグスワンに42,223人のサポーターが詰めかけた。 詳細は「」を参照。 マルクスは2002年(19得点)、2003年(32得点)と、2年連続でJ2得点王となった。 2004年 - 2017年 J1 J1昇格後もまで反町が指揮を執った。 昇格1年目の2004年は、らブラジル人を中心としたカウンター戦術で、2ndステージで4連勝 をマークするなど一時上位争いを展開し、最終節を待たずに残留を決めた。 また、の影響(余震及びスタジアム駐車場がの前線基地となった)により、10月、11月に予定されていたでの2試合は、、で代替開催された。 代替開催も新潟サポーターは県内から多数駆け付け、手製の横断幕を持って応援した。 地震直後の試合となった戦では試合前に会場全体で黙とうが捧げられた。 からまでの4年間はが監督を務めた。 鈴木はやらを中心とした攻撃的なチームを作り上げ、にJ1昇格後最高順位となる6位の成績を残した。 また、この年には矢野がクラブ初の日本代表に選出され、3月24日に行われた戦で初キャップを記録した。 中心選手だったエジミウソン、らが移籍したは残留争いに巻き込まれるが 、には4-3-3の攻撃的なフォーメーションを敷いて上位争いに顔を出した。 鈴木の後任にはヘッドコーチからが昇格し、2シーズン連続でJ1残留に成功した。 は11試合連続無敗のクラブ記録を作り 、その間2004年以来6シーズンぶりに4連勝を記録した。 しかし黒崎の在任中、前述した矢野、に選出されたマルシオ をはじめ、代表経験のある、等、多くの主力選手が国内外へ流出し、終盤から得点力不足に悩まされた。 は開幕から3連敗を喫するなど降格圏内に沈み、黒崎は2012年5月に辞任した。 シーズン途中での監督交代はクラブ史上初のことだった。 黒崎の辞任後、2011年までの監督を務めていたが監督に就任し 、チームは薄氷のJ1残留に成功した。 残留争いは最終節までもつれ、新潟が勝利してもなお自力での残留は困難な状況の中、最終節で勝利。 残留を争うとが共に敗れ、逆転で15位に浮上してJ1残留を果たした。 最終節に至る経緯は「」が詳しい。 J1連続在籍10年目を迎えたはの活躍とともに夏場から調子を上げ、J1残留を決めた第30節から最終節までクラブ新記録となる5連勝を記録し、3年ぶりの1桁順位となる7位でシーズンを終えた。 翌28日にはも柳下が引き続き指揮を執ることが発表された。 2014年はの中断期間まで7位であったが、、の退団やけが人の影響もあり12位で終了。 11年振りに2ステージ制に戻されたは終盤まで残留争いに加わってしまうものの、最終的に年間15位で残留を決めた。 では、クラブ史上初の決勝トーナメントに進出し、ベスト4の成績を残した。 シーズン終了後に柳下が監督を辞任した。 は前年の監督だったが監督に就任した。 開幕戦となった戦は勝利を飾ったものの、次節で早くも守備の脆さが出て大敗。 それから成績が振るわず1stステージを13位で終える。 2ndステージも開幕4連敗を喫するなど波に乗れない(レンタルで3人放出したにも関わらず補強が無かった事による戦力不足に加え、怪我人が多発した事も響いた)。 残留争いの直近の相手である甲府・名古屋に敗戦し、降格圏内まで勝ち点差1に詰め寄られた事が決定打となり、9月27日に吉田監督以下コーチ陣は4試合を残しての解任となった。 後任はコーチを務めていたが就任した。 その後残留争いは最終節までもつれた。 勝てば残留という状況の中、広島戦も敗戦を喫し勝ち点で名古屋と並んだものの、得失点差で上回りかろうじて年間15位で残留を果たした。 年間勝ち点30での残留は現行の18チーム制になってからは史上最少の記録である。 は、前年の監督であったが新監督に就任 するも開幕からリーグ戦10試合で僅か1勝と低迷。 第10節の戦で敗れ、試合後に三浦が辞任。 後任にを招聘した。 呂比須の初陣となった第12節戦でリーグ2勝目を挙げたが、その後はリーグ戦16試合勝ち無しとクラブワースト記録を更新するなど低迷してしまった。 、第32節の戦には勝利したものの、他会場の結果により昇格14年目にして初のJ2降格が決定した。 最終的には第29節の戦から5勝1分と復調し17位で終了。 シーズン終了後、呂比須の退任と強化部長の退任が発表された。 監督の後任にはに内定した。 2018年 - J2 2018年は1年でのJ1復帰を目指したが、リーグ前半戦 第21節終了時 は7勝5分9敗と低迷。 特にホーム戦では第6節の徳島戦しか勝てなかった。 8月7日に鈴木政一監督が契約解除され、ヘッドコーチのが新監督に就任した。 以降はホーム戦でも勝てるようになったが順位は上がらず、上位争いに加わる事無く16位でシーズンを終えた。 ルヴァンカップも予選リーグ3位で終わった。 2019年は第9節を終えた時点で3勝3敗3分けの9位で昇格争いに出遅れていた。 4月14日、片渕が解任され、アカデミーダイレクターのが監督に就任した。 監督の途中解任は4シーズン連続となる。 また、7月30日からホームタウンを新潟県内の全市町村に拡大した。 記録と成績 詳細は「」を参照 タイトル• :1回• :3回• 1986年、1996年、1997年 表彰• 2010年• 2013年• 2014年• 2014年• 2002年• 2003年 マルクス• 2019年• フェアプレー賞• 2018年 その他• 2008年 、• 2017年• 2004年 アルビレックス新潟• 2005年 アルビレックス新潟• 2007年• 2009年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2012年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2013年 東北電力ビッグスワンスタジアム• 2015年 デンカビッグスワンスタジアム• 2016年 デンカビッグスワンスタジアム ユニフォーム ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング FP(1st) オレンジ オレンジ オレンジ FP(2nd) 白 白 白 GK(1st) 黒 黒 黒 GK(2nd) 黄 黄 黄 各年度別のスポンサー等の詳細は「」の年度別記事を参照 チームカラー チームカラーはオレンジと青、白。 オレンジと青はチーム名の由来となったの「アルビレオ」、日本海に沈む夕日、とに、白は白鳥と雪から採られた。 ユニフォームスポンサー 掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考 胸 亀田製菓 1999年 - 2016年 - 2018年は「ハッピーターン」表記 鎖骨 Denka 2018年 - 左側に表記 背中上部 コメリ 2011年 - 背中下部 NSG GROUP 2018年 - 2018年 - 2019年は鎖骨右側 袖 NAMiCS 2018年 - パンツ 2002年 - ユニフォームサプライの遍歴• 1999年 - 2002年:• J参入以前はがサプライヤーで、シャツ、パンツともにオレンジ、襟が青色のデザイン。 胸スポンサーは、袖は(蔦屋書店表記)で、1999年から毎年胸にスポンサーロゴを掲出しているは背スポンサーだった。 1997年からパンツが青になる。 1999年からJ2昇格と共にがサプライヤーとなると、シャツに青のストライプが加わった。 2003年からサプライヤーがに変更された。 2007年から上下ともオレンジがメインになった。 2009年は背スポンサーが見つからないままシーズンが開幕するが、アパレルブランド「」等を展開するが7月から半年間スポンサーロゴを掲出した。 2014年シーズンの新ユニフォームは「原点回帰」と銘打たれ、Jリーグ参入時の太いストライプ柄が復活した。 2015年にクラブ初のカップ戦専用ユニフォームとなる青をベースとした新ユニフォームを発表した。 2016年は2ndユニフォームが緑ベースとなり、シャツはボーダー柄となった。 さらにチーム創設時から胸スポンサーであった亀田製菓が掲出ロゴを「亀田製菓」から商品の「ハッピーターン」に変更した。 2017年は2ndユニフォームが再び白ベースとなり、胸スポンサーである亀田製菓の提出ロゴが1st・3rdが「ハッピーターン」、2ndが「亀田製菓」となった。 スタジアムと練習場 アルビレックス新潟、ゴール裏サポーター() ホームスタジアムはJFLに加盟した1998年から2000年まではのみだったが、2001年に(ビッグスワン。 の施設命名権購入により、2014年からデンカビッグスワンスタジアム)の完成後は2か所併用となる。 ただし登録上の本拠地は新潟陸のみのままで、新潟スは「準本拠地」の扱いだったが、ビッグスワンでの試合比率を増やし、過半数の試合を開催して事実上の移転となった。 2004年の昇格後のホームゲームはすべてビッグスワンで開催している(Jリーグへの登録上の本拠地は2004年から2012年まではこの2箇所を併記されていたが、2013年に新潟市陸上競技場の本拠登録を抹消した。 また、での掲載は2011年以後省略されている)。 なお、2004年により、リーグ戦との新潟主管(扱い)のそれぞれ1試合ずつは、関東地方の競技場に振り替えられ、2014年最終節は大雪の影響でで開催した。 (の項参照) スタジアム内の場内アナウンスは新潟お笑い集団から、、が歴任している。 練習場は主に聖籠町にあるを使用している。 以前は新潟市陸上競技場、、同市五十公野サンスポーツランドを使用する場合もあった。 短期合宿はの(クロアチアピッチ)で行うことが多い。 観客動員 Jリーグでも屈指の観客動員力を持ち、2003年度はJ2所属ながらJ1、J2を通して最多の観客動員数約66万人を記録した。 2004年度は、がJ2所属だった2000年(この年トップはの約26万人)を除き、1996年度から守り続けていたJ1年間観客動員トップの座を初めて奪取する約56万5000人(1試合あたり約37,700人)の動員を記録した。 2005年には年間68万人までに伸び、2003年から3年連続でJリーグ(J1・J2含む)1位の観客動員数を記録した。 この観客動員数が評価され、クラブは2003年、2004年と2年連続で・join賞 チェアマン特別賞 を受賞している。 しかし観客動員は2006年をピークに減少が続いており、2011年には平均3万人を割り込んだ。 同年7月13日の戦ではJ1昇格後最少となる13,644人を記録しており、クラブ側も観客動員数の回復を喫緊の課題と捉えている。 2013年に動員の下落は下げ止まりの感を見せたものの、長らく浦和に次ぐ2番手だった観客動員数はに抜かれて3位に転落した。 2014年は最終節の延期の影響もあり4位となった。 年度別観客動員記録 略記について• 新潟ス:(東北電ス:、デンカ:)新潟陸:、国立:、カシマ: 所属 年度 試合数 合計 平均 最多 最少 試合会場 備考 JFL 1998 - 40,447 2,696 - - - - J2 1999 18 75,798 4,211 9,327 2,045 -• J2加盟 2000 20 80,139 4,007 11,662 1,786 -• 5月18日 J2最少観客動員 対 1,853人 2001 22 366,500 16,659 42,011 2,373 -• 新潟スタジアム完成 2002 22 472,507 21,478 42,211 9,125 新潟ス11、新潟陸11 - 2003 22 667,447 30,339 42,223 8,644 新潟ス15、新潟陸7• 11月23日 J2最多観客動員 対 42,223人 J1 2004 15 565,336 37,689 41,955 11,150 新潟ス14、国立1• J1昇格• 正式に新潟スを本拠地登録化(新潟陸と併記だが実質移転) 2005 17 681,945 40,114 41,988 35,337 新潟ス17• J1最多観客動員数 当時• 9月10日 J1 対 J1通算観客動員 100万人 26試合目での達成 2006 17 658,050 38,709 42,056 33,993 新潟ス17• 5月6日 J1最多観客動員 対 42,056人 2007 17 650,698 38,276 42,015 31,500 東北電ス17• 4月14日 J1 対 J1通算観客動員 200万人• 11月10日 J1 対 J1通算観客動員 250万人 65試合目での達成 2008 17 586,325 34,490 40,359 22,740 東北電ス17• 10月4日 J1 対 J1通算観客動員 300万人 2009 17 568,582 33,446 40,268 24,392 東北電ス17 - 2010 17 519,221 30,542 41,002 19,152 東北電ス17 - 2011 17 442,836 26,049 37,830 13,644 東北電ス17 - 2012 17 425,309 25,018 35,506 15,854 東北電ス17 - 2013 17 443,906 26,112 33,378 18,919 東北電ス17 - 2014 17 390,648 22,979 35,533 2,104 デンカ16、カシマ1• カシマでの1試合はデンカが大雪で試合中止になったことによる代替開催 2015 17 372,908 21,936 31,324 16,068 デンカ17 - 2016 17 360,076 21,181 29,692 14,627 デンカ17 - 計 JFLは加算しない 選手・監督 2014年に選出されたJ1昇格10周年記念「俺たちの夢のイレブン」 アルビレオ新潟への改称以降、クラブには200人を超える選手が在籍した。 最長の在籍期間、最多の出場試合は共に新潟県内出身ので在籍15年半 、出場試合数は316試合である。 最多得点選手は国籍ので、116試合に出場して62得点を決めている。 エジミウソンをはじめとした外国籍選手の国籍は述べ8ヶ国を数え、最多は常駐のスカウトを派遣しているブラジル国籍選手である。 監督の交代はJリーグ昇格以前から少なかったが、2016年以降在任期間が1年未満での交代が続いている。 アルビレオ改称後、最長の在任期間はの5年、最短は2016年のの3ヶ月である。 J1での最高順位はが指揮を執った2007年の6位、最多勝ち点はが指揮を執った2013年の55点である。 夢のイレブン クラブのJ1昇格10周年を記念し、2013年11月から12月にかけ紙上で「俺たちの夢のイレブン」が募集された。 ファン投票の結果を受け、2014年1月4日の新潟日報紙上で発表された「夢のイレブン・監督」12人を以下に記す。 最多得票はの507票だった。 GK DF 、、、 MF 、、、 FW 、 監督 (並びは投票数順) 運営会社 株式会社アルビレックス新潟 Albirex Niigata Inc. 本社所在地 950-0954 2-1-10 設立 代表者 資本金 7億1,200万円 売上高 22億4700万円(2019年12月31日時点) 営業利益 0円(2019年12月31日時点) 経常利益 1億5400万円(2019年12月31日時点) 純利益 1億7000万円(2019年12月31日時点) 純資産 4億0900万円(2019年12月31日時点) 総資産 12億0400万円(2019年12月31日時点) 現在、新潟県内を中心に170の企業・団体から出資を受けているが、具体的な出資者名は明らかにされていない。 設立当初は県内に単独でJリーグクラブを支える体力がある企業が存在しないため、「広く薄く」の方針で多くの企業から出資を募った。 事業規模は毎年23-24億円程度で、30億円程度とされるJ1クラブの平均予算と比較しても貧弱な数字になっている。 現在の社長は5代目で、2008年からの代表取締役を務めていた。 後述する初代社長の、2代目社長のは、新潟社長退任後にいずれもJリーグ理事の役職に就いた。 1996年、アルビレオ新潟は県内企業30社が1000万円を出し合い、2億9500万円の資本金で設立された。 経営の中心には、県内で多数の専門学校を展開する理事長の池田弘が据えられた。 当初アルビレオのJリーグ挑戦はワールドカップ誘致活動の一環という性格が強く、経営状態も芳しくなかった為に誘致成功を手土産に解散の可能性もあったという。 池田は私財を投じて窮地をしのぐ一方で、後援会組織を立ち上げて小口の個人出資を募った。 さらにこの頃から「ばらまき作戦 」とも揶揄された採算を度外視した無料招待券の大量配布が始まり、観客動員数は飛躍的に増加。 収支は2000年に初めて黒字へ転換した。 しかし、J1昇格に伴う強化費の増加に加え、観客動員数の落ち込み等を要因とする営業収入の落ち込みもあり、2005年から公表されている収支報告では毎年営業赤字を計上した。 チケット売り上げ等の興業収入は最大時の2005年に約12億円を計上したが、2012年は最大時から5億円減となる約7億円、興業収入の柱となるシーズンチケットの売り上げは最盛期の2万枚からおおよそ半減している。 アカデミー アカデミーの年度別成績については「」を参照• ユース 1998年4月創設・活動開始。 本隊の他に過去には、提携チームとして中条ユース( - 2004年度)があった。 ジュニアユース 2004年4月創設・活動開始。 2004年4月、提携チームであった「アルビレックス新潟新潟ジュニアユース」を解消して新たに直属チームとして編成された。 本隊の他に、提携チームとして 柏崎ジュニアユースと 中条ジュニアユースがある。 過去には、提携チームとして新潟ジュニアユース( - 2004年度)と加茂ジュニアユース( - 2005年度)があった。 ジュニア 2007年4月創設・活動開始。 サッカースクール 東新潟校・美咲校・駅南校・寺尾校・白根校・亀田校・アルビレッジ校がある。 関連する組織 アルビレックス新潟シンガポール 詳細は「」を参照 JAPANサッカーカレッジ(JSC)はに加盟するチームで、アルビレックス新潟の運営母体である(新潟総合学院、国際総合学園)の傘下にある。 JSCに所属している選手は、アルビレックス新潟の練習へも参加でき、事実上のアマチュア組織のチームとなっている。 また、2005年にJSC高等部が設けられ、アルビレックス新潟ユースとともにユース部門を担っている。 JSC高等部はと教育連携しており、やに「開志学園JAPANサッカーカレッジ高等部」として出場している。 決算 アルビレックス新潟の決算は、つぎのとおり。 損益 年度 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益 2005 2,639 840 1,185 266 348 2,682 1,978 1,269 704 -43 -259 2006 2,793 960 994 241 598 2,857 2,169 1,248 688 -64 10 2007 2,661 977 906 277 501 2,953 2,272 1,374 681 -292 -202 2008 2,590 950 831 245 564 2,720 2,132 1,208 588 -130 -46 2009 2,418 853 822 229 514 2,470 1,975 1,038 495 -52 89 2010 2,216 843 770 224 379 2,341 1,850 910 491 -125 4 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 、 、 、 、 、 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 販売 利益 純利益 2011 2,227 919 701 219 118 270 2,270 809 276 256 117 26 786 -43 72 2012 2,405 941 661 220 137 446 2,450 940 281 282 122 34 791 -45 44 2013 2,548 963 674 215 143 553 2,636 1,077 283 277 128 39 832 -88 29 2014 2,748 1,013 650 210 165 710 2,853 1,085 267 377 144 48 932 -105 10 2015 2,510 1,038 711 206 176 379 2,795 1,138 285 267 147 51 907 -285 -120 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 、 、 、 、 金額の単位: 百万円 年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 物販 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 物販 販売 利益 純利益 2016 2,908 1,049 679 218 194 277 491 2,959 1,220 269 225 150 61 222 812 -51 97 2017 2,762 1,085 629 452 196 224 176 2,974 1,227 267 301 160 58 174 787 -212 -55 2018 2,493 1,127 507 281 191 200 187 2,728 1,108 267 268 137 65 166 717 -235 -149 2019 2,247 949 500 149 178 231 240 2,248 722 272 253 165 0 189 647 -1 170 資産 年度 総資産 総負債 純資産 資本金 2005 1,293 839 454 712 2006 1,304 839 464 712 2007 1,145 882 262 712 2008 1,043 827 216 712 2009 1,007 702 305 712 2010 897 587 309 712 2011 922 541 381 712 2012 970 545 425 712 2013 905 450 455 712 2014 1,121 656 465 712 2015 1,227 880 347 712 2016 1,403 959 444 712 2017 1,369 981 388 712 2018 1,228 989 239 712 2019 1,204 795 409 712• 新潟県サッカー協会理事長(当時)の澤村哲郎は、賛同を得るにあたって、新潟県がの開催都市に立候補できずにいたことが大きな要因になったと述べている。 この決定を下した代表取締役社長(当時)は「人切り池田」として大きな非難を浴びた が、その様子がの目に留まる。 このことがきっかけとなり、池田は後にJリーグ理事に就任した。 2004年9月23日 J1 2ndステージ・ 第6節 広島戦-2004年10月17日 J1 2ndステージ・第9節 鹿島戦• 2010年4月17日 J1・第7節 名古屋戦-2010年8月7日 J1・第17節 京都戦• 2010年5月1日 J1・第9節 神戸戦-2010年5月15日 J1・第12節 山形戦• 新潟に在籍した経験がある選手• 年間観客動員の新記録を達成したため。 1試合平均観客動員数を大幅に更新したため。 また、新潟県中越地震の復興支援に貢献したため。 選手の配置は実際のポジションと異なる選手もいるが、紙面に掲載された順に配置した。 への期限付き移籍期間を除く。 の、在籍時二重国籍の、を取得したを含める。 成績不振により解任されたの後任としてコーチから監督に昇格する形でシーズン終了まで指揮した。 片渕は翌年からコーチに復帰した後、暫定監督を含めて2度指揮している。 飯塚健司『アルビレックス新潟の奇跡』、2005年。 インタープライズ・コンサルティング• 元川悦子. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 川崎フロンターレ. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 前島芳雄. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 大中祐二. OCNスポーツ. 2013年1月22日閲覧。 佐藤円. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。 新潟日報 2012年5月22日• FromOne co. ,Ltd. 2013年1月27日閲覧。 アルビレックス新潟公式サイト• 斎藤慎一郎. J's Goal. 2013年1月22日閲覧。 斎藤慎一郎 2013年10月27日. スポーツニッポン. 2013年10月29日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年10月29日閲覧。 アルビレックス新潟. 2015年12月4日閲覧。 アルビレックス新潟公式サイト• プレスリリース , アルビレックス新潟, 2019年7月30日 , 2019年8月2日閲覧。 プレスリリース , Jリーグ, 2019年7月30日 , 2019年8月2日閲覧。 アルビレックス新潟 公式サイト: 2009年07月11日• アルビレックス新潟. 2014年1月4日閲覧。 アルビレックス新潟. 2015年10月21日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。 Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。 アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。 Jリーグ. 2014年1月4日閲覧。 Jリーグ. 2014年12月10日閲覧。 最終節を除く16戦までの計算ではJ1で3位の水準であった• 新潟日報. 2014年1月4日閲覧。 新潟日報 2014年1月4日1版 17-18面 特集面• アルビレックス新潟公式ホームページ• Biz STYLE. 2013年2月5日閲覧。 アルビレックス新潟バルセロナ 2013年2月5日• アルビレックス新潟 2013年10月16日 関連項目• 外部リンク ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - チャンネル•
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