『 ヘルタースケルター』• 『 さくらん』• 『 Diner ダイナー』 7月に公開された『Diner ダイナー』も原作は小説でしたが、コチラは賛否両論と言った噂もありました。 そして、今回の 小栗旬演じる太宰治の『 人間失格 太宰治と3人の女たち』は、公開前から大きな話題作となり期待感も高まっているよう…(!) 蜷川実花監督は、この映画の制作について小説『人間失格』の映画化ではなく、 太宰治自身の人間像を映画化したという全く新しいオリジナルの脚本で再構成されています。 キャスティング事態も非常に魅力的で、小栗旬の演じる太宰治を「見てみたい!」と感じる方も少なくはないと思います。 【合わせて読みたい】 映画【人間失格】|レビューや感想「とにかくヤバい」 俳優・小栗旬 なにはともあれ、 一度は観てみたいと思っている方は多いと思います。 ただ、内容が「ヤバそう」って言うのは予告だけでもなんとなく想像がつきますよね…(汗) とりあえず、 どのくらい「ヤバい」映画なのか心配な方のために、レビューをまとめてみました。 「人間失格 太宰治と3人の女たち」 太宰治と人間失格は名前だけは知ってたが本当にこんな男がいたってのは凄い。 蜷川実花の世界観が爆発してるであろう演出はいい意味で変わってた。 そして二階堂ふみ演じる山崎富栄。 この女がヤバい。 太宰最後の女ってだけある。 映画観たら分かるが考え方がヤバい。 — しんたろー amatoushintaro 同じ時代に生まれなくて 良かった こんなヤバい男絶対好きになるわ 舞台挨拶 — KABU kayakaya08 人間失格 恋と革命の為に生まれて来た太宰治の自分を破滅に追い込んでまで全力で生きた革命に魅了された。 最後の場面が凄く綺麗。 太宰治が憑依したかの様な小栗旬の演技が圧巻で太宰治その物に見えた。 沢尻エリカの妖艶で危険な雰囲気ヤバい。 二階堂ふみの太宰治に依存した演技凄い。 — ディーン・フクヤマ masuyou1005 人間失格、もう坂口安吾と三島由紀夫のシーンは役者がハマりすぎてて嬉しさしかないし酔いつぶれたくてしょうがなくなる。 それからEDがまたスカパラxチバで死ぬほどヤバい。 あまりにも好き過ぎて一緒にステップを刻みながら絶叫する曲だった。 本当にありがとうございました。 — なかはらったー matsuitter 実際に映画を観た方の感想もさまざまですが、やはりキャスティングの良さや小栗旬の演技がいい意味で「ヤバい」という意見は多そうです。 その他にも、小説自体のファンが観ても相関性があるという点でも評価が高そうですね。 人間失格といい私の男といい二階堂ふみちゃんはあーいう一途な演技がとてもハマるな。 一途すぎて狂気に変わっちゃう感じとても好き。 本人も役柄も大人の女性なのに少女さが残っているの最高に好き。 濡れ場は一番生々しいのにどこかあどけない。 少女ゆえの無邪気さや潔癖さがある感じ良いな。 — ユキ fujimame555 とは言え、二階堂ふみ演じる「メンヘラ」の役については、ヤバいという意見も多いですがそこまで 期待しすぎていくと裏切られてしまうってのは 「あるある」かも知れませんね。 、本格的なラブシーンはダンスのようだった!? 決めたんだ、絶対に行くんだ。 来週木曜はデートになったんだ。 お客さんの8割くらいは「お一人様」だったという意見もありますから、あんまり一人で行ったことがない方も気にせず映画館に行きやすいのではないでしょうか? というより、映画の内容的にも「 逆に誰と行けばいいんだよ!」という感じなので、まあ一人で行ったほうが集中して楽しめそうですね! 【合わせて読みたい】 まとめ|映画【人間失格 太宰治と3人の女たち】 映画『人間失格』 2019年9月公開の映画は、気になる作品が多くて迷っている方も多いのではないでしょうか? この蜷川実花監督の『 人間失格 太宰治と3人の女たち』も、確実にその一つだと言えそうですが、公開直後からすでに「かなりヤバい」という意見が目立っているようです。 まだ 小説を読んだことがない方も、以前から 太宰治ファンだという方も、 とにかく 一見の価値ありという意見が多く見受けられます。 「お一人様」で鑑賞するパターンが多いようですが、それでも大人気だというのがビックリでした。 ちょっとマンネリ化しているカップルとかだと、逆に2人で行って「心をザワザワ」させてみるのもありかも知れません(?) それでは、最後までお読み頂きありがとうございました。
次の「恥の多い生涯を送ってきました。 」 という一文があまりにも有名な1948年にが発表した『』 の代表作ともいえる作品であり、この作品を書き上げた1ヶ月後に愛人・山崎富栄と入水自殺をしたことも有名。 まさに彼の遺作とも言える。 そんな『』をまさかの大胆に翻案して描く劇場アニメーションである本作『HUMAN LOST 』 2019年は監督作品の『 と3人の女たち』が映画化されたばかり、空前のブームが来ているかもしれない。 この映画の私の感想としては 『HUMAN LOST 』観た。 (C) 『』第一巻 私の好きな漫画である 『』のこの雰囲気で楽しむ精神が必要であるが、せめて専門用語ぐらい知識として備えてからこの映画を観たい人向けに、 用語集を前半で書こうと思う。 そして後半はネタバレありのストーリーあらまし解説の二段構えでやろうと思うので、そんな感じで読んでくれると嬉しい。 概要 『』『』のをスーパーバイザーに迎え、監督を『』の、脚本を『』のが務める。 アニメーション制作は『』3部作や『』を手がけた。 専門用語 GRMP(グランプ) 四大医療革命である万能医療の通称。 遺伝子操作(genetic engineering) regeneration 医療用(medical nano-machine 万能特効薬(panacea のそれぞれの頭文字からGRMP(グランプ)と呼ばれている。 全国民に投与されており、宿主の健康状態を維持する。 合格者 全国民の健康基準となる300人を越す人たち。 彼らの健康状態をネットワークで全国民とリアルタイムで同期する事で全国民の健康を保っている。 彼らのお陰で人々は病苦から解放され平均限界寿命120歳を突破した。 また彼らはL. L(シェル)体制の維持により、更に長寿化し140歳を過ぎてもなお生命維持装置に身体を繋ぎ寿命を伸ばしている。 L(シェル) 国民の健康を管理し無病長寿を保障する国家機関。 人々の体内にある「GEMP」をネットワークに繋ぎ、健康の維持を保ってる。 文明曲線 統計計算により予測される未来グラフ。 L(シェル)が収集する全国民のバイタルデータから導き出され、医療革命によりヒューマンロストが多発し文明が滅びる「崩壊曲線」と人類が進化して医療革命に完全適合する「再生曲線」の両方が存在し、これからどちらかになるか定まらずにいる。 ヒューマンロスト 全国民が繋がっているネットワークから外れてしまう現象。 基準を失った「GRMP」が暴走し、異形の怪物「ロスト体」になってしまう。 無病長寿大国日本における寿命以外の唯一の死である。 とアウトサイド 東京首都圏の中のあるエリア区分。 中心である「」では政府中枢と富裕層が集まり、「アウトサイド」では貧しい地域が広がる。 アプ ヒューマンロストを起こしても体内の「GRMP」が暴走せず人の姿を取り戻した人間。 本来の生命機能が進化した存在。 主人公含めて3人いる。 可能性の塊。 といった感じである。 ここまでの用語を説明も最低限にドンドン話が進むので注意が必要だ。 ではここから ネタバレありのあらましを書いていくのでまだ映画を観ていない人は注意してくれ ストーリー流れ 本作は原作の『』同様第1、第2、第3の手記で物語は進んでいいく。 第1の手記あらすじ 医療の革命的な進歩により人が死を克服した昭和111年の東京。 環境を無視した経済活動と19時間労働政策の末、世界1位、年金支給額1億円を突破した無病長寿大国日本、東京。 「アウトサイド」で薬物に溺れる主人公大庭葉藏は唯一の友達に同行する形で「」に突貫し、激しい戦いに巻き込まれる。 友達が「ロスト体」になってしまい葉藏自身も「ロスト体」になってしまうが、アプの1人である柊美子に助けられ、自分もまたアプである事を知る。 葉藏は自分を一時的にロスト化できる能力者だった。 第2の手記あらすじ 最近頻発しているヒューマンロスト化を生み出していたのがアプの1人であり、L. L(シェル)システムの生みの親でもある堀木正雄(cv)である事を知る。 正雄は言う。 「進み過ぎた社会システムに全ての人間は失格した」と。 このままではいずれ合格者達も寿命が来て、L. L(シェル)システムは崩壊する。 そうなれば全国民が死んでしまうから、先に全ての国民をロスト化させ、「GRMP」というが投与されていない新人類で再スタートさせる事が正雄の野望だと葉藏は知る。 正雄は葉藏に好意を寄せている人をロスト化させ、葉藏の育ての親を殺害。 落ち込んでいる葉藏に柊美子は正雄が語った未来は可能性の一つに過ぎず、人類は滅びず再生される未来はあると説得する。 しかし、そこに正雄は急襲。 葉藏は心臓を奪われる。 第3の手記あらすじ 葉藏の心臓は再生されたが、意識は戻らないままだった。 新しい合格者を祝う合格式当日、合格者達はアプである葉藏の臓器を合格者達に移植する事で更なる長寿化を模索するが、柊美子は反発。 自分の臓器を提供する事を提案する。 それを感じた葉藏は意識を取り戻し、柊美子を救いに行くが、既に遅し。 柊美子は臓器を全て取られ、帰らぬ人になっていた。 同時に合格式に正雄が強襲。 葉藏の心臓でパワーアップされたロスト化の集合体である怪獣が生まれる。 そのまま合格者達を襲うが、合格者も柊美子の臓器を得てパワーアップし抵抗、また柊美子の意思を次ぐ葉藏を駆けつける。 しかし、柊美子が望んだ社会に合格者達が居なかったので合格者達は次々に自滅していく。 そして正雄に操られた柊美子の細胞を引き継いだロスト体が葉藏を襲う。 柊美子の精神と言う名の心臓を引き継いだ葉藏は、彼女が本当に目指した青空広がる世界を実現するべくロスト体を倒していく事を決意。 怪獣を倒し、正雄を殺す。 最後、合格者が死滅し、L. L(シェル)が不安定になり、文明曲線が分からなくなってしまった社会で、柊美子の細胞を引き継いだロスト体含めてロスト体が急増してしまう。 葉藏は「恥の多い生涯を送ってきました。 」と言いながら変身し、今日もまた世界を救う。 老人社会の日本 本作は昭和111年の東京という設定ながらの問題点をより分かりやすく、より大胆に描いている。 昨今、長寿化する老人介護の為、多くの若者が苦しむニュースを見かける事が増え、増え続ける老人に対して若者の数が問題視され、様々な対抗策が実施されてるが、実際問題本作みたいに老人大虐殺でも起きないと、解決策は難しい。 そうなると世代間憎悪が拡大するのは世の常であり、現代でもネットを見ると若者の老人への憎しみを見かける事は多い。 もはや日本ではどうしようもない問題なのだ。 普通、こういうテーマを描くにあたってある程度、老人達への配慮とかあるものだが本作は全くない。 人生を楽しみ為に長生きするのではなく、長生きする為に人生を生きる。 そんな手段と目標が入れ替わってしまった社会で、老人達のエゴのため死んでいく若者。 見ていて老人の為に苦しみ主人公達に悲しむばかりだ。 老人のために人生があるのではない。 自分自身の人生を歩んで欲しい。 そんなの声なき声が聞こえて来そうな話になっている。 原作との関わり 本作は設定や世界観などは原作とかけ離れているが、主人公が心許した優しい女性が肉体的か精神的に相違点はあれど死ぬ流れなど、基本的には同じである。 そして原作では葉藏は心の底では「本当は信じ、愛したい」と思っている自分の気持ちに気付かずに、生涯を終えてしまう。 しかし、本作では柊美子が死んだ後も精神世界で彼女と心を通じ、愛を知り、彼女の為に肉体を殺してロスト化する。 SFだから出来る『』と言える。 最後に一言 19時間労働により帰宅ラッシュが午前4時になっているという世界観が怖すぎて震える。
次の永遠の青年文学 この人間失格の原作は、永遠の青年文学と言われる太宰治の代表作であり、また彼の人生そのものであると言われています。 未だに多くの人たち、特に青年たちの迷える心をわしづかみにして、絶大な共感を得ています。 「大人とは、裏切られた青年の姿である」という彼の名言がありますが、「裏切られた」という感傷的な表現を前面に出し、裏切るか裏切らないか、つまり人を信じることについて敏感になっているのは、そもそも人間不信が根っこにあり、人に対しての信頼感が揺いでいることが伺えます。 「信じるかどうか」が、この作品、そして太宰作品を通しての一つの重要なテーマとなりそうです。 原作と彼の人生を絡めながら、私たちの青年期に感銘を与えるゆえんをみなさんと詳しく探っていきましょう。 いきなりの謎です。 なぜ、子どもがそんなことを言うことができるのでしょうか?その謎の答えは、原作で告白されています。 実は、葉蔵にはトラウマ 心的外傷 があったのです。 1つは、家の女中や下男から性的虐待を受けていた可能性があることです。 原作では「哀しい事を教えられ、犯されていました」という表現だけのため、どの程度なのか、または象徴的な言い回しなのかなどの解釈が分かれるところです。 もう1つは、家に出入りする人たちがお互いの悪口を陰で言い合っているのを幼少期から聞かされました。 一貫して信じていた人を信じられなくさせる矛盾した二重の縛り、ダブルバインドです。 さらに、太宰本人は実際に幼少期に、女中であった育ての母親と突然別離させられています。 喪失体験です。 だからか、作品中では葉蔵の母親は登場しません。 しかし、彼は賢かったがために、それらを全て受け入れたのでした。 そして、子ども心ながら生き残りたい、これ以上誰にも見捨てられたくないという思い込みから、その究極の答えとして、自分を抑圧して本心を言えずに言われたままに従う良い子、そしてみんなの気を惹く道化役を死に物狂いで演じ始めました。 これが、彼の人間不信、自己否定の原点であったようです。 だからこそ、生存の謝罪が口から突いて出てきたのでした。 それは、嫌われないようにそして演技がばれないようにするため、常に彼は相手の顔色を伺い、表情、動作、言動に敏感になっていき、観察力、洞察力、感受性が研ぎ澄まされていったのです。 これは代償性過剰発達と言われます。 ちょうど視覚障害者の聴覚が敏感になるように、生きづらさを代わりの能力で償いカバーしようとして、その能力が過剰に発達することです。 自分の生き死にがかかっていることのない普通の家庭で育った子どもは、このような能力は備わらず、無邪気なままです。 数々の太宰作品はなぜ感性が鋭く描かれているのかにも納得がいきます。 学校での彼は、笑い者として実に見事に演じ、常にお茶目で人気者でした。 しかし、ある時、学校の体育の時間にいつものように面白おかしく失敗してクラスメートたちみんなの笑いを誘うことに大成功をおさめますが、その演技はよりによってあるサエないクラスメートの竹一にだけこっそり見破られるのです。 その瞬間、葉蔵は心の底から震撼します。 道化役に全てを捧げていた彼にとっては自分が自分でなくなるような感覚でしょうか。 次に彼のとった行動は、竹一を自分の友人として味方につけて取り込んだのでした。 そもそも竹一ももしかしたら「サエない生徒」を演じていたのかもしれません。 葉蔵と同じように観察力が鋭いのであれば、演技で人を欺くことができます。 二人はそんな同じ匂いに惹き合ったようにも思えます。 この原因は、外傷体験による不安や葛藤を押し殺す抑圧の心理メカニズムにより、空腹感などの身体的欲求などの感覚までもが押し殺され鈍くなるという失体感症が考えられます。 私たちにも、周りへ気を使い過ぎる過剰適応が起きている際に、身体感覚が鈍くなる症状として現れます。 もともと父親は地元の名士で議員でもあり、多忙でほとんど家を空けており、お世話をする召使いや兄姉たちとのかかわりがほとんどで、親からの愛情によるかかわりが乏しかったことが伺えます。 そもそも、親、特に母親という特別な存在から無二の愛情を受けることで、子どもは自分が特別な存在であると実感します。 自分にとって親が特別であり、同時に親にとっても自分が特別であること、この特別な結びつきの感覚こそ信頼感を育み、愛着という強く固い絆を生み出します。 その絆の安心感を基に、やがて成長した青年は、様々な人たちと巡り会い、自分が選び同時に選ばれるというプロセスを経て、親友や恋人などとの新たな絆を作ろうとします。 そして、選び取ること、選び取られることの大切さを知り、その特別な絆を深めようとします。 見捨てられ不安 葉蔵は、もともとこの愛着という絆がうまく育まれなかったため、愛着障害がありました。 愛着障害により、そもそも相手を信頼する時に安心感がないのです。 その代わりに、「いつか捨てられるんじゃないか」「裏切られるんじゃないか」という強い恐れが常に彼を支配していました。 見捨てられ不安です。 その後も、多くの女性が彼を求め、その女性たち全てが彼の居場所となりましたが、同時に彼自身にはどこにも居場所がありませんでした。 その理由は、愛着障害により自分が選び抜いた誰か特別な人に愛着を持つという発想そのものがなく、戦場のような居場所で過ごした幼少期の過去により安心できる「居場所」という感覚そのものがなかったのでした。 「おまえは何の花が好きだ」「戦争の色は何色だ」と吹っかけてきます。 その強がりは、彼の作風に反映されている不安や寂しさの裏返しであることが垣間見えます。 見捨てられ不安は、世界が広がる青年期の多感な時期を迎えると、虚無感にエスカレートしていきます。 自分の弱さや存在の危うさに敏感で繊細な点で、葉蔵と中原中也は似た者同士で、やがて惹き合っていきます。 葉蔵にとっては憧れであり、唯一の友情らしき感覚を味あわせてくれる存在でした。 葉蔵が大切にしていた画集を質入れした直後に、中原中也が買い取り、葉蔵に渡すシーンは印象的です。 しかし、葉蔵と中原中也はお互いに通じるものがあったのにもかかわらず、中原中也は自殺してしまいます。 この出来事は、葉蔵の虚無感をさらに助長させてしまうものであったようです。 見捨てられ不安や虚無感を満たすため、自分から人に働きかけて自分の思い通りにしようとして、人の気を惹くのがうまくなります。 これが、操作性です。 葉蔵が従姉に優しくする場面が印象的ですが、何をしたら相手が喜ぶか完全に心得ています。 その後も、持ち前の美貌に加えて、この操作性で次々と女性と関係を持つようになります。 細かいところにも目が行き届くため、キャバレーであえて目立たない女給の常子にさり気なくお礼を言い、惚れられます。 原作でも「女は引き寄せて、突っ放す」と語られています。 彼は、感受性があまりに強くて繊細なため、子どもの言うことだから仕方がないとは思えないです。 その時に「裏切られた」「自分の敵だ」と感じたのでした。 その後、静子が娘に「お父ちゃんは好きでお酒を飲んでいるのではないの」「あんまり良い人だから」と葉蔵を幸せそうにかばう会話を盗み聞きして、決意します。 そして、そのまま立ち去り、二度と戻って来ることはありませんでした。 その真意は、自分のような馬鹿者は平和な家庭を壊してしまうという自己卑下、この幸せに自分は入れないという疎外感や嫉妬心、そして自分が消え去ることでこの幸せに水を差して懲らしめたいという懲罰欲などの複雑な思いが絡んでいそうです。 このように、「敵か味方か」「完璧な家庭でなければ別れる」と極端に白黒付けようとする感覚に囚われることをスプリッティング 分裂 と言います。 良い感情と悪い感情がバランスよく保てず、その中間のグレーゾーンであるちょうど良い「ほどほど」の関係性やささやかな「ほどほど」の幸せを実感するのでは物足りないのです。 彼が求めるのは、究極的な信頼であり、究極的な幸福でした。 全く情緒が安定していません。 だからこそ、その後に出会うタバコ屋の良子とあっさり結婚してしまうのもうなずけます。 良子は、葉蔵が酔っ払い断酒を破ったと打ち明けているのに、「だめよ、酔ったふりなんかして」「お芝居がうまいのね」と一向に信じず、葉蔵に「信頼の天才」と言わしめたのでした。 しかし、のちに妻の良子が不幸にも顔見知りにレイプされている現場に遭遇しても、彼は何とも声をかけられず、その場を立ち去ってしまいます。 その後も良子とは情緒的な交流なく表面的に接することしかできません。 彼は、信頼や幸福を失うという凄まじい恐怖におののいているばかりで、けっきょくその現実に向き合えず、良子と辛さを分かち合えず、逃げ出してしまいます。 持ち前の意気地のなさとスプリッティングにより、たとえ不幸があっても何とか現状を維持して乗り越えていこうとするバランス感覚が欠けているのです。 現実が行き詰れば、虚無感はやがて自殺衝動を駆り立てます。 そして、初めて自分が恋した常子と共に入水自殺を図ります。 しかし、常子だけ死なせてしまい、自分は生き延びるのです。 実際に、太宰も何度も自殺企図を認めています。 そして、毎回違う女性が一緒でした。 彼の自殺衝動は、本気で死を決しているというよりは、どこか無意識に生と死のギリギリの境をさ迷うスリルをあえて味わいたい、そのスリルを通して生きている実感を噛みしめたいという無意識の心理が働いているようです。 なぜなら、実際に本気で自殺する人は、独りで静かに首を吊って一発でやり遂げているという事実があるからです。 他人を巻き込み、手の込んだことをするのは、逆に、生への執着を確かめたいからとも言えます。 成人後、このように見捨てられ不安、虚無感、操作性、スプリッティング、自傷行為などの認知行動パターンが見られ、対人関係の問題に発展していると、情緒不安定性パーソナリティ障害と診断されます。 そんな家柄、経済力、容姿に恵まれてしまったら、自己イメージが高くなり過ぎてしまい、その後の現実が自分の思い通りにならなくなった時に、そのギャップに傷付きやすさは強まります。 自己愛性パーソナリティ障害です。 実際に、太宰も名誉欲しさに芥川賞の推薦を選考委員の大御所に懇願したという逸話はあまりにも有名です。 葉蔵は、定職に就かず、ヒモのような生活を続け、「きっと偉い絵描きになってみせる」「今が大事なとこなんだ」といつまでも叶わぬ夢を追い、不健康なこだわりを持ち続けています。 これも、自己愛性パ-ソナリティ障害から派生したもので、もともとの高過ぎる自己イメージにより健康的なあきらめができないのです。 幸せの青い鳥を追い続ける「青い鳥症候群」とも呼ばれ、現代でもある程度の年齢を重ねても「いつかビッグになる」と言う男性や「いつか白馬の王子様が迎えに来る」と言う女性が当てはまります。 この満たされない心は、やがてお酒や薬物で満たされるようになります。 バーで居候していた時は、いつも酔っ払い、痩せていきます。 何かにすがり、のめり込み、歯止めが利かないのです。 健康的な人の「もうこれぐらいで止めておこう」という節度、限度の加減がないのです。 例えば、「もっと命がけで遊びたい」「生涯に一度のお願い」「そこを何とか頼む」などの葉蔵のセリフが分かりやすいです。 このようにある一定の枠組みから外れやすい性格傾向は、嗜癖性格と呼ばれ、依存性パーソナリティ障害との深い関係があります。 人間関係に溺れるだけでなく、アルコールに溺れ、やがて、睡眠薬、麻薬にも溺れていき、依存の対象が広がっていきます。 そして特に、アルコール、薬物などの依存物質を乱用してしまうと、やがて止めることだけで手足が震えたり自律神経が乱れたりする離脱症状 いわゆる禁断症状 と呼ばれる体が欲して言うことを聞かなくなる症状が現れ、アルコール依存症や薬物依存症に陥っていきます。 最終的に、アルコールと薬物で体がボロボロになってしまった葉蔵は、後見人の平目の助けにより、入院隔離されます。 ようやく、断酒、断薬が強制的ながら徹底されるのです。 依存症の患者は、もともと「枠組み」が外れやすいということがあるので、生活や考え方の「枠付け」を徹底する治療を行います。 例えば、規則正しい生活リズムや「ダメなものはダメ」というルールを守ることです。 これは、実際の太宰のポートレートを見てもそう感じさせます。 さらに、雰囲気だけでなく、「金の切れ目が縁の切れ目ってのはね、解釈が逆なんだ」とさりげなく知性を披露するインテリぶりや、言葉少なげで独特の間があることは、守ってあげたいという女性の母性本能をさらにくすぐるようです。 実際に、彼が巡り会う女性は、人一倍世話焼きで母性本能が強いです。 「いいわよ、お金なんか」という下宿先の世話焼きの礼子、「うちが稼いであげてもダメなん?」という女給の常子、居候させマンガの仕事の依頼をとってきてあげる静子、信頼の天才である良子、キスされて麻薬を渡してしまう寿、そして母性本能に溢れる鉄などキャラが強烈過ぎます。 彼女たちに共通するのは、単に華があるわけではなく、どこか訳ありで陰があり引け目があり、彼女たちは自分に対する自己評価が低く劣等感がありそうです。 このような劣等感のある女性が「この人の苦しみを分かってあげられるのは私だけ」と優越感に浸ることができるゆえに、葉蔵はもてはやされるのです。 世話焼きとしてお世話をすることで、自己評価を保とうとします。 「私はこんなにこの人の役に立っている」と。 葉蔵の方もそんな劣等感や母性本能の強い匂いのする女性をあえて嗅ぎ分けています。 このように、必要とされることを必要とする、言い換えれば、依存されることに依存する状態は、共依存と呼ばれます。 ややこしいですが、これも一つの依存の形です。 そして、実際に、依存症の人が依存症であり続けることができる大きな原因として、その人のパートナーや家族が共依存であり、依存症の治療に弊害になっていることがよくあります。 父親にゆかりのある人ということで、どうやら昔の父親の愛人のようです。 もともと子どもに恵まれなかった鉄は、葉蔵に強い母性的な無二の愛情を注ぎます。 「こんな僕でも許してくれるのか」と言う葉蔵に対して、鉄は優しくそして力強く言い放ちます。 「いいんだ」「神様には私が謝るので」「何があっても私が護る」と。 その後に、駐在とのやり取りで、鉄が葉蔵をかばう様子は母そのものです。 母性本能の強い鉄と過ごす日々は、葉蔵に安らぎを与えてくれました。 どんどんと子ども返り、赤ちゃん返りしていきます。 退行です。 童心に返ったように無邪気に海岸ではしゃぎ、子守唄で心地良くなります。 胎内回帰の寝像のポーズは、子宮の中にいる心地良さを表しているようです。 退行を通して、かつて手に入らなかった愛着を育み、幼少期を生き直そうとしているようです。 回復 原作では、鉄との愛着を育む他愛のない日々が綴られ、締めくくられます。 そして、葉蔵は最後に語ります。 「今の自分には幸福も不幸もありません」「ただ、一切は過ぎていきます」と。 最後は、「現実は何も解決してくれない」という受身的な虚無感に堕ちていく退廃的な美学を描こうとしているようです。 諸行無常の響きさえ聞こえてきそうなエンディングです。 実際に、太宰はこの作品の完成後に自殺をついに遂げています。 一方、映画ではもう一つのエンディングが用意されていました。 原作とは一味違った展開です。 葉蔵は、鉄の愛情に育まれてついに巣立つのです。 愛情に満たされた平穏でのどかな故郷から東京に出発する電車の中では、戦争に入っていくという緊張感ある会話が軍人たちの間で交わされ、超現実世界に引き戻されています。 その後、突然、乗客が過去に出会った全ての人に変わり、楽しく騒いでいます。 まるで走馬灯のように過去を振り返る幻想的なシーンです。 その中には、子ども時代の自分と向き合うシーンがあります。 それは、過去から現在に至る自分を見つめ直す客観的な視点が身に付いたことを象徴しているようです。 そして、葉蔵はつぶやきます。 「今の自分には幸福も不幸もありません」「ただ、一切は過ぎていきます」と。 そこには、かすかな希望が見えます。 スプリッティングという両極端なものごとの捉え方による「阿鼻叫喚」な生き様を乗り越えて、情緒を安定させて客観的に「現実を見つめ直して受け入れていく」という能動的で淡々とした人生へと回復していく可能性を仄めかしているようにも思えます。 シネマセラピー 私たちは10代から20代の間の多感な青年期に、勉強、部活、仕事、恋愛を通して、人間関係の幅や深みが一気に広がり、世界が開けていきます。 そして、気付かないうちに人の心を傷付けたり、逆に傷付けられたりする経験を経て、人をどこまで信じていいのか不安や迷いが生まれます。 そんな時期に、その感受性を過激にそして必死に体現してくれるこの人間失格の葉蔵は、さ迷える私たちに衝撃を与え、重なり合い、そして自分の状況を振り返らせ、人を信じることとはどうあるべきかを気付かせてくれます。 この作品を足がかりとして、その青年期の信じることの危うさを乗り越えた私たちは、ほどよい信頼感や自信を実感できる「大人」に成長しているのではないではないでしょうか?.
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