なぜなら、主題テーマの一方をすんなり知りきれトンボにしてしまったり、時代劇としてのエンタテイメント性が低調で娯楽映画としてはなんとも物足りないこの作品が品質の点において、高く評価されるべき点があまりにも見当たらないからである。 古代の日本。 村を襲った猪のタタリ神。 その原因を探るべく旅に出た青年・アシタカ・ 松田洋治(声)と山犬に育てられた「もののけ姫」と呼ばれる少女・サン・ 石田ゆり子(声)、それに製鉄工場を守ろうとする女性・エボシ・ 田中裕子(声)の三つの人生が、シシ神の池で出会い、戦い、和解します。 この映画のテーマは「文明の罪」です。 巨大なダンゴ虫や、呪いの石や、ぽんぽこ狸でまったりと、繰り返し登場する「地球代表」が今回は「もののけ」なのですね、これはカヴァーする範囲が広いですから、なるほど「総集編」と納得できます。 一見すると「人間のエゴが生んだ環境破壊による人類の終末」に「人知を超えた力で立ち向かう」という大なり小なりこの監督が劇場公開用映画「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」で描いてきたテーマが時代劇に持ち越されただけのように見えるんですけど、この映画のテーマはもう一つあります。 それは「差別」です。 エボシの命令で鉄砲作っているのは、目だけ出した特異な覆面を被っている人たち、彼らは平安時代に八坂神社に使えていた最下層の隷属民、死体の埋葬などに従事していた犬神人(いぬじにん)という被差別階級の人たちがモデルと思われます。 たたら場で働いているのは女性ばかりです。 つまりこの映画は、犬神人、業病患者(ハンセン氏病)、女性という社会から差別されたり低い身分にされていた人たちの姿をかなり忠実に、モロに描いているわけです。 ハンセン氏病と思われる人たちと犬神人がごっちゃになってるんですけどね、ビジュアル的に。 これはちょっとアニメではかなり冒険的な試みなんじゃないですかね?もちろんそのスジの啓蒙映画は除いて、いわゆる商業映画としてロードショー公開される作品において、ですが。 問題の解決手段として、にしても十分には解決しないんですけど、「人知を超えた神秘なるモノの力」に頼らなければならないというオチはいつものことです。 それゆえ、この映画を観た後で、なんとも言えない徒労感に襲われるのですね。 「人間はエゴを捨てて自然の法則を尊重し少し我慢することを覚えましょう」だけならよかったんですが、そこへひょっこりと「差別問題」が顔を出してそっちがほったらかしのまま終わるんで、全然スッキリしないんですね。 もちろんデリケートな問題ですから、なにせ相手が動物やフェアリーじゃないですから、ツッコめないんでしょうけど、それにしても歴史観を忠実に再現しようとする手段ならそういう「アブナイ」ものは登場させないほうが良かったんじゃないかと思います。 アブナイってのは現実の「人」じゃないですよ、そういうテーマを想起させる符号としてのキャラクター、です。 黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」「七人の侍」から頂いた場面はかなりありますが、やはりアニメーションで血がリアルに吹き出るのはイヤなものです。 子供向けだろうが大人向けだろうが。 少なくとも私がアニメーション映画に求めていたモノ「わかりやすさ」「美しいもの」はこの作品には皆無でした。 が、一つだけ。 映画の冒頭、たたり神になってしまったイノシシの声は 佐藤允だったのでそれはクレジット観るまで分かりませんでしたが、ちょっとビックリ&狂喜。
次の『もののけ姫』のカヤの小刀のネックレスの意味は? 「カヤの小刀のネックレスにはどんな意味があるの?」 という疑問にまずはお答えしましょう。 物語の設定上の意味と、民俗学的な意味の2つがあると考えられます。 『もののけ姫』の小刀の意味「カヤのアシタカを一生愛するという誓い」 物語における小刀の意味、それは 「乙女が変わらぬ心の証に贈るもの」 です。 つまり生涯に渡りアシタカ以外に誰も愛さない、というカヤの強い決意の表れです。 ここでアシタカとカヤの関係を振り返ってみましょう。 当時のパンフレットによると、アシタカとカヤは許婚だそうです。 「2人は兄妹じゃなかったの!?」 と驚かれる方もいるかもしれませんね。 確かにカヤはアシタカのことを「兄様(あにさま)」と呼びます。 しかし「兄」には2通りの意味があります。 けい〖兄〗 ケイ・キョウ(キヤウ)・あに 1. 《名・造》親が同じで、さきに生まれた男子。 「兄 けい たり難く弟 てい たり難し」(優劣がつけにくい) 対義語:弟 2. 友だちや少し目上の者などを尊敬や親しみの気持をこめて呼ぶ語。 「大兄・学兄・貴兄・雅兄・加藤兄」 カヤの言う「兄」は2の意味ですね。 そしてアシタカは、小刀の意味とカヤの気持ちを十分に理解していました。 「大切な玉の小刀ではないか」 「私もだ。 いつもカヤを思おう」 という台詞が、それを表しています。 そしてこの小刀には、また民俗学的な意味も含まれていたと考えられます。 『もののけ姫』の小刀の意味「強烈な魔除けのアイテム」 この小刀には「魔除け」のモチーフが幾重にもかけられています。 1つ目は、小刀という形状です。 嫁入り道具に「懐刀(ふところがたな)」というものがあります。 現在でも和装ウェディングでは、ファッション小物として欠かせないアイテムです。 もとは戦国時代に、武家の女性が嫁ぐ際の覚悟の表れだったそうです。 つまり「敵将に襲われたら、この刀で自害する」「チャンスがあれば、この刀で敵を倒す」ということです。 そして明治時代以降、嫁入り道具として一般的になりました。 このとき「護身用の刀」が転じて「魔除けのお守り」となったそうです。 2つ目は、黒曜石という素材です。 黒曜石はパワーストーン界では「オブシディアン」と呼ばれています。 その切れ味から、太古の昔から農耕生活に欠かせない道具でした。 またまじないに使われる呪術道具にも使用されていました。 このことから黒曜石の魔除け効果は、かなりメジャーなものとされています。 3つ目は、送り主である「カヤ」です。 カヤは漢字で書くと「茅」または「萱」。 ススキやワラのような、先端がとがった細い草のことを言います。 この草には魔除けの効果があります。 「呪いの藁人形」をイメージすればわかりやすいかもしれないですね。 人形だけでなく、輪飾りなどにして魔除けとする風習が全国各地に残っています。 ちなみに沖縄にもススキを使った魔除けのお守りがあります。 その名称を「サン」と言います。 ここで1つ疑問が浮かびますね。 「魔除けの意味をアシタカは知っていたのだろうか……?」 おそらく知っていたことでしょう。 アシタカの住むエミシの村は、ヒイ様のまじないを中心として成り立っていました。 次期族長であるアシタカには、まじないの教養もあったと考えられます。 それではいよいよ 「なんでアシタカはそんなに大事なものをサンにあげてしまったの?」 という疑問を考察してきますね! スポンサードリンク 『もののけ姫』でアシタカがカヤのネックレスと小刀をサンにあげた理由は? 『もののけ姫』でアシタカが、カヤの小刀のネックレスをサンにあげてしまった理由。 それは…… 自分が身に着けている最も大事なものを、サンに与えたかったからです。 アシタカが小刀をサンの兄弟である犬神に託し、サンに渡したシーンを振り返ってみましょう。 猪神の乙事主(おっことぬし)が猪たちを引き連れ、タタラ場を襲撃しようとしていました。 まさに神vs人間の全面戦争が始まろうとしていたのです。 サンに「生きていてほしい」と願ったアシタカが、魔除けのお守りとして小刀を渡したとしても不思議はありません。 「それではカヤの気持ちはどうなるの?」 と思ってしまった方も、もちろんいることでしょう。 アシタカはタタリ神から死に至る呪いを受け、銃で傷ついても平然としています。 生への執着がないのです。 自分の命すら粗末に扱うのですから、物への執着はさらに希薄です。 そんなアシタカが、唯一大切だと思っていたのが小刀のネックレスです。 なぜアシタカが小刀を特別に感じていたのか。 それはカヤが心を込めて贈ってくれたものだからに他なりません。 極限状態の中 「愛する人に自分が最も大事なものを身に着けていてほしい」 アシタカはその一心だったのでしょう。 『もののけ姫』をもう一度見返したくなった方もいるのではないでしょうか? そんな方のために、あらすじを紹介しますね。 スポンサードリンク 『もののけ姫』のあらすじは? こちらが『もののけ姫』のあらすじです。 太古の昔、森に神々が住んでいた頃の物語です。 アシタカの村が、触手に覆われた怪物に襲われます。 怪物の正体はタタリ神。 人間に傷付けられ、憎しみを抱いたまま死んだ神の姿でした。 タタリ神を倒したアシタカは、同時に死に至る呪いを受けます。 どうして神殺しなどという行為が行われたのか。 アシタカは呪いを解く手がかりを追い、旅に出ます。 「シシ神の森」に着いたアシタカは、人間達による犬神狩りに遭遇します。 そして犬神と行動を共にする少女を目撃しました。 犬神狩りで怪我を負った人を介抱したアシタカは、山奥にある村へと案内されます。 その村は、エボシの治めるタタラ場でした。 タタラ場は、純度の高い鉄を作ることで産業を発展させ、また近隣の村に対して有利に立っていました。 しかし同時に自然破壊が行われ、神々の怒りを買っていたのです。 神々と戦うために作られた武器を、アシタカは複雑な思いで見つめます。 その夜、タタラ場にエボシの命を狙う侵入者が現れました。 それは日中、犬神と共にいた少女、サンでした。 サンとエボシの戦いを、アシタカは呪いの力を示して仲裁します。 そしてサンをタタラ場から連れ出しますが、呪いの力を恐れた村人により深傷を負わされます。 森でサンが目覚めたとき、アシタカは虫の息でした。 しかし森を治めるシシ神が、アシタカの傷を癒します。 サンはアシタカを自身の穴ぐらに匿います。 2人は互いに惹かれ合っていきました。 そんな中、森を守るために猪神が奮起します。 大軍となって人間たちを襲撃しようとしますが、エボシ率いる部隊が迎え撃ちます。 サンは猪神の戦列に加わります。 一方でアシタカは戦いを止めるべく、エボシとの交渉へと向かいます。 果たして2人は、この神々と人間の戦争を生き延びることができるのでしょうか。 次は『もののけ姫』の感想と考察です。 スポンサードリンク 『もののけ姫』の感想考察は? こちらが『もののけ姫』の感想考察です。 ジブリ原画展で、『もののけ姫』の背景美術を見たことがあります。 屋久島の原生林がモデルだという深い森は、何枚もレイヤーを重ねて奥行きを出しています。 背景美術担当の方のコメントによれば、「とても気の遠くなる作業だった」そうです。 そしてその素晴らしい背景に引けを取らない、壮大な物語でした。 神殺しと自然破壊を行う、愚かな人間。 しかしそうせざるを得ない人間側の事情。 神々と人間の戦争。 それを高みからあざ笑う超越的な存在。 神と自然と人間。 たったの2時間半のアニメーションで、このテーマを描き切れる作品がこれから先に現れるのでしょうか。 『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ』のアンサー作品とも言われます。 『もののけ姫』公開は1997年。 『風の谷のナウシカ』公開は1984年。 10年以上の時間の積み重ねにより完成した作品です。 設定を掘れば掘るほど、深い泥沼のようにどんどん沈み込んでいく感覚があります。 色々なモチーフが混ざり合って、底が全く見えないのです。 『もののけ姫』ほど、観賞後に疲労感に襲われるアニメ映画はないでしょう。 とにかく偉大な作品です。 『もののけ姫』アシタカのネックレスとあらすじまとめ 『もののけ姫』でもよく議論に上がる「アシタカが小刀をあげてしまった謎」に迫ってみました。 観客から見れば、確かに「元カノのプレゼントを今カノにあげる」状態で、納得できない方がいることも理解できます。 しかしアシタカにしてみれば「自分が大切にしているものを身につけてほしい」という、ただただ単純な動機なのです……。 ちなみにカヤとサン兼役の石田ゆり子さんが、このシーンに怒ったというエピソードがあります。 そのときの宮崎駿監督の返事がこちら。 「男なんてそんなもん」 監督も、反発されることは見越していたのでしょうね。 アシタカをイケメンと見るかスケコマシと見るか、あなた次第です。 画像出典アンク@金曜ロードSHOW!公式.
次のなぜなら、主題テーマの一方をすんなり知りきれトンボにしてしまったり、時代劇としてのエンタテイメント性が低調で娯楽映画としてはなんとも物足りないこの作品が品質の点において、高く評価されるべき点があまりにも見当たらないからである。 古代の日本。 村を襲った猪のタタリ神。 その原因を探るべく旅に出た青年・アシタカ・ 松田洋治(声)と山犬に育てられた「もののけ姫」と呼ばれる少女・サン・ 石田ゆり子(声)、それに製鉄工場を守ろうとする女性・エボシ・ 田中裕子(声)の三つの人生が、シシ神の池で出会い、戦い、和解します。 この映画のテーマは「文明の罪」です。 巨大なダンゴ虫や、呪いの石や、ぽんぽこ狸でまったりと、繰り返し登場する「地球代表」が今回は「もののけ」なのですね、これはカヴァーする範囲が広いですから、なるほど「総集編」と納得できます。 一見すると「人間のエゴが生んだ環境破壊による人類の終末」に「人知を超えた力で立ち向かう」という大なり小なりこの監督が劇場公開用映画「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」で描いてきたテーマが時代劇に持ち越されただけのように見えるんですけど、この映画のテーマはもう一つあります。 それは「差別」です。 エボシの命令で鉄砲作っているのは、目だけ出した特異な覆面を被っている人たち、彼らは平安時代に八坂神社に使えていた最下層の隷属民、死体の埋葬などに従事していた犬神人(いぬじにん)という被差別階級の人たちがモデルと思われます。 たたら場で働いているのは女性ばかりです。 つまりこの映画は、犬神人、業病患者(ハンセン氏病)、女性という社会から差別されたり低い身分にされていた人たちの姿をかなり忠実に、モロに描いているわけです。 ハンセン氏病と思われる人たちと犬神人がごっちゃになってるんですけどね、ビジュアル的に。 これはちょっとアニメではかなり冒険的な試みなんじゃないですかね?もちろんそのスジの啓蒙映画は除いて、いわゆる商業映画としてロードショー公開される作品において、ですが。 問題の解決手段として、にしても十分には解決しないんですけど、「人知を超えた神秘なるモノの力」に頼らなければならないというオチはいつものことです。 それゆえ、この映画を観た後で、なんとも言えない徒労感に襲われるのですね。 「人間はエゴを捨てて自然の法則を尊重し少し我慢することを覚えましょう」だけならよかったんですが、そこへひょっこりと「差別問題」が顔を出してそっちがほったらかしのまま終わるんで、全然スッキリしないんですね。 もちろんデリケートな問題ですから、なにせ相手が動物やフェアリーじゃないですから、ツッコめないんでしょうけど、それにしても歴史観を忠実に再現しようとする手段ならそういう「アブナイ」ものは登場させないほうが良かったんじゃないかと思います。 アブナイってのは現実の「人」じゃないですよ、そういうテーマを想起させる符号としてのキャラクター、です。 黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」「七人の侍」から頂いた場面はかなりありますが、やはりアニメーションで血がリアルに吹き出るのはイヤなものです。 子供向けだろうが大人向けだろうが。 少なくとも私がアニメーション映画に求めていたモノ「わかりやすさ」「美しいもの」はこの作品には皆無でした。 が、一つだけ。 映画の冒頭、たたり神になってしまったイノシシの声は 佐藤允だったのでそれはクレジット観るまで分かりませんでしたが、ちょっとビックリ&狂喜。
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