「そもさん」とは、「さあどうだ? 」「いかに? 」といった意味の中国語の俗語とされています。 このため、問題やクイズを出した時に「そもさん」というのは適しています。 次に「せっぱ」ですが、これも中国語の俗語で「答えます」という意味を持つ言葉です。 このため、「そもさん」と「せっぱ」は二つ一組で使われることがほとんどです。 このため、相槌のようなもので、タイミングよく受け答えすることも使い方としては大事になってきます。 これらの意味にもうすこし意訳を加えると、 「そもさん」(これから問題を出すが、答えてみよ) 「せっぱ」(望むところだ、答えてやる) といった掛け合いのようなものと考えて良いでしょう。 クイズ番組でも使われていた 「そもさん」や「せっぱ」はもともと、禅問答で用いられていました。 禅問答とは禅僧が悟りを開くために行う修行のことで、師匠が問い、弟子が答える形式を取っていました。 師匠:「あれは何だったか」 弟子:「野鴨のようです」 師匠:「どこへ飛んで行ったのか」 弟子:「分かりません」 師匠:「何をいっている、ここにいるではないか。 」(鼻をつまみあげる) これは師匠である馬祖と弟子の百丈の禅問答です。 これによって百丈は悟りを開いたと言われています。 百丈は「そもさん」に対する「せっぱ」に失敗しましたが、鼻をつまみあげられた痛みとともに悟りを開きます。 このように、常識ではわかりかねるといっては語弊がありますが、こうした問答を禅問答と言います。 このため、先ほどのクイズ番組でもとんちが効いている問題が多く出題されています。 なお禅問答とは公案(こうあん)と呼ばれることもあります。 「切羽詰る」(せっぱつまる)という言葉があります。 「物事が差し迫り、切り抜けることができない。 追い詰められている状態」などのような意味があります。 これは「そもさん」「せっぱ」と何か関係があるのでしょうか。 「説破に詰る」というのは意味が通っていますが、「切羽詰まる」の言葉とは何の関係もありません。 「切羽詰まる」の「切羽」とは日本刀の鍔(つば)の両面に埋められている金具ことです。 これが詰まるということは刀が抜けくなることを意味することから、「非常事態」「追い詰められている状態」といった意味が生まれました。 師匠から「そもさん」と問い詰められて「せっぱ」できないのも「切羽詰まる」状態ともいえますが、「そもさん」「せっぱ」とは関係ありません。 今回は、そもさん、せっぱという言葉と使い方などをご紹介してきましたが、いかがでしたか。 何かの呪文かと思っていた方も中にはいらっしゃるでしょうが、謎が解けたのではないでしょうか。 「そもさん」「せっぱ」はどこか痛快になる言葉です。 もともとは禅問答が由来の言葉でしたが、師匠から謎をかけられて、自分なりの言葉が浮かんだ禅僧の頭はパッと光輝いたことでしょう。 また、日本人は、このようなやり取りが好きな文化をもっています。 例えば大喜利なども、「そもさん」「せっぱ」の変形と言えなくはないでしょう。 最近ではダウンタウンの松本人志さんの番組「 ipponグランプリ」がありますが、これも芸人たちが面白おかしい「せっぱ」をしているようにも見えます。 あまり使わない言葉ですが、普段から周りの人と言葉にせずとも「そもさん」「せっぱ」の呼吸で、楽しいコミュニケーションを行ってみてはいかがでしょうか。
次の明けましておめでとうございます。 昨年は色々とありがとうございました。 新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。 一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、 『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』 という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。 最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。 しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。 めでたいな。 でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。 用心してしっかり行かないと』 と考えるようになりました。 皆様の解釈はいかがでしょうか。 (死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが) 二つ目は、婆子焼庵という公案です。 内容は以下転載です。 『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、 衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。 そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する ことにした。 すると 修行僧は「枯れた木が 寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と 言って、娘の誘いをはねのけた。 娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話 してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、 修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。 さて「婆さんの真意はいかに」というもの』 私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。 性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。 片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。 皆様はどんな解釈や回答になりますか? (作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください) あなたのはただの個人的な「解釈」というものです。 禅は解釈やボクはこう思う。 ボクならこうする、ということではありません。 仮想現実や妄想、ありもしないことを想像して非現実世界に行くことでもありません。 死ぬという事実・実相には解釈も人間の見解もない。 人間がそれを眺める上で考えや解釈、評論、良し悪しが生じている。 あなたは大嫌いでしょうが、純に参じて悟りを得られ、あなたよりよっぽど人を救ってる一休さんはそこを軽々超えられた方です。 一休禅師の真意を読み取れず、言葉に引っかかって好き嫌いに振り回されているのであれば、その暴れまわっている自分の思いの方に目を向け真剣に禅に参じてみることです。 いい学びになるでしょう。 解釈や意味付けという世界は仏法ではありません。 語れば文字に堕するもの。 アレはこういう意味だ、これはこういう意味だという程度の本はいくら読んでも人の解釈。 意味付け地獄、解釈地獄に落ちればものの観方は百人いれば百通り。 解釈の上での正解ということであればいい加減なものになる。 それは思想や思考の域をいまだ出でていないのです。 思考や解釈、見解を離れるべく実参して自分で明らかになさってください。 どっちも同じことを言っているのです。 明けましておめでとうございます。 旧年中はたくさんのご質問ありがとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 無常迅速…生まれて死ぬまでの間が人生の猶予期間というわけではありません。 この一秒一秒、刹那刹那に我々は変化し続けています。 今、この瞬間に如何に生きるか?その連続で人は形作られます。 一秒嫌えば嫌ったなりの自分です。 嫌ったなりの正月です。 生死事大…生き死にのことは重大だみたいに訳されがちですが、道元禅門下の私としては「生死のことは『大の一字』によって決着を付けよ」と読みたいものです。 『大』とは「大きな海のように分け隔てのない心」(大心)のことです。 海はあの川の水は嫌い、この川の水はイイね!と自分の判断を振り回しません。 どんな水でも迎え入れ、あらゆる水みんなで1つの海です。 つまり、こっからここまでが自分という垣根を取っ払い、みんなみんなで大きな自分だと悟れということ。 すなわち無我。 『発句経』でも無我という在り方に目覚めれば、死王もあなたを捕らえることはできないと説かれています。 一休禅師もそういうことでしょう。 自分だけ聖人ぶって他人を傷付けるということは、知恵はあっても慈悲がないということです。 慈悲がないということは、仏の智慧が智慧になっていないということ。 頭の良さ的な知恵でしかないということ。 ちょうど「ウチの水は清らかなんだから濁った水はコッチ来んな!」と言っているようなものです。 だからお婆さんは20年間の修行によって箔を付けただけの中身がない僧侶に失望したのだろうなと解釈しています。 回答僧の我々にも非常に耳の痛い公案です。 じゃあ結局どう言えば良かったの?と考えても、相手次第で正解はないわけですし。 逆にお坊さんが信徒に媚びへつらうようではダメだという教えもあります。 そしてお釈迦さまでさえ、自死しようとしている人を三度説得したがダメだったので、その人をめぐる環境の辛さやその人自身の生き方が複雑に絡み合い過ぎているのを悟り、立ち去ったという逸話があります。 だから皆さん、この回答を読んだからってハードル上げないでネ。 昨年は色々と教えていただきありがとうございました。 おかげさまで八正道ができた一年でした。 この一秒一秒、刹那刹那に我々は変化し続けています。 確かにその通りです。 私の『用心してしっかり行かないと』では言葉足らずで、大きく間違った解釈です。 大般涅槃経でもブッダが、「出ていくときも戻るときも、前後を見るときも、腕を屈伸するときも、衣や鉢を取るときも、飲食や噛んだり味わっているときも、排泄しているときも、行住坐臥してるときも、起きているときも、喋っているときも、黙っているときも気を付けていること」とあります。 それは、一瞬一瞬で変化しているからいつも気を付けていましょうという事ですね。 >生死のことは『大の一字』によって決着を付けよ ここは私にとって思考を超えているので、他人へ言葉や文字では「こうですか(こういう意味ですよね)」と尋ねるのが難しいのですが、 死(滅)が結果としてその原因が生であると考えると、諸行は常であると妄想することや、自我というものがあると妄想してしまう事(無明)が死への苦しみを生む原因である、という事でよろしいでしょうか。 (ちなみに、脱線ですが全ての生命が悟ったら、この世で肉体があっても一切煩わされることがない無為涅槃に至るのかなと思って、早く自分も含めてみんな悟らないかなと思っています) >仏の智慧が智慧になっていないということ 勝手な想像なのですが公案をする意味としては、表面的な回答を期待するのではなく、回答者が今どの段階にいるかを本人や師僧が知っておくために必要で、悟っていない人が答えた場合は取り繕った回答でもやっぱり、そもそもの根本が違う回答になり、今の自分の段階に応じて毎回答えも違うという事でしょうか。 そして自分の課題として公案を解くときには、それがすべての人のためになる答えなのか、そしてそれが自分の八正道に繋がるのか、を考えながら今後も自問自答していきます。 そして返信で得た功徳を、すべての生きとし生けるものが幸せになりますように、と回向致します。 昨年は色々とご教授いただきありがとうございました。 おかげさまで八正道ができた一年でした。 >死ぬという事実・実相には解釈も人間の見解もない。 私も含め、すべての生きとし生けるものは無明に覆われております。 その通り、主観や解釈、見解は毒です。 とても良い飲み薬を皮膚に塗ってくださいと言ってるようなものですね。 (粉の目薬を女房の尻に塗って、自分の目を直した旦那の話はありますが) 『ある私の大嫌いなパンクな僧侶』は人に法も説いていませんし、禅も体現しておりません。 悟りも開いていません。 そして誰も救っていません。 もちろんパンクでもなければ僧侶でもありません。 私の心が生み出したもので、パンクなくせに善い事を言って私の心をとらえて離さない、あぁ嫌だ嫌だ、大嫌いだ。 と勝手に妄想しているだけのマーラの一種です。 ところで、丹下様の仰る『一休禅師』とは誰の事でしょうか。 もし仮に「ある私の大嫌いなパンクな僧侶」を一休宗純禅師の事だと思わせてしまったのであれば、お詫びいたします。 すみません、、、、、、、、 、、、、、本当に申し訳ありません、上の「ところで、~すみません」まで増長慢しました。 お許しください。 冗談はさておき、話を戻します。 どうしてそういう事になっていくのか自問自答をしてみたら、自分が無明に覆われているからだという答えに行きつきました。 だから妄想をしてしまう。 歩んでいない(実践していない)ことや、過去や未来を解釈したりタラレバしたり意味付け価値づけで語るのは、ルークス〇イウォーカーになって剣とフォースの冒険するのと変わりませんね。 今こここの瞬間が唯一の道であり、選択肢は無数にあるがその道しか歩めない。 という意味ですね。 ところでアニサキスに感染したという事ですが、お身体は大丈夫ですか。 私はインドの仏跡巡りで病気になり、ベッドで『この身体は良いのか悪いのか、何故私はそう思うのか』を自問自答し、良いも悪いもない、それ以上でもそれ以下でもない、過去や未来や他人とは比較できない唯一の愛おしい身体だと気づきました。 それではお大事にしてください。 あなたは、悩みや相談ごとがあるとき、誰に話しますか? 友だち、同僚、先生、両親、インターネットの掲示板など相談する人や場所はたくさんあると思います。 そのひとつに、「お坊さん」を考えたことがなかったのであれば、ぜひ一度相談してみてください。 なぜなら、仏教は1,500年もの間、私たちの生活に溶け込んで受け継がれてきたものであり、僧侶であるお坊さんがその教えを伝えてきたからです。 心や体の悩み、恋愛や子育てについて、お金や出世とは、助け合う意味など、人生において誰もが考えることがらについて、いろんなお坊さんからの癒しや救いの言葉、たまに喝をいれるような回答を参考に、あなたの生き方をあなた自身で探してみてはいかがでしょうか。
次の漢字で作麼生(そもさん)&説破(せっぱ)と書くこの言葉は禅問答で使われる言葉で。 「そもさん」は「さあ、いかに」「どうだ」などの問いかけの意味を持つかけ声で、「せっぱ」は「言いまかす」という意味でその質問に対して説きふせるような答えを言うときのかけ声です。 作麼生の漢字は古い時代の中国から来ています。 禅問答とは、修行僧が悟りを開くためにする問いかけと、答えについてを表し、修行する人が疑問を持ち、師がその疑問に対して答えることです。 そもさん&せっぱは、現代において一休さんなどのアニメや、その使い方を応用したクイズ番組もあり、多くの人に質疑応答のかけ声だという認識は高まっています。 使い方は問題を始めるときに「そもさん!」「せっぱ!」と言う! 使い方はまず問題を始めるときに、出題者が勢いよく「そもさん」と準備は良いかという意味合いで言ったら、回答者が「せっぱ」と受けて立つという意気込みで答えます。 そもさんは中国の古い時代の俗語で、日本ではその言葉自体に意味をもたないので、意味がはっきりしない物事についての比喩としても使われます。 アニメで有名になった一休さんのエピソードは、室町時代に実在した、とんちで有名な一休宗純というお坊さんの様々なお話しをまとめた「一休咄」から世の中に広まりました。 絵本や紙しばいの題材にも多く採用され、アニメにも出てきた「このはしわたるべからず」のストーリーは有名です。 一休さんが橋に差しかかり、看板にこの橋を渡るなという意味のことが書いてあります。 その看板を見て一休さんは、「この橋」ではなく「この端渡るべからず」だと解釈して橋の真ん中を堂々と歩いて渡ったというお話です。 アニメの中でも出題者と一休さんで、そもさん&せっぱのかけ声で、問答が繰り広げられています。 禅問答は、意味のわからないことと比喩されますが、この本は禅問答で有名な「馬祖語録」をていねいに読み解き、初心者にもわかりやすく解説しています。 37の奇想天外なその禅問答を、詳しく紹介しています。 師が弟子の質問に対して優しく教えたかと思うと、急に平手打ちを浴びせるエピソードなど興味深いお話がたくさん登場します。 インドから伝来した禅の思想が中国禅となり人々に禅宗として広まりました。 その創始者とも言われる、馬祖と弟子の様々な禅問答のストーリーです。 著者の独自の「馬祖語録」解説が大胆で、おもしろく、難解なイメージの禅問答を、楽く興味を引くものに仕立てています。 修行する弟子の日常で起こる話しなども取り上げられ、その場のりんじょう感とともに、その場の背景や、そもさん(作麼生)&せっぱ(説破)の禅問答の真相が見えてきます。 禅問答は公案とも言われていて、師匠の投げかける質問に弟子が試行錯誤する様子を書かれているものです。 その代表的な世尊独尊や迦葉刹竿の中から50の問答を抜粋し、日常で私たちがかか会えている問題と照らし合わせながら、わかりやすく説明されています。 公案の本はたくさん出版されていますが、わかりやすい解説がついている本は多くありません。 その中でもベーシックなお話を集め、その難しい解釈をていねいに解説している良書です。 そもさん(作麼生)&せっぱ(説破)の禅問答の使い方や禅についての知識が全くない人にも、おすすめです。 禅の教えや思想、修行する人の道筋として受け継がれてきた禅問答は、一つの問題に対して、たくさんの答えが生まれます。 それはなぜなのか、話をしない人の答えがなぜ正解なのか、数々の難解な答えを、理解しやすく解説しています。 禅問答はは文字で指し示すよりも、問答で教えを導き出す身をもって体験し、真理に近くための禅宗の教えです。 そのつかみどころのない教えを、どのようにして、切り開いていくのか、そもさん(作麼生)&せっぱ(説破)の禅問答を通して知る、生きるための指南書を詳しく解説している良書です。 書道をするときに、かく5字熟語の漢字はたくさんあります。 書き初めでかく言葉などは、一年の始まりの意気込みとして、素敵な漢字を選びたいですよね。 そんな5字熟語の漢字の中から、かっこいいものや難しい漢字など、下に詳しくご紹介していますので、ご覧になってみてください。 主な仏教の宗派・英語表記• 浄土宗... JODO SHU、Honen Buddhism• 浄土真宗... JODO SHINSHU、Shin Buddhism• 高野山真言宗... KOYASAN SHINGON Buddhism• 曹洞宗... SOTO ZEN Buddhism• 天台宗... Tendai Buddhism 日本の主な仏教の宗派の英語表記を上にあげてみました。 浄土真宗は本願寺派と大谷派に分かれますが、表記するときはそのままローマ字で付け加えるだけのようで、正式な決まりはないようです。 これ以外にも日本にはたくさんの仏教の宗派があり、以外に知られていないものも多くあります。 自分の家がどの宗派に所属しているか、答えられない人も最近増えているようですが、昔は地域や暮らしに密接したものでした。 自分の宗派について調べると、その思想や教えは日本の長い歴史を支えてきた素晴らしいものばかりです。 それらの事を知識に入れておき、外国人だけでなく子供達にも受け継いけると良いですね。 そもさん&せっぱを活用して楽しく問答しよう! そもさん&せっぱについての意味や使い方、おすすめの本などご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。 禅問答というのは、さとりを開きたいと願う修行者が、そのために厳しい修行を繰り返し、その中で生まれた疑問や師と仰ぐ人からの教えの言葉のやり取りを、痛快に表現した興味深いお話しばかりです。 そんな禅問答は現代において、クイズを始めるときの掛け声として知られ、難しいことは抜きにして、楽しいものとして認識されています。 そもさん&せっぱという禅問答の言葉にスポットがあたり、多くの人が禅問答などに興味を持ったり、現代のクイズに応用することは素晴らしいことですね。 そもさん&せっぱのかけ声の使い方を活用して、楽しい問答やクイズを楽しんでみてくださいね。 アメリカにあるアーミッシュという宗教をご存知でしょうか。 そのスタイルは独自のもので、数々の特徴を持った興味深い生活をしています。 そんなアーミッシュについて詳しくご紹介していますので、ぜひご覧になってくださいね。
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