『大造じいさんとガン』という物語が、小学校5年生の国語の教科書に物語が載っています。 その物語に登場するガンの頭領「残雪」は、登場人物に数えていいのかということをお尋ねしたいのです。 質問の内容からお分かりいただけるかもしれませんが、私は小学校の教諭をしています。 上記の問題について、かなりの人数の同僚・同業の職員に尋ねてみましたが、すっきりした答えを得られません。 ネットで調べてみても様々な意見があって、そのどれもが納得のいくような説明を添えてくれていないように感じました。 「残雪」は人ではありませんが、物語で大変重要な役割を果たしている。 その条件で考えると、登場人物に数えてよいのかもしれません。 しかし、同じように考えると、「ハヤブサ」も登場人物になる。 その延長線上でとらえると、「大造じいさんに飼い慣らされたガン」も登場人物になる。 さらに他の意見としては、「その他のガン」もまた登場人物に数えるべきだという主張もあります。 そうなると、あまりにも範囲が広がりすぎているように思います。 では、どこで線を引けばよいのこかというのが分からないのです。 同じようなことを、宮沢賢治作の「やまなし」でも悩んでいます。 『大造じいさんとガン』で「残雪」や「ハヤブサ」が登場人物に入るのなら、 『やまなし』において「カワセミ」と「やまなし」も登場人物に入ることになります。 よろしくお願いいたします。 こんにちは。 教育現場それも最前線でのお仕事をなさっている方ならではの質問ですね? 国語という教科目で「文章理解の分野」は多分に難しい仕事の一つと言われています。 「文章の理解」と「作品の理解」は別問題だからです。 一定程度の学力をお持ちの子どもさんならば、質問者の意図としての「文章理解」と作者の意図の違いにも気付くはずですが、小学生ならばその様な区別を付けることもままならないのが現実でしょう。 さて前置きは長くなりましたが、この作品を読んでみました。 質問者様が「この作品に登場する人物」に挙げているのは「大造じいさん」「残雪」「その他のガン」「大造じいさんに飼い慣らされたガン」「ハヤブサ」 登場順 となります。 けれども実際には他の「しりあいのかりゅうど」「わたし」「イノシシがりの人びと」「かりゅうどのだれ」などの「物語には登場しない人物」の名前を見つけることもできます。 そして大切な点は「物語の展開との関係」で、それを示しているのは「誰が、何について語っているのか」を具体的に表す「言葉」です。 これを「台詞」と読み替えるならば、児童の理解 論理的に物事を判断する力 を手助けする材料ともいえましょう。 物語りの骨子は「大造じいさんが私に話した、三十五~六年前の雁狩りの思い出話」です。 その物語に「残雪の台詞」が具体的に書かれているかといえば、一言も記されていません。 全ては「大造じいさんが見たこと」「大造じいさんが想像したこと」で綴られています。 つまり残雪は「物語を構成する上での重要な要素」ではあっても登場人物ではない、との結論になります。 むろん、残雪がいなければこの物語は成り立たないことも前提にあります。 もしここに「残雪の発した言葉」が一言でも具体的に記されていれば、話は別になります。 危険を察知するために鳥が持っている本能やら、それに基づいた行動は「残雪」でなくとも他の雁であっても持ち合わせていることでしょう。 ここで作者の椋鳩十さんが「敢えて残雪にこだわった」のは、大造じいさんにとって「残雪が格別の存在である」ことを言外に示している。 それがなければ、大造じいさんの狩人生活はまた別のものになっていたかもしれないとの考えがあってのことかもしれません。 こうした類例は他の児童文学にも数多くあります。 たとえば新美南吉さんの『二匹の蛙』です。 晩秋のある日に畑の真ん中でぱったりと出会った「二匹の蛙」が互いの肌の色を見比べて喧嘩になり、冬眠の後に改めてその姿を見直してみたら、互いの美しさに気付いて仲直りをした、との物語です。 生物としての蛙が人間の言葉を話すことは常識的にはあり得ないことに属しますが、「物語の展開」から見たならば、互いの遣り取りが原因で喧嘩になり、それを収めたのもやはり「言葉」ですから、この物語を理解するには「蛙を登場人物」として扱うことが必要になります。 一方『やまなし』ですが、この作品に登場するのは「蟹の兄弟」と「お父さんの蟹」です。 その理由もおわかりでしょう。 物語の中で「言葉の遣り取りをしている」のは蟹以外にはいないからであり、物語は「蟹の身の上に起きたこと」「蟹が見たこと」が骨子です。 蟹の兄弟は自身以外の「他のもの」を見たことがなく、そうした未知のものが次々と目の前に表れる、とのいわばカルチャーショックを表した文章ともいえるでしょう。 ただ物語には「独自の解釈」の余地も付きものですから、お子さんが解釈した物語の世界も大切にしてあげたいとのお気持ちも理解できる部分です。 文学作品の理解に「正解はない」とも言われております。 もし「物語の言葉」を一つの枠に押し留めてしまうならば、そうした行為は言葉を恃むこととの間に越えがたい溝を生み、言葉の生命を奪うことになるやもしれません。 読み方には幾つもの可能性はあっても「定義付け」はあまり必要のない要素と考える次第です。 #6・#7です おっ!回答増えてるぞ!と思いのぞいてみたら通報とか何とか… 皆様の批判の渦中にある「人物」にこだわる一人としてハッキリさせておきますが、私の回答文にもあるように、「人物」という単語を辞書で引けば人間の事なんですよ。 つまり社会通念上、「人物」とは人間をさす単語なんですね。 例えばガンという鳥を助数詞を交えて考えれば「一羽の鳥」なんです「一人の鳥」ではないですよね?当該作品が手元にないので、残雪という鳥は助数詞を扱いながら、どのように個体数を表現しているのでしょうか?「一羽」ということであれば、作者は鳥として認識していると考えることは自然なんですがね… いずれにせよ、鳥と人間といった生物学上の違いを、曖昧にする事がいかがなものか?って話なんです。 そのような中で#8の立場に立てば、意志を持ち言葉を発するという部分で、それを人物と仮託するならば、他の表現もあるのではないか?(逆に人物という表現は不適切)という回答に対し、通報も何もなかろうに… たとえ問題とされる生き物が鳥であったとしても、人格を有するのであれば人間としてカウントする。 それはそれで素敵な考え方ではありますが、今回の問題は、意志を持つ鳥は人間して考えるということと、意志のある鳥そのものを考えるといった違いであり、迷惑かもしれませんが(勝手に例にしてごめんなさい)#1・#6・7・#8は後者の立場に立っているとい事なのでしょう。 そして後者の立場に立つ者の一人という観点から言わせてもらえば、万物の霊長としての人間なんてものは、普遍的に優位にあるとはとても思えないんですね。 ですから意志のある鳥は意志のある鳥として、そのまま考えさせてもらいたいなと思います。 「意志もあるし言葉も話せる?よし!人間の仲間入り!」これってどうなんですかね?あくまでもこれは僕の個人的な一つの意見でが。 #6です あぁ…他の回答とお礼の内容を見ましたら「登場人物ではない」という流れだったんですね。 これは失礼しました 「心の機微を教える」大切なことですよね。 ただ僕個人は「正しい国語を教える」事が何よりりまして大切な事でしょうし、正しい国語を操ることができれば、子供たちがそれぞれ独自に興味を持ち、様々な本を手にする時に必ずや役に立ちます。 そして「心の機微」については、読書という営みや、日々の生活の中の体験などを通じ、各々が独自に答えを見つけ出すものでしょうから、そこにはやはり正しい国語の認識は不可欠だとは思うのですがね。 逆に正しい国語を教えなかったというより、今回の場合は解釈を拡大して鳥をも人物としてカウントするといった教育というものは、人間の意志伝達の一つの手段である言語によるコミュニケーションを否定するまではいきませんが、曖昧にさせるケースはあるように思います。 最後に確認しておきたいことは、「登場人物」という言葉は複合名詞で間違いないということです。 そして今回の質問内容は「登場人物なのか?」ということだったんですね。 ただ、教職員という立場でしょうから、教育現場においては、その時々の教員の裁量に任される部分が多々ありますから、どうぞ鳥を人物としてカウントし教えてあげてください。 普通の回答で申し訳ございませんが「登場人物か?」といえば人物ではありませんからね…残雪はあくまでも鳥です。 ですから登場人物ではないでしょう。 「登場人物」という言葉は「登場」と「人物」という単語の複合名詞です。 そして名詞自体が具体的な対象を示すことは御理解いただけるかと思います。 普通考えれば「登場」をさらに具体的に「人物」と限定していますから、残雪は登場人物の中から外れてしまいますね。 子供さんにリアルな感情を伝えたいという、切実な思いを抱きつつ教壇に立つ質問者様は「素敵な先生だな」と思いますが、ここはクールに事実を端的に示すことも大事だと思いますが。 個人的な意見です。 自分の意志を持って行動しているものを登場人物とする。 これでいかがでしょう。 サザエさんのタマは、そりゃまあたまには物語の展開に重要な役割もするでしょうが(タマだけに)、それは「意志」でしているのではありません。 主人公が石ころにつまづいてこけて大けがして試合に出られなくなったら、石ころは登場人物? 違いますよね。 石に意志はないし。 同様に、残雪も動物としての本能や、群れのリーダーとしての本能で動いているなら、それも登場人物とは言えないと思うのです。 大造じいさんが勝手に自分の気持ちをガンに投影しているだけでしょう。 メロスは太陽が沈むのと競走し、太陽に沈むのを待ってくれと頼みましたが、それも太陽に「ゼウス」という自分の信じる神を投影しただけです。 太陽は時刻通り(ガンなら本能通り)に沈みます。 この場合、太陽は物語の重要な要素ですが、太陽は登場人物ではありません。 それと同じです。 ちなみに、「人物」という呼び方にはこだわらない方がいいでしょう。 物語の中で意志を持って行動するものには「擬人法」という技法名が使われ、人とみなされるのですから。 つまり、擬人法が使われたものが「登場人物」という線引きになります。 あとは、物語の解釈ですね。 意志のないものにも恣意的に意志がある、と解釈してしまえば、上記の石ころもタマも太陽もぜーんぶ登場人物です。 私はそれには反対です。 そんなすっきりとした「定義」はありません。 それを決めるのが個性ではないでしょうか。 たとえば・・・ 登場したものをすべて「登場人物」として、 それの線引きも個性だと思います。 この線引きも様々ですから、人それぞれに定義が違います。 何の目的で線引きするか、によって違ってくるのかもしれません。 私の感覚ですが、 「次の冬も正々堂々とたたかおうじゃないか。 」 などと話していますから、今後も登場が予測されるものが 実は登場人物なのかもしれません。 しかしこれも私の個性が勝手に考えていることですから 定義にはなりません。 そこで、とにかく私は無能力でただのアホなので、 その定義は自己都合のより、かつ利用目的による とさせてください。 言葉としての定義よりも『個性』つまり、その人なりの読み取り方が大切だということですね。 それは、国語というか文学の学習においてとても重要なことだと思います。 小学校でも、自分なりの感性で文章を読み解く力、そして、感受したことを論理的に表現する力を子どもたちにつけてあげたいと取り組んでいます。 一方で、この業界(初等国語科教育業界?)では、「これまでの国語科授業は感性やイメージに頼りすぎていた」という反省に基づいて、「用語」や「用法」、「原理・原則」をきちんと教えていきましょうという流れが起きています。 そして、私もその考えに賛同しています。 たとえば、説明文の学習においては、「段落」「要点」「要約」とかいう用語を、それぞれに定義付けしながら教えていくわけです。 (もちろんそれだけをやっていくわけではないですが。 ) ですが、国語の場合、どうしてもはっきりと定義づけしにくい部分が出てくるのです。 算数(数学)では「整数」「小数」「公約数」「積」「商」など、それぞれの言葉はきちんと教科書の中で端的に定義付けされていて、例外を含むことはほとんどありません。 ということは、子どもたちは、その言葉をきちんと覚えておけば、他のどの場合にも対応・活用していくことができるということになります。 「登場人物」を定義づけしようとすると、なかなかそうはいかなくて…。 」 てな具合に定義がズレていくんですね。 ここまでズレると、「物語を動かす重要な働き」の「重要」さなんて個人の感性によって違いますから、子どもによって、また先生によってかなり差が生まれてきます。 かなり多くの文学作品についてです。 最終的には個人の読み取りに任せられてしまうわけなんですが、それじゃあ子どもたちはきちんと「登場人物」という用語を身に付けて、他の物語を読んでいくときにそれを活用することができるのか疑問なのです。 すっきりとした定義ができなくとも、個性がそれを決ればいい。 最終的・究極的解答を教えていただきました。 ありがとうございました。 読んだことがないので想像ですが、「登場人物に数えていい」 と思います。 そのお話を芝居として舞台で上演するとしたら、その役を演じる人が登場してセリフを喋るとしたら、その人物ないし生き物ないし擬人化された存在は、1つの人格なり性格なりを有しているものとみなすことができます。 英語の character という語に相当すると思いますが、character は 「人間」 だけに限定されません。 現代ドラマでない限り、「登場人物」 には人間でない存在も character として出現することがありますから、物語ならば舞台で役者がセリフを話す役は、すべて 「登場人物」 に入れてよいように思います。 戯曲の脚本で冒頭に 「登場人物」 としてリストアップされているものの中に役柄として人間でないものが含まれていてもおかしくないようなものです。 人間でないものも人間が演じるのですから 「登場人物」 に含まれているわけです。 脚本でなくても、その物語を劇化して演じると想定するとき、セリフを話すかどうか という線引きですね。 1のお礼にも書きましたが、小学校の教科書に掲載されている物語の場合、人間でなくても、人間のように行動する動物や物が登場するものが多いので、 「ヒトじゃないものは登場人物に入れない」 という定義付けでは無理があるんですよね。 お教え頂いているいるように、 「舞台で役者がセリフを話す役は、すべて登場人物」 そのとおりだと思います。 小学校の授業の中でも、 「通常、登場人物に数えられるものは言葉をしゃべっているからね。 「 」があるのは登場人物だね。 」 と解説することが多くあります。 ただ、「セリフがあること」は「登場人物であること」の十分条件になるんですが必要条件かというとそうでもない場合があります。 舞台に登場するけど、セリフのない役もありますよね。 『白いぼうし』という物語が4年生の教科書に載っていて、 そこに「太った警察官」という人物が登場します。 でも、セリフはありません。 別の登場人物(松井さんというタクシーの運転手)を怪しんで、 じろじろと見て去っていくるだけです。 (読んだことなければ分かりにくい例示になります。 お許し下さい。 ) 『白いぼうし』を劇化する場合、この警察官は一人の役となります。 セリフがなくても登場人物に数えられる場合もあるということになります。 (「いや、セリフがないから、この警察官は登場人物ではない」という意見もあります。 ) 『大造じいさんとガン』の「残雪」の場合も、「ガン」なのでセリフは一切ないんです。 ただ、劇化して舞台で演じるとしたら、う~ん、 どのような演出になるかという点によって大きく変わってくるでしょうが、 (例えば「ライオンキング」的な演じ方か、「セサミストリート」的な表現か) まちがいなく舞台に登場しますし、大活躍します。 そのような存在を登場人物に数えなくてもいいのかというとことで悩んでいます。 教えて頂いた内容で、 「人間でなくともセリフがあるものは登場人物である」ということは、やっぱり間違いないだろうと確認できました。 ありがとうございました。 「登場人物」は「人物」であるという考え方ですね。 確かに明快な線引きになりますね。 しかし、このように線を引いてしまうと、 「人間ではないが、思考・感情を持ち、自分の判断に基づいて人間のように行動する動物や物」 はどうするのかという問題が残ります。 例えば、『ドラえもん』における「ドラえもん」、 『アンパンマン』における「アンパンマン」、 『ど根性ガエル』の「ピョン吉」などです。 彼らを登場人物に入れないわけにはいかない。 したがって、国語の授業の中では、 「『人間ではないが、思考・感情を持ち、自分の判断に基づいて人間のように行動する動物や物』 も登場人物に数えるんだよ」…と教えることが基本になっているようです。 (私が調べた限りでは…) 例えば、『ごんぎつね』における「ごん」、 『お手紙』における「がまくん」「かえるくん」、「かたつむりくん」、 『大きなカブ』における「いぬ」「ねこ」「ねずみ」などです。 (読んだことのない方にとっては、意味のない列挙かもしれません。 お許し下さい。 ) 小学校の教科書に掲載されている物語ですので、動物が人間のように人格を持つ設定で描かれたものが多いんです。 じゃあ、『大造じいさんとガン』の「残雪」だって登場人物でいいじゃねぇかってことになるんですが、 そうもいかない部分がありまして、いろいろ悩んでいます。 「難しく考えると、訳わかんなくなります。 」というお言葉には、優しさを感じました。 ありがとうございます。
次の国語スキル1:位置関係を板書に反映させる 物語では、登場人物の位置関係が、心情や展開に深く関わっていることがあります。 例えば、「ごんぎつね」のごんが兵十の後をついていくシーンでは、「兵十のかげぼうしをふみふみ行きました。 」という行動描写があります。 たった一文のことですが、教師はごんの気持ちや二人の距離感に気づいてほしいと試行錯誤して発問します。 このようなときに、挿絵を使ったり同化体験を通して物語世界を理解させることができます。 しかし、挿絵も同化体験も、その場での説明で終わってしまえば位置関係の確認のみになってしまい、登場人物の心情まで深く読むことができません。 人物の位置関係を板書に表し、挿絵を貼ったり、同化体験を通したりして考えた人物の気持ちや行動を書き込めば、物語の構造と思考の流れがリンクして、読みを深めることができます。 「大造じいさんとガン」(学校図書五年) 「大造じいさんとガン」の板書例 (クリックすると別ウィンドウで大きくなります) 山場のシーンでは、以下の人物やキャラクターが登場します。 このシーンでは、大造じいさんがとった行動である、 「が、なんと思ったか、再びじゅうを下ろしてしまいました。 〔発問例〕• そして、遠くから残雪をねらうことはどういうことか、位置関係を把握した上で大造じいさんの心情に迫っていきましょう。 国語スキル2:ステップ・チャート 「想像力のスイッチを入れよう」の板書例 (クリックすると別ウィンドウで大きくなります) 一つ目と二つ目の事例からつながる筆者の意見を比べることで、読者にどんなことを考えさせたいか、どうしてこの順序で事例が提示されたかということを考える授業を行います。 ・事例と意見の違いをおさえる。 ・意見は筆者が伝えたいことであり、主張につながることをおさえる。 ・安心して書き進められるように、教師といっしょに確認しながら書く。 ・音読することで、どんな内容が、どんな順序で書かれているかに注目させる。 ・ペアで一つずつ担当すると責任感が生まれる。 ・二人で行えば、対話的な活動ができる。
次のあらすじ [ ] 前書き 猪狩りに参加した私は、猟師たちからに住む大造じいさんという72歳の猟師を紹介される。 大造爺さんを訪ねた私は昔話を聞くうちに、35・6年前に起きたガンの頭領「残雪」との知恵比べの話に引き込まれていく。 1の場面 じいさんは、栗野岳の麓の沼地を狩場としてガンを撃っていたが、翼に白い混じり毛を持つ「残雪」がガンの群れを率いるようになって、一羽の獲物も仕留められなくなっていた。 そこで、をつけたウナギを杭につないだ罠を仕掛けることにした。 初日に1羽を生け捕りにしたものの、翌日はすべてのタニシを取られた罠が残っているのみだった。 丸呑みを禁じ、引き抜いて食べるように残雪が指導したものと判断した大造じいさんは感嘆の唸りを上げる。 2の場面 翌年の狩に備え、大造じいさんは夏から1杯のタニシをかき集め、餌場近くに小屋を立てた。 餌場にタニシをばら撒き、降り立った群れを小屋から狙い撃ちにする算段だった、小屋を不審に思ったか、餌場を代えて寄り付こうともしなかった。 大造じいさんは憎悪を覚える。 3の場面 3年目の対決に備え、大造じいさんは初年に捕らえたガンを囮にし、残雪の群れを誘導できるよう調教した。 囮ガンは大造じいさんの肩に乗り、口笛の指示に従うところまで慣れた。 決行の朝、大造じいさんが囮ガンを飛ばす直前、の奇襲を察した残雪の群れは一斉に飛び立った。 飛び遅れた囮ガンにハヤブサが襲い掛かる中、残雪が割り込み、ハヤブサと交戦する。 射止める絶好の機会を目の当たりにしながらも、大造じいさんは何故か一度向けた銃口を下ろす。 墜落し、なおも地上で格闘する2羽を追って大造じいさんは飛び出す。 逃げ出したハヤブサと対照的に、血まみれのまま大造じいさんを睨み据える残雪に威厳を感じる。 4の場面 大造じいさんの手当てを受け、傷が癒えた残雪を放鳥する。 飛び立つ残雪を「ガンの英雄」と称えつつ、大造じいさんはこれまでの卑怯な頭脳戦を悔い改め、正々堂々の真っ向勝負を誓いつつ、残雪が飛び去るまで見送った。 版の違い [ ] 出版社の意向による「前書き」の取り扱いの違い、椋本人の敬体改稿、小学校国語教科書トップシェアのをはじめ、・・・など(日本文教出版は国語教科書から撤退)教科書出版社各社およびやなど椋作品を出版する児童書出版社の編集方針の違いにより、多数の版が存在する。 初出版の「少年倶楽部」昭和16年11月号は、紙面不足のため前書きがカットされた。 、三光社より出版した作品集「動物ども」に採録する際、前書きを復活し、椋本人により常体文から敬体文に書き換えられた。 前書きを採録している教科書は光村版と学図版である。 前書きには大造じいさんの年齢が明記され、物語は大造じいさんの壮年期の昔話であることが示される。 その他の教科書では、老狩人が残雪と知恵比べをしている現在進行の物語と誤解を生じている。 初稿の常体文を採用しているのは教出版と学図版、改定稿の敬体文を採用しているのは光村版・東書版・三省堂版である。 椋自身はどちらも許容するコメントを残している。 敬体文は語尾を完全に書き換えているものの、文中の接続部が書き換えられていない箇所が複数残っている。 また、囮ガンを据えて小屋に篭る瞬間の「さあ、いよいよ戦とう開始だ」とハヤブサを発見した瞬間の「はやぶさだ」は、常体文のままでは大造じいさんのと解釈できるが、敬体文に直すと単なる地の文に変化してしまう。 初稿のタイトルは「大造爺さんと雁」であったが、外であるため、教科書では「大造じいさんとがん」または「大造じいさんとガン」に書き換えてある。 光村版と三省堂版は、生物を書きする慣例に従い、タイトルをはじめ本文の生物をすべて片仮名表記としている。 教科書では、小学5年生で学習しない「戦闘」「英雄」を「戦とう」「英ゆう」と混ぜ書きにする出版社とを打つ出版社が混在する。 椋の文章表現の誤りを指摘する声も、教育現場では挙がっている。 2の場面にて「そして、ねぐらをぬけ出して、このえさ場にやってくるガンの群れを待っているのでした」の係り受けが判然とせず、「大造じいさんがねぐらを抜け出してガンを待つ」のか、「ガンがねぐらを抜け出してえさ場にやってくる」のか、しばしば児童の討論課題として取り上げられる。 生物学・生態学上の指摘 [ ] 文中に系西端のが登場することから、椋が執筆中に赴任していたが舞台とされている。 具体的には、現の三日月池と想定されている。 しかし、戦前から鹿児島県での群れが毎年のように越冬した記録はない。 同じでも、ならば鹿児島県下でも渡ってくる。 舞台が現実の霧島山麓であれば、カモ亜科をガン亜科と錯誤または仮託したものと推測され 、生物学上の誤りとされる以下の指摘はおおむね解決する。 2年にわたり、大造じいさんはタニシを餌として罠を仕掛けるが、ガン亜科はほとんど草食性でタニシを食べることはほとんどない。 越冬地のではわずか1件の目撃例があるのみである。 対するカモ亜科は、を好例として雑食傾向が強く、タニシも餌の一部となる。 囮ガンが大造じいさんの「肩先にとまる」ほど慣れているとする表現があるが、ガン亜科・カモ亜科を問わず、脚の形状から肩をつかむことは不可能である。 もっとも、大造じいさんに慣れていることを暗示した・比喩表現である可能性はある。 ハヤブサは翼長120センチメートル程度を上限とする中型猛禽で、1. 8キログラム以下の獲物を狩る。 対するマガンは最大翼長165センチメートル、体重2キログラム以上に達する大型の鳥であり、ハヤブサの餌としては大きすぎる。 ガン亜科としては、やなどの中小型種であれば、ハヤブサが襲う余地はある。 小型種が多いカモ亜科ならば、ハヤブサの餌としては最適である。 マガンを実際に襲う猛禽としては、翼長2メートル前後に達するが知られる。 エピソード [ ] 1970年ごろ、椋鳩十がある学校で講演したとき教師の半数以上がボイコットをした。 大戦直前に発表した『大造じいさんとガン』には、「おれたちはまた堂々とたたかおうじゃあないか」と少年読者を戦争へ駆り立てる意図があるという理由であった。 これについて椋は、「戦時中「死ぬことが美しい」という考え方が広まった。 そうではなく「生きることこそ美しい」ことを強調したかった」と心境を語っている。 既刊一覧 [ ] 著• 『大造じいさんとガン 子供図書館 新版 』 1988年10月発行()、• 『大造じいさんとガン 椋鳩十動物童話集 第6巻 』1990年11月発行()、• 『大造じいさんとガン 椋鳩十学年別童話 4年生の童話1 』 1991年3月発行(理論社)、• 『大造じいさんとガン』 発行()• 『大造じいさんとガン 子ども図書館 』 1968年65月発行()• 『大造じいさんとガン 椋鳩十名作えほん5 』 1975年発行()• 『動物のふしぎ 少年文庫 』 1947年3月発行(光文社) 書籍に関する注釈 [ ].
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