ヒーロー ジム。 スタッフ紹介

海外のジムウェア人気ブランドTOP11 人気メンズ・レディースフィットネスブランドは?

ヒーロー ジム

草創期の立役者はアルゼンチン人 2019年のF1ドライバーズタイトルは、メルセデス・ベンツが擁するルイス・ハミルトンのものとなった。 3年連続、通算6回目のタイトル獲得である。 今のところ、F1ドライバーの最多タイトルはミハエル・シューマッハーの7回だが、それに迫る記録だ。 彼らを含め、1950年にスタートしたF1世界選手権は、これまでに33人のワールドチャンピオンを生み出している。 中でも草創期のヒーローと呼べるのが、ファン・マヌエル・ファンジオだ。 イタリア移民の血を引くアルゼンチン人で、当初は国内の山岳レースや超長距離レースで活躍していた。 第2次大戦後にフランスに渡り、1949年のグランプリレースではマセラティで好成績を残す。 翌年に始まったF1ではアルファ・ロメオのドライバーとなり、最強マシン「ティーポ158」で速さを見せた。 当時のレギュレーションでは自然吸気エンジンが4. 5リッター以下、過給器付きエンジンが1. 5リッター以下の排気量となっており、アルファ・ロメオはスーパーチャージャー付き1. 5リッターエンジンを搭載していた。 チームにはファンジオのほかにジュゼッペ・ファリーナ、ルイジ・ファジオーリがおり、「3F」と呼ばれた彼らは他を寄せ付けぬ走りでトップ争いを展開。 ファンジオは3勝したものの、初代チャンピオンの座はファリーナのものになった。 1951年はフェラーリが躍進。 イギリスGPでアルファ・ロメオに勝利したは、「私は母を殺してしまった」という有名なセリフを残している。 タイトル争いはアルファ・ロメオのファンジオとフェラーリのアルベルト・アスカリの対決になり、ファンジオが勝利。 彼は1954年からマセラティ、メルセデス、フェラーリを渡り歩いて4連覇を果たし、1958年に47歳でF1を引退した。

次の

スタッフ紹介

ヒーロー ジム

あまたの死を目にしたスチュワートの決意 F1は転換期を迎えていた。 コスワースDFVが汎用(はんよう)エンジンとして普及し、小規模なチームでも参戦できる環境が整う。 スポンサー契約が解禁されてビッグマネーが流れ込むようになり、商業的成功の基盤が築かれていった。 クラークが亡くなった1968年は、彼のチームメイトであるヒルがドライバーズタイトルを手にし、コンストラクターズタイトルも「ゴールド・リーフ・カラー」のロータスのものとなった。 時代はさらに先に進む。 ロータスではヨッヘン・リントが力をつけ、ヒルを脅かすようになる。 ケン・ティレルのチームでは、ジャッキー・スチュワートが速さを見せつけるようになっていた。 スチュワートは1969年、1971年にチャンピオンとなる。 1973年にも5勝を挙げて3度目のタイトルを決めたが、通算100戦目となる最終戦アメリカGPでは、決勝を走らず、F1から引退した。 予選でチームメイトのフランソワ・セベールが事故死したことに衝撃を受けたのだ。 同郷の先輩クラークの死を経験し、1970年にはリントがイタリアGPで事故死するのを目の当たりにしていた。 スチュワートは現役を退いてから、新たな使命を自らに課す。 危険なレースを根絶するための活動である。 多くの偉大なドライバーの死を乗り越え、F1では、現在もレースを安全なものにするための努力が続けられている。 (文=webCG/イラスト=日野浦 剛) ロータスは、1968年のスペインGPからマシンの外装にインペリアル・タバコのスポンサーカラー「ゴールド・リーフ・カラー」を採用し始めた。 同社がロータスの個別スポンサーとなったためで、F1商業化の象徴的な出来事となった。 1967年のインディ500で談笑する、ジャッキー・スチュワート(左)とジム・クラーク(右)。 1969年、1971年、1973年と3度にわたりドライバーズタイトルに輝いたスチュワートは、クラークと同じスコットランドの出身だった。 1973年のモナコGPにてランデブー走行する、ティレルのスチュワート(手前)とフランソワ・セベール(奥)。 セベールは同年のアメリカGPで事故死。 あまたのドライバーの死を目にしてきたスチュアートは、引退後、F1の安全性向上に尽力した。

次の

ジム・クラーク――シャイなF1ヒーロー (1963年)

ヒーロー ジム

翌年始まったF1ではアルファ・ロメオのドライバーとなり、最強マシンのティーポ158で速さを見せる。 レギュレーションでは自然吸気エンジンが4. 5リッター以下、過給器付きエンジンが1. 5リッター以下となっており、アルファ・ロメオはスーパーチャージャー付き1. 5リッターエンジンを搭載していた。 チームにはファンジオのほかにジュゼッペ・ファリーナ、ルイジ・ファジオーリがいて3Fと呼ばれ、他を寄せ付けぬ走りでトップ争いを展開する。 ファンジオは3勝したものの、初代チャンピオンの座はファリーナのものになった。 1951年はフェラーリが躍進し、イギリスGPでアルファ・ロメオに勝利したエンツォ・フェラーリは「私は母を殺してしまった」という有名なセリフを残している。 タイトル争いはアルファ・ロメオのファンジオとフェラーリのアルベルト・アスカリの対決になり、ファンジオが勝利する。 彼は1954年からマセラティ、メルセデス、フェラーリを渡り歩いて4連覇を果たし、1958年に引退する。 47歳になっていた。 クラークにとっては初めてのコースで、シングルシーターのマシンに乗った経験もなかった。 最初のコーナーでコースアウトしたものの、慣れるに従ってペースを上げていく。 ついにはワークスドライバーのグラハム・ヒルに迫る好タイムを記録し、走りを見ていたロータスの総帥コーリン・チャップマンを驚かせた。 運命的な出会いである。 クラークはチャップマンにレース人生を預けることになり、ヒルとは良きライバル関係を築いていった。 ロータスは1960年のオランダGPに、初のミドシップマシンである18を3台エントリーした。 このGPでは、ジョン・サーティーズが同日行われた二輪のレースに出ることになり、リザーブだったクラークが空いたシートに座ることとなった。 結果はギアボックスが壊れてのリタイアだったが、一時は5番手を走るなどしてポテンシャルを示した彼は、次のベルギーGPでも走ることになった。 スパ・フランコルシャンは波乱のレースとなった。 予選ではプライベートチームから参戦したスターリング・モスの乗るロータス18のサスペンションが壊れて大事故を起こす。 彼は負傷して決勝には出られず、次戦から欠場することになった。 決勝ではクーパーのクリス・ブリストウがバリアーに激突して死亡する。 そのわずか5周後にはロータスのアラン・ステーシーがコントロールを失ってクラッシュした。 顔面に鳥が衝突したのが原因である。 マシンは炎上し、この日2人目の犠牲者となった。 クラークは5位に入って初の得点を獲得したが、手放しで喜ぶことはできなかった。 負傷者と死者が続出し、F1史上に残る最悪のレースのひとつになってしまったのだ。 フィニッシュラインを越えることのできたマシンは6台にすぎなかった。 クラークが初めてF1のドライバーズタイトルを手にしたのは1963年である。 27歳での戴冠は当時の最年少記録だった。 10戦中7勝し、圧倒的な力を見せつけた。 彼は1965年のタイトルも獲得し、2度チャンピオンになっている。 この年はインディ500でも優勝し、アメリカにもその名声は鳴り響いた。 それでも、F1史上最高のドライバーともされる実力からは物足りない成績かもしれない。 1962年と1964年にもチャンスはあったが、マシンのトラブルで惜しくもタイトルを逃している。 1967年には年間4勝を挙げたが、2勝にすぎなかったデニス・ハルムに得点で及ばなかった。 実力は折り紙付きで人気も高かったクラークだが、サーキットの外では常に温厚で礼儀正しい英国紳士だった。 極端にシャイな性格で、爪をかむ癖があり、パーティーでは会場の片隅でひとりジュースを飲んでいたという。 自ら前に出ることをしない彼の能力を開花させたのは、コーリン・チャップマンだった。 ふたりは兄弟のように仲がよく、レース期間中はいつも一緒にホテルのツインルームに泊まっていた。 彼らは四六時中レースについて語り合い、スピードを追求していった。 1968年シーズンのロータスは、第1戦の南アフリカGPでワンツーフィニッシュという最上の成績でスタートした。 1位はクラーク、2位は前年にロータスに戻り、チームメイトとなっていたグラハム・ヒルである。 名機49とコスワースDFVエンジンの組み合わせは最強と目され、ロータスの優位性は明らかだった。 クラークの勝利数は通算25となり、ファンジオの記録を超えた。 しかし、第2戦の前にホッケンハイムで行われたF2のレースに参加したクラークは、高速コーナーでクラッシュして即死する。 32歳のあまりに若い死だった。 F1は転換期を迎えていた。 コスワースDFVが汎用(はんよう)エンジンとして普及し、小規模なチームが参戦できる環境が整った。 スポンサー契約が解禁され、ビッグマネーが流れ込む。 F1の商業的成功の基盤が築かれていった。 この年はヒルがドライバーズタイトルを手にし、コンストラクターズタイトルもロータスのものとなった。 時代はさらに先に進む。 ロータスではヨッヘン・リントが力をつけ、ヒルを脅かすようになる。 ケン・ティレルのチームではジャッキー・スチュワートが速さを見せつけるようになっていた。 第2次世界大戦でイタリアは焦土と化したが、モータースポーツでは敗戦国とは思えぬ戦闘力を示した。 戦争開始直前に開発されたティーポ158が、GPレースで無敵の快進撃を続けたのだ。 開発したのはヴィットリオ・ヤーノのまな弟子、ジョアッキーノ・コロンボである。 158とは排気量1. 5リッターの8気筒エンジンという意味で、アルフェッタの愛称で呼ばれた。 1950年にF1世界選手権が始まっても無類の強さを発揮し、当時F1に組み込まれていたインディ500を除く全戦で勝利する。 そのうち4戦はワンツーフィニッシュという圧勝だった。 翌年は改良型の159を投入した。 初戦でファンジオが勝利する好調なスタートだったが、イギリスGPで初の敗戦を喫する。 勝ったのは、アルファ・ロメオから離れたエンツォの率いるフェラーリだった。 1966年からF1のエンジン規定は1. 5リッターから3リッターに変わり、各チームはエンジンの調達に追われた。 準備の間に合わなかったロータスは非力な2リッターエンジンで戦わざるを得なかった。 巻き返しのため、ロータスはフォードと組んでコスワースとともに新しいエンジンを開発する。 このプロジェクトで生まれたのが、後に通算154勝を挙げることになるDFVだった。 並行して開発されたのがバスタブ式モノコックを持つ49である。 43で試みられた、エンジンを強度部材として利用する設計が受け継がれた最新鋭の設計だった。 1967年のオランダGPから実戦投入され、すべてのレースでポールポジションを得るポテンシャルの高さを見せつけた。 翌年からは赤・白・ゴールドのゴールドリーフカラーをまとい、F1商業化という新時代の象徴となった。 ケケ・ロズベルグの息子という恵まれたDNAを持つニコは、父のサポートを受けて幼い頃からモータースポーツに親しんだ。 10歳でカートを始め、ジュニアフォーミュラ、F3と順調にステップアップしていく。 F1デビューは2006年。 名門ウィリアムズから参戦し、開幕戦で7位に入る活躍を見せた。 2010年にメルセデスに移籍し、2012年に中国GPで初優勝を果たす。 2013年にマクラーレンから移籍してきたルイス・ハミルトンがチームメイトとなる。 彼は同い年でカート時代からの仲間だったが、接触事故を起こすなどのトラブルを経て関係が悪化する。 2014年、2015年はハミルトンが連覇し、ニコは2位に甘んじた。 2016年も接戦となったが、最終戦でニコが初のタイトルを獲得する。 長年の夢をかなえたニコは、FIAの表彰式が行われた直後に引退を表明した。

次の