この記事の目次• 皇帝の子供は都市の支配者に任命される 劉協は、後漢の十二代皇帝 霊帝 れいてい の子供です。 彼は、後漢を建国した 光武帝劉秀 こうぶていりゅうしゅう の子孫なので姓は劉そして 諱 いみな は宏と言います。 だから個人名としては 劉宏 りゅうこう という事になります。 劉協も同じで個人名は劉協でした。 では、その後に出現する陳留王というのは何なのでしょうか? 当時の漢王朝のシステムでは、皇帝の子供が男子の場合には、中国のどこかに領地をもらって王として君臨する事になります。 劉協も同様に、最初は渤海という土地を領地に貰って渤海王になり、その後領地替えがあって陳留に領地をもらい陳留王になりました。 どうして、皇帝の子供が領地をもらって王として君臨するかと言うと、万が一反乱が起きた時に、これらの皇帝の子の王達が皇帝を助けて兵を挙げてくれる事を期待するからです。 このような王の存在を難しい言葉で 藩屏 はんぺい と言います。 三国志では、王は皇帝の子供という意味 これは、三国志の舞台となる後漢末期の特徴ですが、この時代には正式に王になれるのは皇帝の子孫だけでした。 つまり皇帝の子が王という称号を許されるのです。 一応、後漢の末期には曹操が献帝に迫って魏王になるのですが、それは異例中の異例で後漢の時代には二百年絶えて無かった事態でした。 献帝には七名の男子が確認できますが、その中の消息が分かる5人もやはり王になっています。 ・ 済陰王 さいいんおう 劉熙 りゅうき ・ 山陽王 さんようおう 劉懿 りゅうい ・南陽王 劉馮 りゅうふう ・ 済北王 さいほくおう 劉邈 りゅうばく ・東海王 劉敦 りゅうとん この済陰、東海、山陽、南陽、済北も、やはり土地の名前です。 実際の献帝は、曹操の保護下にあり何一つ自分で決める事は出来ないカゴの鳥でしたが曹操は後漢の習慣を重んじて、皇帝の子が王として各地に派遣されるのを認めていたわけですね。 世代を経るとランクが下がる王 では、王に任命された皇帝の子が亡くなった後はどうなるのでしょうか? この時は王の後継ぎが王位を継ぎ王になりますが、後継ぎ以外の子供は 侯 こう に格下げになります。 侯というのは、王族でなくても臣下でも到達できる地位ですから、低い地位ではありませんが、もう王族という優位性はないわけです。 さらに侯になった人々も同じように、後継者以外はランクが下がります。 こうして後継者でなければ、祖父が皇帝でも 曾孫 ひまご の代には無位無官になるのです。 ちょっと可哀想な気もしますが、考えてみれば皇帝の子孫が永遠に王であり続ければ中国全土が王の領地になってしまい収拾がつかなくなりますからね。 献帝のその後 劉協こと陳留王は、董卓によって後漢最期の皇帝である献帝になります。 その献帝も30年の在位を経て、西暦220年に 曹丕 そうひ に皇帝の位を 禅譲 ぜんじょう します。 禅譲というのは皇帝の位を譲るという事で、皇帝ではなくなる事を意味します。 劉協の兄の劉弁は皇帝ではなくなった後、弘農王に格下げされました。 しかし劉協はそうはならず、 山陽公 さんようこう という地位に格下げになりました。 山陽も土地の名前であって実質は王なんですが、公というのは王よりも下です。 すでに天下は劉氏の天下から曹氏の天下に動いていたので、劉氏である劉協は王を名乗れなくなっていたのです。 曹丕が興した王朝を魏と言い、曹氏の姓を冠して曹魏と言ったりします。 魏も後漢の制度を真似て、曹操の息子達を王にして各地に領地を与えました。 曹操は子供が多いので全員を紹介しませんが、例えば曹丕のライバルとして有名な 曹植 そうしょく は 陳思王 ちんしおう 、 曹幹 そうかん は 楚王 そおう 、 曹彪 そうひょう は呉王、 曹據 そうきょ は 彭城王 ほうじょうおう 、 曹宇 そうう は 燕王 えんおう という具合になっています。 今度は曹操の子孫である彼らが、曹王朝を守る 藩屏 はんぺい としての行動を期待されるようになっていくのです。 このあたりの事が分かれば、名前が変化しても戸惑わないで済むかと思います。 参考文献:正史三国志 はじめての三国志: 関連記事: 関連記事: 激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『』.
次のこの記事の目次• 皇帝の子供は都市の支配者に任命される 劉協は、後漢の十二代皇帝 霊帝 れいてい の子供です。 彼は、後漢を建国した 光武帝劉秀 こうぶていりゅうしゅう の子孫なので姓は劉そして 諱 いみな は宏と言います。 だから個人名としては 劉宏 りゅうこう という事になります。 劉協も同じで個人名は劉協でした。 では、その後に出現する陳留王というのは何なのでしょうか? 当時の漢王朝のシステムでは、皇帝の子供が男子の場合には、中国のどこかに領地をもらって王として君臨する事になります。 劉協も同様に、最初は渤海という土地を領地に貰って渤海王になり、その後領地替えがあって陳留に領地をもらい陳留王になりました。 どうして、皇帝の子供が領地をもらって王として君臨するかと言うと、万が一反乱が起きた時に、これらの皇帝の子の王達が皇帝を助けて兵を挙げてくれる事を期待するからです。 このような王の存在を難しい言葉で 藩屏 はんぺい と言います。 三国志では、王は皇帝の子供という意味 これは、三国志の舞台となる後漢末期の特徴ですが、この時代には正式に王になれるのは皇帝の子孫だけでした。 つまり皇帝の子が王という称号を許されるのです。 一応、後漢の末期には曹操が献帝に迫って魏王になるのですが、それは異例中の異例で後漢の時代には二百年絶えて無かった事態でした。 献帝には七名の男子が確認できますが、その中の消息が分かる5人もやはり王になっています。 ・ 済陰王 さいいんおう 劉熙 りゅうき ・ 山陽王 さんようおう 劉懿 りゅうい ・南陽王 劉馮 りゅうふう ・ 済北王 さいほくおう 劉邈 りゅうばく ・東海王 劉敦 りゅうとん この済陰、東海、山陽、南陽、済北も、やはり土地の名前です。 実際の献帝は、曹操の保護下にあり何一つ自分で決める事は出来ないカゴの鳥でしたが曹操は後漢の習慣を重んじて、皇帝の子が王として各地に派遣されるのを認めていたわけですね。 世代を経るとランクが下がる王 では、王に任命された皇帝の子が亡くなった後はどうなるのでしょうか? この時は王の後継ぎが王位を継ぎ王になりますが、後継ぎ以外の子供は 侯 こう に格下げになります。 侯というのは、王族でなくても臣下でも到達できる地位ですから、低い地位ではありませんが、もう王族という優位性はないわけです。 さらに侯になった人々も同じように、後継者以外はランクが下がります。 こうして後継者でなければ、祖父が皇帝でも 曾孫 ひまご の代には無位無官になるのです。 ちょっと可哀想な気もしますが、考えてみれば皇帝の子孫が永遠に王であり続ければ中国全土が王の領地になってしまい収拾がつかなくなりますからね。 献帝のその後 劉協こと陳留王は、董卓によって後漢最期の皇帝である献帝になります。 その献帝も30年の在位を経て、西暦220年に 曹丕 そうひ に皇帝の位を 禅譲 ぜんじょう します。 禅譲というのは皇帝の位を譲るという事で、皇帝ではなくなる事を意味します。 劉協の兄の劉弁は皇帝ではなくなった後、弘農王に格下げされました。 しかし劉協はそうはならず、 山陽公 さんようこう という地位に格下げになりました。 山陽も土地の名前であって実質は王なんですが、公というのは王よりも下です。 すでに天下は劉氏の天下から曹氏の天下に動いていたので、劉氏である劉協は王を名乗れなくなっていたのです。 曹丕が興した王朝を魏と言い、曹氏の姓を冠して曹魏と言ったりします。 魏も後漢の制度を真似て、曹操の息子達を王にして各地に領地を与えました。 曹操は子供が多いので全員を紹介しませんが、例えば曹丕のライバルとして有名な 曹植 そうしょく は 陳思王 ちんしおう 、 曹幹 そうかん は 楚王 そおう 、 曹彪 そうひょう は呉王、 曹據 そうきょ は 彭城王 ほうじょうおう 、 曹宇 そうう は 燕王 えんおう という具合になっています。 今度は曹操の子孫である彼らが、曹王朝を守る 藩屏 はんぺい としての行動を期待されるようになっていくのです。 このあたりの事が分かれば、名前が変化しても戸惑わないで済むかと思います。 参考文献:正史三国志 はじめての三国志: 関連記事: 関連記事: 激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『』.
次のいろいろな漢字の「解字」「凄い名字」「難読文字」(83) いろいろな漢字の「解字」「凄い名字」「難読文字」 (8 3 ー龍・竜の部ー) 「漢字源」の「解字」は漢字の成り立ちの面白さを教えてくれる。 これに重ねて、 「」(読者の投稿により、約13,000の特徴ある名字を収録。 このWEBで2009年11月まで掲載した名字字典)を観ると、漢字で名字を作り出した先祖の智慧、ユーモア、頓知の凄さも感じることができる。 そこで、ヒマにまかせて、漢字の「部首別」に「凄い名字字典」をまとめ直したのがこの資料である。 資料中、太字の名字は「読めたら凄い名字」「特集」にも収録した名字を示す。 資料にある「解字」「指事」「形声」「会意」「象形」「仮借」の意味は。 漢字 解字 凄い名のり(出所:) 難読文字(出所:漢字源) 龍 ・ 竜 象形。 もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇(だいじゃ)」の形を描いたもの。 それに、いろりろな模様をそえて龍の字となった。 龍は旧字。 井龍(いりゅう)、川龍(かわりゅう)、眼竜(がんりゅう)、亀龍(きりゅう)、鬼龍院(きりゅういん)、金龍(きんりゅう)、九頭竜坂(くずりゅうざか)、五竜神田(ごりゅうかんだ)、青龍寺(せいりゅうじ)、龍首(たつがしら)、龍腰(たつこし)、竜蛇(たつだ)、龍谿(たつたに)、龍溪(たつたに)、竜虎(たつとら)、龍湖(たつみ)、龍見地(たつみち)、龍輪(たつわ)、龍(たばた)、長龍寺(ちょうりゅうじ)、信龍(のぶりゅう)、飛龍(ひりゅう)、眞龍寺(まりゅうじ)、龍(りゅう、りょう))、竜(りゅう)、龍円(りゅうえん)、龍王(りゅうおう)、龍角(りゅうかく)、龍官(りゅうかん)、龍華(りゅうげ)、龍現寺(りゅうげんじ)、龍虎(りゅうこ)、龍古(りゅうこ)、龍光(りゅうこう)、龍康殿(りゅうこうでん)、龍蛇(りゅうじゃ)、龍神(りゅうじん)、龍瀬(りゅうせ)、竜石堂(りゅうせきどう)、龍仙(りゅうせん)、龍相(りゅうそう)、龍造寺(りゅうぞうじ)、竜滝(りゅうたき)、龍頭(りゅうとう)、竜宮城(りゅうのみやじょう)、龍福山(りゅうふくやま)、龍寶(りゅうほう)、龍満(りゅうまん)、龍門(りゅうもん)、竜子(りょうこ)、竜胆(りんどう) 竜宿浦(やのうら)、竜飛(たっぴ)、龍華(そうげ、たちばな、りゅうげ)、龍見(たつみ、りゅうみ、りょうげん)、龍首(たつがしら)、龍胆寺(りゅうたんじ、りんどうじ)。
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