目 次• お歯黒とは 「お歯黒」は明治初期まで長い歴史を経て続いていた女性の習慣であった。 「お歯黒文化」はむし歯予防の見地からも有効であったといわれている。 文字通り、歯を黒く染める風習である。 別名「鉄漿 かね 」「かね」「はぐろめ」「歯黒」「涅歯(でっし、ねっし)」とも呼ばれ化粧品の一種で、時代の風俗によって歯を黒く染める鉄の溶液や、またそれを使用して歯を染めること、あるいは、染めた歯を示すようである。 お歯黒の起こりは日本古来からあったという説(日本古来説)、南方民族が持って来たという説(南方由来説)、およびインドから大陸、朝鮮を経て日本に伝わったという説(大陸渡来説)がある。 この三つの説はいずれも定説がないのが現状であるが、たとえ外国から伝来した風習であるとしてもこれを消化、吸収し、さらに日本特有の文化に練り上げ千年以上の永きにわたり日本婦人のむし歯の予防に役立っていたことは驚嘆に値する。 わが国における「歯黒め、はぐろめ」すなわち涅歯の風習はいつ頃からはじまったのかは詳らかではない。 わが国最古の辞書といわれる938年(承平7年)刊、源 みなもと 順 したがう 著「和名類聚鈔 わみょうるいじゅうしょう 」の巻六に「・・・黒歯 こくしの 国 くに 、東海中にあり。 その土俗、草を以て歯を染むる故に曰く。 歯黒は俗に 波 は 久 く 路女 ろめ と云ふ。 婦人黒歯具有り。 故にこれを取る」の記載があり、少なくとも千年前にはすでに閉仁(べに)、之路岐毛能(しろきもの)、万由須美(まゆずみ)などとともに、化粧の道具の一つとしてお歯黒道具のあったことが推察される。 お歯黒をつけることにはいろいろな意義があったが、江戸時代においては既婚婦人のしるしで、まずは白い歯を染めて、「二夫にまみえず」との誓いの意味あいがあった。 また、江戸時代の浮世絵には医療を取り扱ったものや 房 ふさ 楊枝 ようじ による歯磨き、婦女子のお歯黒などがみられる(写真1、2)。 また、日本固有の木床義歯にもお歯黒が施されたものもある(写真3)。 大正時代にはお歯黒を施した陶歯も作られていた(写真4)。 写真1 江戸時代初期から明治にかけて庶民の間で生まれた庶民のための絵画、版画で当時の風俗や生活を描いた風俗画で、浮き世といわれた遊里や歌舞伎の生活風俗を描いたことから、浮世絵とよばれるようになった。 これは、お歯黒をつける前に房楊枝で歯の掃除をしているところ。 江戸時代 豊國画。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真2 お歯黒をつけているところ。 江戸時代。 芳年画。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真3 お歯黒を施した木床義歯。 江戸時代。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真4 お歯黒陶歯。 大正時代。 BSA硬質新シアトリック陶歯。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) お歯黒の歴史 浮世絵で有名な歌麿や春信の美人画をみたことがありますか。 なんとなく口元が変なのは歯を真っ黒に描いているためです。 これは「お歯黒」といって、江戸時代、結婚した女性に歯を黒く着色する風習があったからです。 わが国におけるお歯黒の歴史は古く、奈良時代に北方民族によって朝鮮半島から伝えれたといわれています。 平安時代には貴族階級の間に広がり、男女ともに十七〜十八歳で歯を黒く染め成人であることを表していました。 その後、時代とともに染めはじめる年齢が低くなり、室町時代には十三〜十四歳に、戦国時代になると武将の娘は早く政略結婚させるために八歳で染めていたといいます。 今川義元の肖像画などをみると、成人男子でもお歯黒をしていたことがわかります。 江戸時代に入ると上流社会の生活様式がしだいに一般庶民にも浸透しはじめ、お歯黒は元禄時代には全国各地に広がりました。 そしてこの時期に男子のお歯黒は姿を消したのです。 さて女子だけのものになったお歯黒ですが、緻密なエナメル質を染めるのはなかなか骨の折れる仕事でした。 そこで、庶民に広がってからは、女性によって人生の大転換期である婚約・結婚を迎えてはじめて染める風趣となり、ついには既婚女性の象徴となりました。 黒は何色にも染まらない色なので、貞操を意味し、既婚女性の誇り高い心の支えともなっていたようです。 一方、封建制度下における女性を、精神的にも外観的にも人妻として制約するための強力な手段であったともいえるでしょう。 お歯黒の風習は、明治政府の近代化政策により、チョンマゲや帯刀とともに禁止されたので、しだいになくなっていきました。 そして、大正時代にはほぼ全国からお歯黒の風習はなくなりました。 お歯黒の風習がこのように長い間受け継がれてきたことには、理由があったようです。
次の漆のような艶のある真っ黒が美しいとされました。 歯は白い方が美しいというのは現代の考え方。 奈良時代 弥生時代とも から明治初めまで、日本では歯が黒い方が美しいという価値観がありました。 白い肌、黒髪、黒い眉、そしてお歯黒。 江戸時代には既婚女性の証でもありました。 お歯黒はただ黒いものを塗っていたのではありません。 焼いた古釘とお茶などから作られる鉄漿 かね と、ふしの木の樹液から作られる五倍子粉 ふしこ を使います。 何度も繰り返して塗ることで、歯の表面のエナメル質に浸透し色素が沈着していきます。 だから磨いてもすぐに落ちません。 お歯黒の習慣は外国人から見ると奇妙なもの。 ペリー提督は気味悪がったと言われ、野蛮なイメージがあったためか、明治に禁止令が出されこの習慣は消えました。 ところでお歯黒には見た目の効果だけではなく、虫歯予防の効果もあり、歯磨き粉のアパタイトはお歯黒を参考に開発されたといいます。 「お歯黒」というのは日本の貴族の用語です。 「おはぐろ」の読みに鉄漿の字を当てることもあります。 御所では五倍子水(ふしみず)ともいいます。 民間では鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、歯黒め(はぐろめ)はなどとも。 江戸時代は皇族・貴族以外の男性の間では殆ど廃絶、又、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって既婚女性、未婚でも18~20才以上の女性、及び、遊女、芸妓の化粧として定着しました。 農家においては祭り、結婚式、葬式など特別な時のみ、お歯黒を付けました。 お歯黒」というのは日本の貴族の用語である。 「おはぐろ」の読みに鉄漿の字を当てることもある。 御所では五倍子水(ふしみず)という。 民間では鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、歯黒め(はぐろめ)はなどとも。 日本では古代から存在したとされ、民間には明治時代末期まで見られた。 漆のような艶のある真っ黒が美しいとされたようです。 そして、明治3年、華族(江戸時代に公家や上級武士だった者で、西洋の貴族に倣って付けられた)に対して、「華族自今元服の輩、歯染め眉払候儀停止被仰出」 (つまり「華族はお歯黒をやっちゃダメ!」ということ)と令達がだされました。 さらに明治6年には皇后も鉄漿を剥ぎ落し、 これに倣って官女、堂上方の女性はお歯黒を廃しました.
次のお歯黒は、江戸時代あたりだと既婚女性がするものと思われていますが、古くは、身分の高い男もやっていました。 京都のお公家さんなんかは江戸時代でも歯を黒くしてましたし、戦国時代でも、合戦で雑兵の首を取ると、歯を黒く塗ってから上に提出?する、なんてことをよくやってたそうです。 「お歯黒首」といって、身分の高い将校クラスの首の方が手柄が高いから、という水増し偽装工作ですね。 要するに、日本文化における、身分の高い者のお洒落の一環です。 歯が黒い人間が「高貴である」と感じる文化があった、だから、ちゃんとした女性は、顔を洗って髪を梳かして、顔を白く塗って歯を黒く塗った。 これが普通の女性が普通にやる身だしなみの基本だった、てことです。 なんでそんな文化が生まれたのか。 ざっくりいえば、女子中学生が制服のスカートの下にブルマをはくのと同じです。 あるいは、ミニスカートの下にスパッツをはく女子と同じ。 つまり、「白いものが見えるのは、恥ずかしい」ことなんです。 高貴な人物は、決して大口を開けて笑わない、みだりに叫んだりわめいたりおしゃべりするものではない、という考え方がありました。 つまり、大口開けて歯を見せる、というのは、はしたないことであり、身分あるものはするこっちゃない、という考えだったのです。 ま、とはいったものの、人は食事もするし、必要なことは話さなきゃいけませんから、口を開けずに生活することはできません。 そこで、口を開けて、歯が見えたとしても、それが目立たないように、あらかじめ黒く塗っておくんです。 江戸時代あたりになると、普通の日本人のあいだで歯を黒くするのは既婚女性だけになりました。 子供には、はしたないも何もありません。 女の子だって、子供のうちは泣いても笑ってもいい、仕方ないです。 だからワカメちゃんはパンツ見せながら生活しているのと同様、未婚女性は歯を黒くしなくともよいのです。
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