流山 市 小学校 いじめ。 栃木県の小学校でいじめ告発文章を添削付きで教室に張り出し!ブラック赤ペン先生の正体

流山市の小学校でいじめを3年放置…中学校での隠蔽方法もヤバい

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そのうち、流山おおたかの森駅を利用する児童は、小山小学校、おおたかの森小学校、八木北小学校のいずれか、もしくは少し離れた西初石小学校や流山北小学校が学区内です。 おおたかの森駅周辺では児童数が急増しており、その影響で2019年4月時点ではおおたかの森小学校は1454人、小山小学校は1308人まで児童が増えています。 100~600人程度の東京23区の小学校と比較しても大規模であり、新1年生は1学年8~9クラスに達してしまいました。 そのため、教室が足りずに小山小学校やおおたかの森小学校は校庭の一部を潰して教室を増築、さらに2020年に通学区域の見直して、2021年に小学校が新設されます。 新設小学校は西エリアの流山警察署の北側にあり、住所は「千葉県流山市大畔423」で検索できます。 それでも2025年には小山小学校は1719人、おおたかの森小学校は2153人、八木北小学校は1429人、新設小学校は1126人まで児童が増えると予測されており、2024年に通学区域のさらなる見直しと小学校の増設が決まりました。 情報取得日 2020年1月時点• 南エリア• 西エリア おおたかの森小学校• 2015年4月開校の新しい小学校で、中学校が併設しています。 会議室、ホール、図書館、学童クラブも備えています。 数々の受賞歴があるシーラカンスアンドアソシエイツの設計です。 エリア 西 距離 流山おおたかの森駅から徒歩14分 住所 流山市市野谷621-1 電話 04-7159-7002 児童数 1454人(2019年4月時点) 運営 公立 西初石小学校 エリア 西 距離 流山おおたかの森駅から徒歩26分 住所 流山市西初石4-347 電話 04-7154-5863 児童数 773人(2019年4月時点) 運営 公立 流山北小学校 エリア 西 距離 流山おおたかの森駅から徒歩35分 住所 流山市加1-795-1 電話 04-7159-5674 児童数 634人(2019年4月時点) 運営 公立 流山市内の小学校では英語教育をいち早く導入したり、授業でタブレットを使うなど、進化する教育を目指しています。 2014年12月にはいじめ防止対策推進条例を施行して、教職員の責任や保護者の役割を明示にしました。 学校給食の食材に地元県産の流山米や千葉県産の牛乳を使うなど、食育にも力を入れています。 学級閉鎖や放射線量の状況も流山市のサイトで公開しており、正しい情報を知ることができます。 北エリア 八木北小学校 エリア 北 距離 流山おおたかの森駅から徒歩24分 住所 流山市美田208 電話 04-7152-4604 児童数 704人(2019年4月時点) 運営 公立 東エリア 小山小学校 エリア 東 距離 流山おおたかの森駅から徒歩13分 住所 流山市十太夫97-1 電話 04-7154-6937 児童数 1308人(2019年4月時点) 運営 公立 スポンサーリンク.

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流山市の小学校でいじめが3年間放置!学校はどこ?中学校の隠蔽がヤバい!

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10月21日にに関して記者発表をしたところ、多くのメディアで報じられ、多くの方からご連絡をいただいています。 30年前に流山の小学校で教員からの虐待被害を受けていた宇樹義子さんは、この問題を受けて、ブログにを書いてくださいました。 宇樹さんは、 「空気」が、「皆と同じであれ、集団の同質性を守れ、異なった者を排除しろ」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「快活であれ、いつも強くあれ、弱音は吐くな」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「優れた者/まともな者以外は痛めつけろ、殺せ」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「常に世の中の役に立つものであれ、世の中に『迷惑』をかける者は死すべし」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「目上の者にたてつくな」と言えば、彼らはそうする。 と書かれています。 流山市教育委員会や同様の対応をとる学校、教育委員会にもあてはまる鋭い指摘だと思います。 「空気」が人を傷つけ、場合によっては殺してしまうのです。 熱心な教師にこそ、こうしたリスクがあります。 他にも多くの方から、流山市教委や市立の学校において、いじめ、体罰等の被害を受け、まともに対応してもらえなかったという声をうかがっています。 流山市教委は、今回指摘した案件だけでなく、過去の案件を洗い出し、そのすべての被害者に対して謝罪、名誉回復、支援等を行うべきではないでしょうか。 各報道機関に流山市教委からのコメントが掲載されていますが、さすがにきちんと指摘しなければならないと思いますので、指摘させていただきます。 流山市教委は流山市いじめ対策調査会に対して、いつ調査を委託したのかという問題についてです。 では、市教委のコメントが 「いじめの重大事態を報告した17年3月の臨時会で調査を依頼したつもりでいた。 調査会の委員と市教委の間に誤解があった」と掲載されています。 教育新聞が間違っていないとしたら、このコメントはあまりにもひどいです。 というのは、2017年3月に調査会の臨時会は開催されていないからです。 当時の経緯はこうです。 3月8日 調査会定例会開催。 深刻な案件が発生しているという第一報の説明はあった。 (実はこの頃、市教委が重大事態認定をする根拠となった自殺企図があった。 ) 3月30日 市教委が重大事態認定。 4月28日 調査会臨時会開催。 3月中に臨時会は開催されておらず、3月に臨時会があったというのは明らかな誤りです。 たしかに3月8日に本件について説明はありましたが、これはまだ第一報であり、市教委が重大事態認定するのはこの日から22日も後。 3月8日の定例会で重大事態認定がなされたはずはありません。 昨日のTBSの「グッとラック!」で紹介された市教委のコメントでは、4月に調査会に委託したつもりだったとなっていました。 これならまだ話はわかります。 4月28日の臨時会のことを言いたいのだろうと思います。 たしかに、4月28日は本件への対応について審議がなされています。 ただ、重大事態の調査の依頼はありませんでした。 このことについては、証拠があります。 これは、本来調査会の臨時会を開催すべきだったのが、日程調整がうまくいかず、若干名の調査会委員がバラバラに集められていじめ事案への対応状況について報告を受けた会合です。 この議事録には、重大事態としての調査をどう進めていくかに関する議論が書かれており、私からは市の条例に沿って調査を行う必要があること、そして調査会に調査が委託されれば最優先で行うつもりがあることを述べています。 市教委から、早急に動いていきたいという言葉があって会合が終わっています。 こうした経緯があって、8月2日開催の臨時調査会において、市教委から調査会に調査が委託されることになるのです。 この7月12日の会合の議事録は、市教委が作成したものです。 こうした文書で経緯を確認すれば、4月の段階で調査委の依頼をしていたなどという説明はできないはずです。 そもそも、市教委が内容を確認した上で提出した中間報告書でも、市教委が調査会に調査を委託したのは平成29年8月2日と明記してあります。 中間報告書に関して事実の間違いはないと市教委は言っていたのであり、今になって3月あるいは4月に委託したつもりだったと言うのはあまりにもひどいと言わざるをえません。 なぜこうなるのか。 では市教委が法令を見ないということを指摘しましたが、見ないのは法令だけでなく記録も見ないのです。 市教委の担当者としては、報道機関に対してできる限りの説明をしているのであり、そこに嘘をつく意図はないと思います。 しかし、記録を見ずに、当時の担当者の聴き取りだけをもとに回答していると思われます。 当時の担当者の思いとしては、4月に依頼したつもりだったということなのかもしれません。 しかし、記録を見れば、市教委としてその説明には無理があることが明白です。 記録を見ないで担当者の言い分をそのまま発表しているので、結果的に嘘が生じるのです。 市教委がこのように担当者の思いだけをもとに説明し、結果的に嘘をつくことは、私たちが行った調査の過程でも見られました。 事実関係が不明な点について市教委に質問して回答を得ることがしばしばありましたが、どうも他の要素と整合しない回答が多くありました。 そうしたことがあると、あらためて根拠となる資料を出してもらい、資料との不整合があるとそれをまた確認するというような作業を行わなければならなくなっていました。 当初は、市教委の回答に嘘が含まれることなど想定していなかったので、こうした作業が想定外に増え、調査の負担が増大しました。 市教委のこうした状況は、いじめや体罰の被害者への対応にもきっと表れていたはずです。 被害者側の方々から、市教委に嘘をつかれたという声を多く聞いています。 資料を確認せず、担当者の思いだけで説明するので、市教委や学校の対応が合理化されやすく、被害者側ではひどい嘘をつかれたと受け止めるしかなくなるのだと考えられます。 今回の記者発表をするにあたって、私は約1ヶ月前に、市教委の指導課長に会見内容をすべてお知らせし、何かあれば指摘してほしいとお願いしていました。 指導課長からは、「 こちらの認識とは異なる点がございます」という回答があったので、具体的に教えてほしいとお願いしました。 ところが、指導課長からは「こちらの資料および担当者からの聞き取りから当方としては、認識が異なるとお伝えいたしました。 どこが、どのようにという点に関しては、このメールで議論する意思はありません。 」という驚くべき回答が返ってきたのです。 結果を見ると、認識が異なる点というのは、調査会に調査を委託した時期だったのでしょうが、市教委ではどの資料をもとに3月あるいは4月に委託したと判断したのでしょうか。 「議論する意思はありません」などとおっしゃらずにどのような資料をもとにどのような認識をおもちなのか言っていただければ、私からも7月12日の議事録などに触れ、認識を合わせることができたはずであり、残念です。 しかし、この指導課長のメールの文面は、市教委のいじめ問題等についてのコミュニケーションのあり方を象徴的に示すものとして貴重です。 何か指摘されても「認識が違う」として具体的な説明を拒否し、資料も確認せず担当者の思いだけの「認識」をただ守ろうとしている状況がよくわかります。 被害者側や報道機関は、市教委のコミュニケーションがこのようなスタイルであることを理解した上で、市教委とコミュニケーションをとる必要があります。 市教委は資料を確認せずに嘘をつくのです。

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児童の深刻ないじめ“3年間”放置 隠ぺい行為も?

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私は小学生のころ、千葉県流山市に住んでいた時期がある。 同市内の某小学校で、私は担任教師からの虐待と児童からのいじめを経験し、心を病んだ。 精神科医から複雑性PTSDとの診断を受けたのは、30代も半ばになってからだった。 ここしばらく、Twitterなどで「流山市教委」「いじめ」というキーワードを目にするようになり、そのたびに心がざわついていた。 しばし、なんとか無視しようと心の中でじたばたしたものの、今日、やはり逃れられないと観念したので、いろいろと語っておきたいと思う。 千葉大学教授・藤川大祐氏による告発「流山市教委の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について」 千葉大学教育学部教授の藤川大祐氏が、千葉県流山市教育委員会の、重大ないじめに対する法令違反かつ不適切な対応について記者会見を開いた。 これが10月21日。 「教委の個々の担当者は決して悪人ではないでしょう。 しかし、組織を動かせなかったり法令を見なかったりする担当者は、いかに熱心であってもそれでよいということにはなりません」核心はここよね。 「凡庸な悪」によってユダヤ人の大虐殺に至ったアイヒマンを思い出した。 — 宇樹義子 『発達系女子の明るい人生計画』好評発売中 decinormal1 「凡庸な悪」の叫び声が聞こえる 私が、の話を知って考えたのは、以下のようなことだ。 悪を行う者は、ずば抜けて有能であったり、明確な悪意があったりするとは限らない。 悪を行うものは、かえって凡庸で、まじめで、権力に従順で、目の前の仕事については誠実で、集団への適応力があったりする…… 私にはそうした、「凡庸な悪」アイヒマンの姿は、現代日本の教育委員会にありがちな人々の姿と重なって見える。 もっと言えば、率先して虐待を行う者、率先していじめを行う者…… 私に虐待やいじめを行ってきた人たちの姿も、アイヒマンに重なって見える。 彼らは実のところ、権力に強く恐怖しており、「空気」を読むのが得意だ。 自らが「排除され虐げられる側」に回るのを避けるために、自分の半径数メートルの日常の安全を守るために、周囲に対してとても従順に振る舞おうとするし、従順に振る舞うことができる。 私は、このように思う。 「空気」が、「皆と同じであれ、集団の同質性を守れ、異なった者を排除しろ」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「快活であれ、いつも強くあれ、弱音は吐くな」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「優れた者/まともな者以外は痛めつけろ、殺せ」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「常に世の中の役に立つものであれ、世の中に『迷惑』をかける者は死すべし」と言えば、彼らはそうする。 「空気」が、「目上の者にたてつくな」と言えば、彼らはそうする。 私には、彼ら「凡庸な悪」の叫び声が聞こえる。 私は、彼らに殴られ、引き倒され、持ち物を壊され、嘲笑され、罵倒され、排除され、たらいまわしにされ、無実の罪でつるしあげられながら、彼らの声にならない叫びを聴きつづけてきた。 彼らも彼らで、いつかの時点で「空気」の被害者なのだ。 彼らはおびえきっているのだ。 「自分よりも下に位置する者がいる、自分には力がある、自分は安全なのだ」ということを確認して安心するために、私の顔を踏みつける。 発達障害があり、彼らと同じようには振る舞えなかった私は、スケープゴートとして便利だったことだろう。 また同時に…... 私自身にもわずかに、「凡庸な悪」であった瞬間はあった。 不思議なことに、私への攻撃の空気がふっとゆるむ瞬間、クラス一のスケープゴートの座がほかの子にゆらぐ瞬間というのがあった。 そういうときには、私は「できるだけこの束の間の安全が続くように」「自分がいちばん下でないと思いたい」と願いながら、周囲と一緒になってほかの子をいじめた。 本当に申し訳なかった…… 許してくれとは言わない。 こういうことは、許す許さないの問題ではない。 一度つけた傷は消えないのだ。 本当に申し訳なかった。 私はあのとき、卑怯で狡猾だった。 背景にどんな理由があれ、私があなたを傷つけたのは事実だ。 申し訳なかった。 あなたが今、できるだけ元気で幸せでいてくれることを願う。 4年生のときの担任、S・N(女性)は、すぐに激昂して児童に暴力を振るったり、芝居じみて酔ったような声色で児童を説教することが多かったため、児童から嫌われていた。 運動会の練習をしていたときのこと。 児童は炎天下で立たされ、水も飲ませてもらえずに繰り返し練習させられている中、S・Nだけが日陰に立っている。 私はムッとして言った。 「どうして先生だけ日陰に立ってるの?」 S・Nは真っ赤になって、唾を飛ばして叫んだ。 「大人はいいんだ! なんて生意気な口をきく子なんだ! 」 私は食い下がった。 「どうして? どうして大人はいいって言えるの? どうして子どもは日当たりで大人は日陰って決まってるの? どうして私を生意気って言えるの?」 彼女は罵った。 「宇樹さん、あなたには目上の人を敬うという気持ちがないの? ふざけるのはいいかげんにしなさい!」 その日以来、S・Nから私への執拗な虐待が始まった。 しょっちゅう、何か口実をこじつけては私に暴力をふるうのだ。 体育のときに、集合に一瞬でも遅れたら「いつまでボーッとしてるんだ! バカにしてるのか!」と叫び、私の髪をつかんで引き回す。 理科の授業でアゲハチョウのさなぎをそうーっと触ったら、「そうするっていうのは、こうするのと同じことだ!」と叫んで、私の腕を痣ができるほどつねる。 私はもともとほかの児童から異端分子として見られていたので、かばってくれる児童はいなかった。 S・Nはいま思えばそういったあたりの空気を掴むのも非常に上手だった。 少しでも逆らえばすぐにキレる担任教師として、私をうまく見せしめに使って恐怖政治を敷いていたようなところがある。 それに、よくわからないけれども、これくらいの年頃の一般的な子どもの中には、根拠もなしに「大人=正しい」と素直に信じている者も多いみたいだ。 私は30歳過ぎてからこの話を知ってものすごく驚いた。 だからきっと、クラスの児童たちは、私が「目上の人を敬う気持ちのない生意気な子で、ふざけている」「バカにしたような態度でデレデレと集合せずにいた」「アゲハチョウのさなぎをひどく乱暴に扱った」と素直に受け取っていただろう。 そのようにして、クラスの児童の大半にしっかりと「宇樹=悪者」という印象が植えつけられたころ、S・Nはついに決定的な行動に出た。 学級会での濡れ衣による吊し上げ 以下は、私が大学の卒業論文として提出した私小説に書いた、そのときのエピソードだ。 いまこの話を詳細に思い出して克明に書くのは苦痛なので、まるっと引用して済ませようと思う。 少し長いが、申し訳ない。 (名前のみ、「S・N」と「宇樹」で差し替える) === 冬になった。 なにかを採決する、多数決の時間。 こどもらは全員、机にふせていた。 教室をみわたせるのは教壇にたったS・Nだけだった。 わたしは行儀よく、自分のうででつくった輪のなかに顔をうずめていた。 その輪のなかで、つくえの表面にほられた「死ね」という文字があまりに近すぎるためにぼやけてみえるのを、見るともなく見ていた。 じぶんの息が、じぶんの胸をあたためる、そんなうすら眠たい時間のなかで、その日の「罰」ははじまった。 「宇樹さん」妙に毅然とした声でS・Nが呼んだ。 一瞬で全身が耳になって、はりつめる。 ちかごろひんぱんにわたしをおそう、あの感覚にじぶんをうばわれそうで、あわてて伏せたままわたしは、おおきな声をはりあげて返事をする。 「あなたはいま、自分がいったい何をしたかわかっていますか?」S・Nは、そう質問をつづけた。 わたしは伏せたまま、正直にわかりませんとこたえる。 だって、こんな質問をされる理由じたいが、わたしにはわからない。 それにむっとして、そっくりそのまま、わかりませんとこたえてやる。 「顔をあげなさい!」S・Nはさけぶ。 どうやらお気にめさなかったようだ。 あなたは今いったいなにをしていたのかときいているんです、ハキハキとかみしめるように、S・Nはいう。 わたしはていねいにこたえる。 わたし、なにもしてません。 S・Nはくりかえす。 答えなさい。 なにをしていたの。 なにをしていたの。 なにをしていたの。 S・Nはじょじょに顔を血をまっかにそめながら。 そのことばが、わたしをきょうもぱんぱんにふくらます。 じぶんがなにをしているのかわかってないのは、あんたのほうだ。 わたしは、だまされない。 この世のぜんいんがあんたにだまされようと、わたしだけはだまされない。 「私はなにもしてません。 いったい私がなにをしたっていうんですか。 おしえてください」 「知ってるくせに、ねえ? どこまでしらばっくれる気なの、この子は」 S・Nは、こんどはきみのわるい陽気のていで、両のまゆを上下しながら教室をみわたす。 そのことばでこどもらに、宇樹義子がいかに軽蔑すべき存在であるかを教えこむ。 いつしか、採決がきまるまで机にふせるというルールは完全にとかれ、クラスの全員がわたしを注視している。 背筋がゆっくりとつめたくなり、そして、熱くなる。 熱せられてわたしは、問いかえす。 「先生は、知ってるんですか」 S・Nは、舞うようにくるりとまわってみせる。 わたしの質問にはこたえない。 こたえない気だ。 ぜったいにこたえない気だ。 だって、やつは知っている、こんなときに、宇樹義子をかばってくれるような友人など、もうとうのむかしにいなくなっていることを。 それが、ときにさりげなく、ときにあからさまにつかいつづけてきた、じぶんのすてきなちからによるものだということを。 いかれてる。 狂ってる。 この女は狂ってる。 「おしえてください! 先生は知ってるんですか! 」わたしはさけんだ。 教室じゅうのまどガラスが、わたしの声にバンと音をたてる。 それがさいごだった。 S・Nはおおまたでわたしに歩みより、雪の結晶のかわいらしい刺繍のついたわたしのブラウスのえり首をわしづかみにする。 母がえらんでくれた、だいじなブラウス。 きれいなエリにはきっと、よごれたS・Nの手のあとがついていつまでも消えない、わたしはかたい棒きれのようになって、あしのうらは、手品のようにあっけなく、教室の床から剥がされる。 せめてこのからだが、あとすこしでも重かったらよかった。 強情をはるのもいいかげんにしなさい! 自分がやったことのみにくさをみとめて謝罪するまで、教室に入れてあげません! わたしはS・Nの魔法のてのひらにはねとばされて、こおった廊下にころがる。 きゅっと音をたてて、みがかれた床についたてのひらがひきつれる。 こちらを凝視する子どもらの肩が、一様にこわばっているのが見える。 すきなだけ廊下に立っていればいい、そういいのこしてS・Nは教室のドアをしめた。 ついで、教室のまえとうしろの扉に錠のかけられるかわいた音がひびき、それっきりこの小学校の廊下はしずまりかえった。 どうせ、その錠だって、前にひとり、うしろにひとりの子どもにいいつけて掛けさせたにちがいない。 死んでもあやまるまいとおもった。 先祖にちかってもそんな、みっともないことはすまい、まずはからだからながれでるまま、ありったけの涙をながし、ありったけのちからでこぶしをにぎりしめた。 わたしのうすい爪はぐにゃりと曲がって、おぞ気がはしり、それでもわたしはにぎりしめて、てのひらには血がにじんだ。 つかれた。 つかれたから、頭のなかでくだらない歌をつくって、声をださずにうたった。 何曲も何曲もうたった。 やけになってうたった。 うたいすぎて、からだがしんまで冷え、指先はむらさきいろになった。 トイレにいきたくなったが、ぬれぎぬといえど、そして担任の教師がいま、ちぢこまった子どもらにうわすべりした熱弁をふるっているといえど、立たされている身分のわたしが許可なしにトイレにいくのもどうかという思いがかすめた。 ああ、阿呆らしい。 この期におよんでそんなことを心配しているじぶんが阿呆らしい。 そうだ、いっそのこと、日がくれても、戸じまりのおじさんがかえってしまってもいさぎよく立ちつづけて、ぼうこうをハレツさせて、そこいらじゅうを尿びたしにして、まっさおになってぶっ倒れてやろう。 そこまでやればきっとわたしにだって、あのどこまでも恥しらずなS・Nを恥じいらせることができる。 そして、みなのウツクシイ同情をかってやろう。 同情だの、愛だの、皆が皆、すなおにだいすきなのだ、それがいちばん賢明だ。 ずらりとならんだ体操ぶくろのフックを、ひたすらにみつめた。 キルティングされた布でつくられた体操ぶくろ、その格子にあわさるステッチが、ぶよぶよとぼやけ、かさなりあう。 休み時間がやってきた。 チャイムが鳴りおわると、錠のはずされる音がし、こどもらが廊下へとながれだす。 わたしは立ったまま、かれらがわたしをとりかこむのを待つ。 ほんとうのはずかしめはこれからだ。 すべてが萎えてしまうのはこのあとだ。 遠巻きにわたしをかこむ、無数の子どもらの視線。 だって、この子はわるいこなんでしょ? ただそれだけを根拠として、わたしのすべてをいともかんたんにさげすんでみせる。 わたしもかれらも、たった一〇歳、うまれて一〇年、けれどわたしには、うまれかわったって真似できない、これまで生きてきたなかで、あれほどつめたくおそろしいものを、ほかに知らない。 えー、なに、なに?ズルだよ、ズル。 うそー。 やだあ、かわいそーう。 さむそーう。 たのしみにみちた憶測。 同情のかたちをしたちいさな祭り。 それらは、とてもおごそかにおこなわれる。 わたしにはもはや温度もない、感じることもできない、指のいっぽんをうごかす意志もない。 わたしは死体だ。 つまり死体なのだ。 かれらはきっとそういいたいのだ。 そういわれれば、だんだんとそんな気がしてくる、そしてついには、さからうちからさえわたしはうしなう。 === 簡単に言えばこれは、「担任教師S・Nが、宇樹を痛めつけるために、児童の誰にも真実がバレない瞬間を選んで、ありもしない罪をでっちあげ、宇樹を吊し上げた」というできごとだ。 人間はここまで狡猾になれるのかと、今でも私は舌を巻く。 結局私はこのあと、耐えきれずにウワァーンと声をあげて泣きながら「ごめんなざいーーーー」と叫んで教室に入れてもらった。 その後、児童からの私へのいじめが大幅に悪化したことは言うまでもない。 そして、その後 私は今までの人生の中で、あのときほどの屈辱を知らない。 なぜあのとき徹底的に抵抗しなかったのかと、今でも悔しくて震えてくる。 その一方で、誰かのひそひそ声や笑い声が私を嘲笑しているように思えて、怖くてたまらなくなる。 馬鹿らしいと自分でも思うけれど、あのころと同年齢の子どもたちがいまだに怖くて、すれ違うときに足が震える。 引用文の途中に出てくる「あの感覚」とは離人感のことだ。 魂が抜けたようになって現実感がなくなり、五感が鈍り、すべてが夢の中のできごとのように感じられるようになる症状。 トラウマ性疾患で起きる症状のひとつだ。 中学校から大学ぐらいのころはこの離人感がメインの苦しみで、誰に話しても理解してもらえなかった。 離人感は「解離」と言われる、心身のつながりがうまく機能しなくなる症状のうちのひとつだ。 解離の中には、解離性健忘と呼ばれる、解離している間の記憶が抜け落ちるものもある。 おかげで、ここ数十年の記憶はかなり薄いところが多い。 解離系の症状は最近はかなりマシになったが、正直言って、ずっと死にたい気持ちとともに生きてきた。 眠れば、今でもあの日のできごとが悪夢となって私を襲う。 全身に刺さる同級生らの侮蔑の目の冷たさが、どれだけ必死に説明してもだれもまともに聞いてくれない絶望の痛みが。 トラウマ治療を経てかなり回復した今は、あのシーンそのものをリアルに再現するような夢はほとんど見なくなったが、「周囲にたくさん人がいる中で何かの誤解を受けたり疑いをかけられたりして、必死に説明しても誰も聞いてくれない、あるいは説明しようとしても言葉が出てこない」という夢は週に一度は見る。 あれは私にとって、世界への信頼を決定的に裏切られるような経験だった。 あの日のことが少しだけ楽に思い出せるようにはなっても、忘れることは一生できないだろう。 私は今回、自分にとって最もトラウマティックな経験を書いただけで、小学校時代に受けた心の傷はほかにもたくさんある。 5・6年時の担任S・Mもそれはそれはひどかった。 不登校傾向の子どももたくさんいた。 そしてそういう子は、腕を無理やり引っ張られ引きずられて教室に連れ込まれていた。 そしてそういうできごとがみんな、ごく普通のことみたいに扱われていた。 なんというか、あの当時の流山市の小学校界隈自体が、そういう加害的な雰囲気に満ちていたとしか言いようがない。 きっとS・Nは、誰にきちんと問題視されることもなく、あのままのうのうと定年まで勤めあげたんだろうと思う。 だから、今回の報道を見ても「さもありなん」と思うばかりだ。 書くべきエピソードはもっとたくさんあるのだが、ちょっと今日はもう精神的に限界なので、ここらで勘弁してほしい。 ヒュー、当時私をいじめたやつら、見てる? 私が一度学級会でキレて、「私はきっと将来本を出して、私をいじめた全員の名前をフルネームで書いてやるから覚えてろ!」と言ったら、「ひどい、そこまでしなくていいじゃないか!」って言ったね。 なんか、ひどいひどいって言いながら感極まって泣きだしたやつもいたね。 それをS・Mが「喧嘩両成敗!」とか言って無理やりまとめたんだっけね。 S・Mも覚えてる? 私は鮮明に覚えてるね。 忘れたくても忘れられないよ。 夢に出てくるんだからね。 こういう苦しみのためにいったい私は何年の遠回りをして、いったい何百万ぶんの、あるいは何千万円ぶんの経済的な損をしたかなあ。 お前たちがお前たちの精神的安全のために私に与えたそういう損害について、お前たちマジでどう思う? そんなわけで、おかげさまで私も本を出したよ。 でも、お前らにはお前らの人生があるだろうから、お前らの名前は書かないでおいてやったよ。 優しいだろ。 悪かったと少しでも思うところがあるなら、謝りにこなくていいから、この本を1冊でも10冊でも買ってくれ。 そして広めてくれ。 私は、あのあとそれなりにツルッと世の中生き抜いてきたかもしれないお前らとは違った形で社会に関わっていくんだ、覚えてろ。 覚えてろ。 私も一生覚えてるから。 自分が自分のつかの間の安全と腹いせのために、ほかの子をいじめたという、自分の成した罪も含めて。

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