コロナ 聖書。 新型コロナから聖書“黙示録”の終末の時代を感じて

コロナウィルス感染症、聖書の通りだった!?欧米で巻き起こる終末論

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しかし今、中国に始まり韓国、日本と感染者が増え続け、想像を超えた広がりをみせています。 ひょっとすると14世紀にヨーロッパで流行し、2万人が亡くなったペストのような状況が世界中に再現されるのではないかと懸念したりもします。 その時は当時のヨーロッパの人口の半分くらいが亡くなったと言われています。 実際、今もなお感染者の増加が絶えず発表され続けているうえに、多くの人は検査待ちの状態や検査結果を待ってる人々もいますから、症状のない感染者も合わせると、さらに増え続けることも考えられます。 さらに問題なのは、検査を受けて陰性と診断されたのに、2回目には陽性反応が出てしまうケースも少なからずあるようです。 つまり陰性の間はひたすら歩き回っていたということになるのではないでしょうか。 また陽性反応が出て治療を受けてやっと退院しても、再度発症する事例も起きているようです。 中国で感染が始まった頃の事例では、20代の女性が、20日程度の潜伏期間中に何の症状も現れなかったのに、その後、5人の家族が陽性となり、さらに多くの人に感染させたと言います。 ですから隔離期間は14日あれば大丈夫だと言われていたのですが怪しくなってきました。 新型肺炎の治療がパンデミックを起こした場合、軽症の時は家に居ることができるとしても、もっと重症になるとそこから病院に行っても受け入れてもらえず、治療も難しくなり、その頃には既に肺などの臓器が破損した状態になってしまうということも予想されます。 世界最大の生産国である中国の経済が麻痺して、世界中の経済が打撃を受けています。 工業製品、生活必需品、食料品が全て値上がりして、株式市場はパンデミック恐怖によって急落しているそうです。 杞憂かもしれませんが、正体不明の恐怖にさらされて収入の道が閉ざされた場合、食料価格の上昇が懸念されます。 パニックに陥った人々は食料確保に血眼になるかもしれません。 このような状況があとどれくらいの期間続くでしょうか?一か月でしょうか?それとも一年?最近のテレビ報道では、収束までは今年いっぱいかかるとも報道されるようになりました。 現在パキスタンのような中東諸国では、ウイルスが問題ではなく、このバッタの群れが大きな災害となっているようです。 なにやら旧約聖書の出エジプト記で描かれているシーンを彷彿とさせてくれます。 このバッタの群れは2月に発生したのですが、気候が暖かくなれば繁殖力がより強力になると言われているので、今後どれほどたくさん増えるか全く予想もつきません。 日本はほとんどの食料品を輸入しているのですが、この輸入がウイルスのせいで妨げられた場合、約1ヶ月後には武漢のように食料価格が数倍に上昇することだってありえそうです。 ですから、コロナウイルス自体が、無事収集したとしても、バッタの群れによって食料品の価格が急騰することもあります。 去年から燃え続けているオーストラリアの山火事と、地球温暖化による気候の問題や、今のような感染症流行、バッタの群れによる全世界的な危険。 そうなると必然的に世界的な経済破綻が起こり、またこのタイミングで、もし日本に地震が追い打ちをかけるように起こったら、どんなことになるでしょうか。 聖書の警告 危機をあおるような事を書き連ねましたが、ふと、新約聖書黙示録の「獣の刻印」の艱難時代を思い描かざるをえません。 この事態が収集されず引き続き発展していって、そして最後の時代の、イエス・キリストの再臨までつながっていくのではあるまいかと・・・・。 仮に今回は神様の恵みでどうにか収拾がついて乗り越えたとしても、黙示録を読む限り今回のような災害は必ずまた襲って来ることになります。 そして次にやって来る時は、今よりはるかに重大な危機が迫ってくるでしょう。 聖書によれば、今私たちが住んでいるこの世界は、決して永遠に続くわけではないことが分かります。 聖書はこの地球の終末の時、人類歴史に終わりが来ることを明らかに宣言しているからです。 またその時に何が起こるかについても詳しく書かれています。 いま世界で繰り広げられていることは、イエス様の再臨と切り離して考えるわけにわ、いかないと思われます。 人々がコロナ・ウイルスを恐れているのは、死ぬことを恐れているからです。 私たちは、死に備えなければなりません。 死というのは、老若男女問わず、誰もが避けられないことです 聖書には、以下のような記述があります。 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりです。 命です。 わたしを信じる者は死んでも生きるのです」。 「また生きて私を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。 あなたはこの事を信じますか」。 ヨハネ11章、25-26節 死は自分一人で迎えなければならないものであり、恐ろしいはずのものです。 ところがイエス様は、復活であり命であり、イエス様を信じる者は死んでも再び生きると断言しているのです。 死は終わりではなく、新たな始まりだというのです。 だとすれば、死の準備と、イエス・キリストを信じることとは、極めて密接な関係があるように思われます。 人は死が近づくと、残される妻子たちに対する心配ではなく、神様の存在に対する恐怖だそうです。 聖書によれば、死後は自分を創造された絶対的存在者の前に立たなければならないことを教えています。 それまでは世間的に成功し、何でもすることができるかのように振舞って生きてきたとしても、最終的に自分の死の前に立った人間は、恐怖を持ったまま神様の存在を考えて目を閉じることになります。 ですから生きているときに、神様の存在に想いを致すことは、人間らしく生きることの延長線上にあると思うのです。 神様を認めるとは一体どういうことでしょうか? 普通私たちが何かをする時、自分の良心に照らして、こんな言い訳をすることがあります。 「これぐらいはいいだろう」、「ほとんどの人がやってるから」、「これぐらいの過ちは見逃してもらえるだろう」など、当り前に自分の行動を正当化します。 今、医療の現場でマスク不足が叫ばれているのですが、ある県会議員が医療用マスクを高額でネットオークションにかけてヒンシュクをかいました。 確かにその時の法律には違反していません。 ところが、神の目には見逃しがありません。 神は聖なる方、きよい方、罪を徹底的に憎む方、そのわずかな罪をも見逃すことがありません。 「神」とはそのような方であり、逆に相対的で曖昧な存在ならば、「神」とは言い難いです。 この神の絶対的基準からすれば、人はだれ一人、この世に存在できません。 キリスト教を好意的にみる方でも、クリスチャンになるということは、自分で努力し、罪を犯さないように修行して、そして一生懸命掟を守って、頑張って、 ついに罪を犯さないようなそういう人間になって初めて、クリスチャンになれると考える人がいます。 しかし、そんな日は永久に来ません。 「正しく清い人になろう」と頑張れば頑張るほど、無理だということがわかるはずです。 人間は自分で自分を救うことはできません。 だから、私たちの身代わりとなって罪の償いをしてくださる方、イエス・キリストが、私たちをご自分の完璧な生涯で贖ってくださるので、私たちは神の前に立つことができるのです。 その人が 立派だったわけではありません。 キリストを信じたのです。 神の存在を意識せずに生きてきたことを悔い改め、キリストが、まさにこの自分のために贖いの死を遂げてくださったことを信じたのです。 また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ、私たちの神よ。 あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方、あなたが万物を創造されました。 み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。 」 「世々限りなく生きておられる方を、礼拝した」って書いてあるんですが、天では、神を礼拝しているんですね。 「昇天のキリスト」という像があります。 トール・バルトソンという作家がイエス・キリストが、オリーブ山から、昇天する場面を描いたものです。 それを実際に見た人は、大したことがないなといって、失望するらしいのです。 ところが「昇天のキリスト」なので、作者は、人が、下から見上げた時に一番魅力的になるように造っているのです。 ですからキリストと同じ目線に立ってる時には、「なーんだ」ということになるそうです。 でも、その像の前で、跪いて、下から見上げると、何とも言えない神々しさを感じるそうです。 すなわち、へりくだる人にだけ、見えてくる神の新しい発見があるのだそうです。 これと同じように、教会で礼拝するときにだけ気づく事があるんです。 神は教会を通して、へりくだった魂に働かれる方なのです。 自己充足されている神は、人間に礼拝されなかったからと言って困るわけではありません。 礼拝すらも、神が人に、神の偉大さや恵を人に知らしめるために与えて下さった機会なのです。 先ほど読んだ、3章の11節の後半、 あなたが万物を創造されました。 み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。 この「み心のゆえに」存在しているものの中には、御心に反している悪者もいるんです。 御心にかなうもの以外は存在できないと言うのだったら、この瞬間に全員消滅します。 あからさまな悪意や、独裁者や、恐るべき力があるんですが、それらをみこころのゆえに、ある期間、存在させています。 私たち人間は、近視眼的にしか事象を捉えることができません。 「神様が正しかったら、どうしてこんなことが起こるんだ」と呟きがちです。 しかし、天に召されたときに、なぜそうだったのかという舞台裏が全部明かになるのです。 その時に神様の賢さが改めて分かって、「礼拝」が途切れません。 神に対する讃美が途切れません。 あれも、これも、全部意味があって間違いがなかったんだと気付かされます。 神様はそこに行く資格を与えるために、イエス・キリストを遣わして下さったのです。

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聖書の観点からの、コロナウイルスなどの疫病(えきびょう)について

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神を恐れ信じ敬いなさい。 今日もお疲れさまでした。 私も毎日の日課になり、夜もブログを書いています。 習慣は、凄いもので書かないとおれませんね。 それにはいいことを書かないといけません。 これは上手な、優れたということではなく。 心に残る、プラスになること 励みになること、力になることを書くっていうことです。 最近凄い勢力で、コロナウイルス感染症、は世界に広がっています。 こんなに全世界まで広がるとは、これは人間の技では出来るものではありません。 聖書に書いています。 聖書の歴史でも、自然災害は神の裁きだって言っています。 この世の災害、事件、全ては、悪魔(サタン)の仕業ですが 神の許しがないと、サタンは指一本も触れることができない、聖書に書いています。 まず災害、病、苦難。。。 などに遭うと気が付くことがあります。 それは自分の、弱さ、愚かさ、罪深さ。 貪欲な心、高慢な心、嫉み、そねみ。。。 果てしない心の潜む罪にきずかされます。 それにきずいたらどうすべきか? 今の世界は、物に恵まれ、もう贅沢三昧。 先進国は大半の食料を独占して 発展途上国の飢餓を起こしてるのです。 弱者切り捨ての世界です。 先進国の牛肉を作るために、凄い肥料を、いい肉を作るために、消費しています。 凄い量ですよ。 すごくおいしい肉を作るために、凄いお金をかけてるんです。 貪欲、贅沢欲。。 もうきりがないほど、無駄な消費を、無駄遣いをしてるのです。 これは何でもないように思うでしょうが、とてつもない罪なんですよ。 実感してないようですが、スーパーマーケット、毎日のロス処分。 すごいですよね。 料理屋、料理店、、、捨てまくっています。 それは、いかにおいしい、良いものを 要するに人からの、評価が一番になってるんですよ。 贅沢な悲しみです。 神は今何を言っているのか?悔い改めなさい。。 罪に気が付きなさい。。 それは、何が一番恐ろしい罪なのか?それは神を信じ敬わないことなんです。 神様とは何か?それは、この世をすべて造られた、支配しておられる方です。 日本は、自分らで神を作ってるのが殆どです。 それを、偶像礼拝っていうのです。 これは聖書に書いていますが、恐ろしい罪なんです。 神を自分のペットにしてるんです。 それにきずかないといけません。 今のコロナウイルス感染症、まさしく、神の裁き 神が罪を悔い改めなさい、唯一なる神を、恐れ信じ敬いなさい。 そういってるんですよ。 これは全て聖書に書いています。 昔の歴史で、神の裁きに遭ってる事を明確に言っています。

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聖書と新型コロナウイルス

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2020年3月3日 『 聖書の観点からの、などの疫病(えきびょう)について 』 (以下の、:21章7~19節(=いまから2000年近く前に書かれた)には、世のおわりに向かう中で、疫病や、偽(いつわ)りの宗教や、戦争や、などが発生することが預言としてつづられています) 『そこで、彼らは(=キリストの弟子たちは)イに尋ねた。 「先生、では、そのことは(=世界のおわりは)いつ起こるのですか。 また、そのことが起こるときには(=世のおわりの前ぶれとしては)、どんな徴(しるし=できごと)があるのですか。 」イは言われた。 「惑(まど)わされないように気をつけなさい。 わたしの名を(=キリストの名を)名乗る者が大勢現れ(=偽りの宗教などが多くあらわれ)、『わたしがそれだ(=わたしがメシア(=救い主)だ。 わたしが神だ)』とか、『時が近づいた(=もうすぐ神がおりてこられる。 もうすぐ世がおわる)』とか言うが、ついて行ってはならない(=だまされてはならない。 これらカルト宗教などは、すでに多くあらわれています)。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。 こういうことがまず起こるに決まっているが(=これらはもうおきています。 や、などが、これにあたります。 また実際に中東の周辺では紛争(ふんそう)がたえませんし、今後などがおころうとしています)、世の終わりはすぐには来ないからである(=現にといった大きな戦争から、すでに70年がすぎています)。 」そして更(さら)に、言われた。 「民(たみ)は民に、国は国に敵対して立ち上がる(=民族や国同士のあらそいのこと。 これは世界中のいたるところで見られています。 とくに周辺は、たえず緊張状態にあります)。 そして、大きながあり(=世界中で、大きなが頻発(ひんぱつ)しています)、方々(ほうぼう=いろいろなところ)に飢饉(ききん=食べ物がないこと。 これも世界中でみられています)や疫病(えきびょう=エボラや、また今回のなどが、これにあたります)が起こり、恐ろしい現象や著(いちじる)しい徴(=これは天災などのこと。 また月が赤くなる、太陽が暗くなるといった現象のこと)が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々は(=キリストを信じずに世に属している人々は)あなたがたに(=キリストを信じている人たちに)手を下して迫害(はくがい)し(=これも他の国ではおこっています。 今後ますます拡大することになります)、会堂(=いまでいう裁判所)や牢(ろう=閉じこめるための牢屋(ろうや)、施設など)に引き渡し、わたしの名(=キリストへの信仰)のために王や総督(そうとく)の前に(=国の権力者や、取り締まる役人などの前に)引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証(あか)し(=キリストへの信仰の証言)をする機会となる(=神と結ばれている者たちは、このときに必ずキリストへの信仰を言いあらわすことになります)。 だから、前もって弁明(=言いのがれ)の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者(=取り締まったり、迫害したりしてくる者たち)でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである(=キリストは、わたしたち信仰者に、神の霊(=)をやどしてくださっています。 このが、わたしたちに言葉や知恵をさずけて、導いてくださるのです)。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる(=すべての人が神を信じるわけではないので、肉親や身近なところからも迫害がおこります)。 中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる(=世の人々はサタンに属しているため、神に仕える者たちを敵視して、憎むことになります)。 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命(=永遠の命)をかち取りなさい(=このように、いまの時代は、キリストがのこしてくださった言葉どおりに、世のおわりに向かって進行しているのです)」』 torokkotorokko.

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